壱
祖母の通院に付き添ってくれ、と母親に頼まれて、
「お待たせ、千景ちゃん」
どれほど経過したか、祖母が千景の前に現れた。
千景の祖母ちとせは、まさに〝おばあちゃん〟の典型だった。シミの浮いた皺だらけの顔。真っ白になった短髪。杖をつくほどではないものの、軽く曲がった腰。黒地に赤い薔薇の模様が入った毛玉だらけのセーターを着て、良く伸びそうな紺のズボンを履いている。優しそうなおばあちゃん。
「ごめんねぇ、待たせたでしょう」
「そうね」
千景は遠慮せず、かといって責めるようでもなく、淡白にそう言うと、椅子から立ち上がった。黒のワンピースの裾を払い、祖母を見下ろす。
「お会計でしょう。行きましょう」
女子高生らしからぬ大人びた口調で祖母を促し、手摺にかけた灰色のコートを拾い上げる。
会計窓口のカウンターの前は、長蛇の列だった。ヘアピンのように折れ曲がった列の最後尾に立つ。五分ほど待って番号札を発行してもらい、列の脇に置かれたソファーの空いた場所を見つけて、祖母を座らせる。壁に掛けられたモニターにはたくさんの数字が並んでいたが、ちとせの番はまだ先だ。
祖母と話すような話題もなく、千景はぼんやりと目の前の列を眺めた。カウンターの前から、手続を終えた女性が離れていく。三十前後のその女性は、ふらふらと斜めに歩いた。そして、手から小さい紙を落とす。
千景は直ちに彼女に駆け寄って、番号札を拾い上げた。彼女の腹は、大きかったのだ。
「ありがとう、ございます……」
女性は蚊の泣くような声でお礼を言う。長い髪の合間から覗くその顔は
千景は何も言わず、紙を差し出した。女性は力なく腕を上げ、紙を受け取ろうとして――そのまま崩れ落ちた。
声を殺して泣く女性を、千景はしばらく無言で見ていたが、やがて彼女の傍らにしゃがみ込み、そっと手を取った。ゆっくりと祖母のもとまで連れて行く。孫の意を汲んだちとせは立ち上がると、女性に席を譲った。
涙ながらに礼を言う女性に、番号札を渡す。そこから『ナルシマ ユキコ』の名が読み取れた。
「どうかしたのかい?」
ユキコの嗚咽が収まった頃、ちとせが心配そうに声を掛ける。ユキコは、自らの膨らんだ腹に手を当てて、「子どもが……」と小さく喋った。
臨月のユキコは、妊婦健診に来ていた。そこで診察を受けたのだが、なんと胎児の心拍が低下していると宣告されたらしい。ひとまず経過観察ということで帰されたものの、そう告げられて平静でいられるはずもない。夫の付き添いもなく一人で抱えるしかなかったユキコは、ここに来て千景の親切を受けて、
「どうして……」
ユキコは嘆く。普段の生活に細心の注意を払っていたというのに、と自分を責める。
祖母は、そんな彼女の背をさすった。
「大丈夫だよ。お前さんは、何も間違えてはいないよ」
優しく言い含められて、ユキコの目に再び涙が浮かぶ。
祖母は、ユキコが落ち着くまで、辛抱強くその背をさすっていた。そのおかげか、彼女は微笑みを取り繕えるくらいにまで回復したらしい。先程よりもだいぶしっかりした声で千景とちとせに礼を言い、頭を下げた。
祖母は、我がことのように嬉しそうに頷く。
そして、
「ところでお前さん。
すべてを台無しにするような発言をした。
腹帯。妊婦が腹に巻くという布。戌の日の安産祈願の際に着用し、妊婦と腹の子を守るという。
一瞬だけ虚を突かれたユキコの目から、火花が散った。唇を引き結び、顔はみるみる赤くなる。しかし周囲が称賛するほどの忍耐でもって彼女は罵声を堪え、「しています」とただの一言応えた。
祖母は満足そうに頷いた。
「そのまま忘れずにしているんだよ。それから……そうだ」
ちとせは脇に抱えていた鞄を漁り、くたびれた財布を取り出した。小銭入れのチャックに付いた根付を外し、ユキコに差し出す。
「これは、この子の父親を産んだときの御守さ」
ちとせは思い出話を交えながら由来を語り、如何に利益があるかを語る。そして、「持っていきなさい」とユキコの手に握らせた。
「ありがとうございます」
ユキコは、げんなりとした顔で受け取った。
端から見て迷信深い老婆のお節介を、千景は黙って見守っていた。ユキコの迷惑を察しつつ、口を挟むことをしなかった。ただ戌が迷惑そうなユキコの荷物に紛れるのを見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます