肆
犬の吠え声が止まる。
みずみずしい果実を叩き潰したときの感触が、不快な音とともに手に伝わった。
泥の頭は真っ二つに割れた。そのまま割れ目が広がって、中身をさらすように左右に転がった。中はからっぽだった。壺のように、空洞がそこにあるのみだ。
――びちびちびちびち!
泥の両手が、陸に上げられた魚のように、地面を叩きながらのたうった。周囲に泥が跳ねる。女の腰と
かと思うと、急に息の根を止めたかのように静止して、溶けるように形を崩した。
一方、割れた頭は泥の中へと沈んでいく。
千景は無言で
千景の唇は、微笑みの形を作っていた。
「あ、あんた……」
引きつった声で千景を呼んで、女は言葉を失った。女の傍らで、犬も三角の耳と丸い尾を立てて硬直していた。
「大丈夫」
再び表情を
「どうにかする」
しばらく呆然としていた女だったが、やがて頷いた。あの一撃で化け物を退けられたとは考えていなかった。あの程度でどうにかできるならば、傍らの犬がとっくに退治している。できないから、女はこうして泥の中で耐えている。
女は悲壮な表情で空を見上げた。満月はまだ雲の中。赤ん坊を母へと帰す道は、開けていない。
犬が再び唸り声を上げた。地面に向けて牙を剥き出しにしている。
千景は、静かに鉞を構えた。
あぶくの予兆なしに、勢いよく泥の手が飛び出した。宙を掻いている最中に、犬が体当たりを食らわせる。仰け反って倒れ込みそうになったところを、千景はすかさず鉞を振るった。
刈り取られた手は、泥の中に消えていく。
息吐く間もなく、犬が泥の中を駆け出した。千景も泥の沿岸を駆け、後を追う。再び現れた手に犬は食いつき、地面から引き千切って放り投げた。
その後も、千景と犬とで、女の周りに生える泥の手に対処する。ときに手分けして。ときに連携して。赤ん坊が捕らえられぬよう、確実に伐採していく。幸いなことに、
けれど。頭が、出てこない。
鉞を振るいながら、千景は眉を
化け物は、そこを狙うつもりなのだ。
何本目かの手を叩き切って、千景は夜空を見上げた。月はまだ雲の向こう。――だが、雲の流れが速い。希望が持てるかもしれない。
女もそれを感じているようで、赤ん坊を抱え、月を見上げて、うずうずとしていた。眼は切実そのもの。顔は祈るように真剣だ。
千景は再び鉞を振るった。慣れない動作と疲労で、攻撃は鋭さを欠いてきた。半ば自棄気味に、二度三度と刃を叩きつける。
化け物は、そのときを待っていた。
二本同時に生えてきた手が、地面につく。そこからぐっと身体を持ち上げて、〝それ〟が勢いよく現れた。のっぺらぼうの顔、泥が流れ落ちる身体。勢いに乗じて女へと首を伸ばし、赤ん坊を喰らおうと口を開ける。
雲が晴れたのは、その瞬間だった。
月の光が差し込み、道が開かれる。
危機一髪の最中で、女が取った行動は大胆だった。とっさに布にくるまったままの赤ん坊を頭の上に掲げる。片手で背中から尻のほうを支え、もう片方の手を添えて。まるでバスケットボールのシュートスタイル。
「お行き!」
手首をしならせて、女は赤ん坊を月へと放り投げた。
白いくるみが、空へと飛んでいく。
――あああ。
獲物が離れていくのを惜しんで、化け物は悲嘆の声を上げた。片方の手が、赤ん坊を追って伸ばされる。指先がくるみの先に引っかかろうとしたところを、白い犬が体当たりして、腕ごと逸らした。
化け物の手からとうとう逃れた赤ん坊は、満月に吸い込まれていくかのように、空へと上っていく。月に近づくにつれてその身体は光を放った白い玉になっていき、やがて流れ星のように何処かへと消えていった。
ほう、と全てを見届けた千景の口から息が漏れる。
――ああああああ。
泥人形の形をした化け物が
「……困るんだよ。あんたみたいなのが居ちゃあ」
声は、千景のすぐ隣から上がった。泥から這い出た女が、異界と現世の境に立つ千景の傍まで来ていた。
白いシャツの前側と下半身を泥だらけにした女は、千景から鉞を奪い取ると、ゆっくりと化け物に歩み寄った。泥だらけの身体の真横に立って、鉞を大きく振りかぶる。
「――消えな」
月の光を浴びて、鉞の刃の先端が銀色の軌跡を描く。
ぼと、と泥の頭が地に落ちた。
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