拝読させて頂きました。
今回は批評ではないです(笑)
ふと、作品を拝見して思った感想ですが。
世界を救うためには自分が全世界の悪になるという
宮崎駿監督の作品でよく使われる『自己犠牲』という概念ですね。
ふと、思うのですが
共通の敵を倒すと一時的には争い無くなるのですが、完全に無くなるわけではなく
また新たな共通の敵を生み、もしくは生まれ
その度に犠牲者はさらに増えていく。
これが、現代の戦争や狭い意味では虐め問題
社会の縮図のように思えます。
世界を洗脳し、どう解決するのか。
答えのない、難解な問題。
この先、読者の意表をつくような解答がこの作品を読む意味の一つに思えました。
作者からの返信
いつもありがとうございます。
私もナウシカとか大好きですね。
今でも映画も漫画もくり返し楽しんでおります。
しかしラスの行動についてのアイディアの下敷きは、宮崎駿のそっちではなく、
ドストエフスキーの『罪と罰』ですね。
主人公やヒロインの名前もそこが由来のもじりとなっています。
罪と罰の主人公の名前が、『ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ』
ヒロインが『ソフィヤ』
という、もともと『もし罪と罰がファンタジーなラブコメだったらこうなるんじゃないか』がコンセプトの作品だったりします。
この世界の現代の安全保障体制については、最序盤からくり返し世界設定として明示されています。
一番詳しく説明されている回は『手紙を読む。そして僕は僕を知る』です。
簡単に説明しますと。
魔王討伐のために結成された世界規模の大同盟が、
魔王がいなくなったあとは、目的を失って機能不全を起こしたがゆえに、逆に加盟国同士が牽制しあって互いの行動を縛る足かせとして作用するようになりました。
世界規模でそれがおこったため、極度に戦争を起こしにくい情勢となっております。
集団安全保障体制が極限まで行き着いたせいで、どの国もそこからの逸脱や脱退という選択肢のリスクが極大化されてしまって、身動きがとれない状態ですね。
ラスの構想とは全人類共通の敵、魔王になり、それをゾーニャが打ち負かすことで世界平和とゾーニャの断罪を一緒に行うと言うものでしょうが、ゾーニャにしてみれば……ですね。
何ともせつない空回りなのか、その先まで計算しての事なのか。
ゾーニャの幸せを不器用に考えた精一杯の構想。どんなに遠回りしても良いから報われて欲しいものですね。
作者からの返信
さらに切ないのは、ゾーニャも彼の構想を知ったとして、
それを実行する理由や気持ちが120%理解できてしまうところでしょうね。
彼女こそがラスの、魔王の原型であると同時に、もう一人の魔王でもあるのかも知れません。
二人は悲しいくらい理解しあえてしまっている。
9割を殺して1割になれば、きっと争いは生まれないでしょう…争えば破滅。それこそ何も残らない。
そしてその道にゾーニャさんを付き合わせることは出来ない。ラスさんのやろうとしていることは、本当に世界に弓を引く行為。
今度こそ後戻りを許されない道だから…
作者からの返信
世界を作り替えるというのは一人の人間が背負うには、あまりに大きな重荷ですね。
なら二人ならどうかといえば、やはり二人でも重すぎる。
ならば一人で背負ったほうがいい、というのが彼の結論なわけですね。