第16話

 藤友達子の声を押し殺した笑いが、喧騒に満ちた教室に染み渡る。


 翌日の昼休み。教室での昼食中、明音は事の顛末を掻い摘んで彼女に説明した。諸々を聞いた彼女は、愉快で仕方がないように腹を揺すって笑い続けた後、大きく息を吐いて落ち着く。


「まさかとは思ったけど、霜鳥も馬鹿みたいな計画を立てるものね。アイツは芸人の才能もあるのかもしれない」

「君は他人事だから面白いかもしれないけどさ。こっちからすると勘弁してほしいよ」


 明音は紙パックのお茶を口の端で啜り、半眼で達子を睨んだ。


 『ラブレターは霜鳥千晴、辻野紗季、佐倉燈子の三名による共同著書だった』というのが、今回の一件の真相だ。だが、それは表面的なものに過ぎず、肝心な『why』――つまり、三人がそんな回りくどいことをした動機は、三人からの告白の後に語られた。




「最初は私が君に告白するつもりだったんだ。本当に、それだけだった」


 喫茶店の一席で彼女はそう語った。俄かには信じ難い。


「それがどうして、こんな面倒な真似を? お陰で苦労したよ」

「悪いとは思ってるよ。でも、どうか最後まで言い訳を聞いてほしい」


 言い訳と臆面もなく言われては聞くしかないだろう。明音は口を噤む。その傍ら、燈子と紗季が気まずそうな、何とも形容しがたい絶妙な表情で顔を背け始めた。


「私から君に、『付き合って』って言おうと思ったんだけどさ、紗季さんと燈子も君のことが気になっていたみたいだから、一応報告だけでもしておこうと思って、そう伝えたの」

「そしたら?」

「『待ってください。早い者勝ちですか? ずるいです』と、『それなら私も』――って。そんなことを抜かした」


 どちらがどちらの台詞を言ったのかは聞くまでもないだろう。


 燈子は恥ずかしそうに耳まで染めて俯き、紗季は申し訳なさそうな面立ちだ。


「わざわざ前もって報告してくるってことは、フェアプレイでいきたいんだろうと解釈した。だから、お言葉に甘えてな。千晴にも悪いとは思ってるよ」

「本当に? だったら今すぐ諦めてよ」

「明音。アレがアイツの本性だ。人を蹴落とすことを苦とも思わない」


 にこやかに蹴落とそうとする千晴と、それを告げ口する紗季。二人のやり取りを呆れながら眺めた明音は、「いいから続けてよ」と疲労の滲む声で先を促した。


「――まあ、三人で一斉に告白してもよかったんだけどね、今みたいに。でもさ、そうすると、君がハーレム至上主義でもない限り、三人のうち最低二人がフラれる訳でしょ? 普通に三人とも拒まれる可能性すらある。すると、今まで友達として仲良くやってきたのに、そこに亀裂が生じかねないワケ」


 選ぶとはつまり、そういうことだろう。明音は重々しく頷く。


「だから、一計を案じた」

「それが、イニシャルだけのラブレター?」

「その通り。我ながら妙案だと思ったよ。もちろん、今はこのザマだけど」


 そう前置きをした千晴は、氷の溶け切ったアイスティーを一口飲んで続けた。


「私達三人は同じイニシャルだった。そこで、イニシャルだけを書いたラブレターを君に差し出すことにした。すると、もしも該当者の中に君の意中の相手が居れば、君は喜んでその人物が差出人じゃないかと会いに来ると睨んだ」


 まるで世紀の発明をしたとばかりの語り口が度し難く、明音は眉根を寄せた。


「そしたらその組み合わせでパートナーは成立。それ以外の人は知らぬ存ぜぬ。これで、関係は傷付かずに済むし、見込みのある人は無事に交際まで漕ぎつけられる」


 そう語り切った明音を、他三人はしばらく黙って見詰めていた。


 燈子と紗季が明音の意見を求めるように目を向けてくるから、頷いた。


「……なんて頭の悪い計画なんだ」

「ですよね。私も止めたんです――代案が無くて止めきれませんでしたが」


 燈子は額に手を置いて心底から同意を示す。だが、紗季は軽い擁護を挟んだ。


「ただ、まあ、惜しいところまではいっていたんだ。実際、お前は私達に会いに来た」

「…‥んぅ、それは確かにそうだけど」

「ただ、そこで計算違いが一つ生じた。それが、種明かしが遅れた理由だ」


 紗季が困ったように笑うから、明音は腕を組んで首を傾げる。


「何かあったっけ?」


 何か三人の計算を狂わせるような奇天烈な行動をしただろうか。そんなことを考える明音に、千晴もまた、困ったような、それでいて少し嬉しそうな顔で答えを明かす。


「――君が、三人とも好きだって言い出したんだ」


 頭を抱えそうになった。羞恥が全身を襲い、顔を隠すように手で覆う。


 湯気でも出てくるんじゃないかと染まり切った顔で「あぁ」とか「うぅ」とか唸る明音に、燈子は不満げな顔で追撃した。


「最初にそれを聞かされた私の気持ち、考えてくださいね? 『あ、私を選んでくれたんだ!』ってニコニコしてたら全員好きだとか言い始めて、でも、私のことも想ってくれるから諦めることもできないし。……辛かったので」


 返す言葉も無い。明音は真っ赤な顔を上げて彼女に「ごめん」と謝る。


「三人とも脈無しだったら、適当な人に協力してもらって悪戯としてでっちあげたり、私が素直に名乗り出て謝ったりとか、そういう種明かしを考えてた。けど、ねえ。全員が全員、『もしかしたら自分を選んでくれるかも』って思い始めたから、誰も引き下がれなかったの。で、今日ここで、君が謎解きを始めたから、全てをネタばらしするに至った」


 そこまで聞かされると、一概に三人が悪いとも言い切れない。


 明音は少しずつ熱が引いていった顔に苦笑を浮かべ「なるほど」と納得した。


「それが、事の顛末なんだね」

「うん、これが動機と経緯。迷惑かけてごめんね」


 少しだけ殊勝に謝るから、他二人がそれに続く前に言葉で制した。


「謝らないでよ。全部聞いたら納得した――大丈夫、ちゃんと伝えてくれて嬉しい」


 三人から安堵の気配が返ってくる。


 謎が全て解けた。明音は達成感と共に椅子に寄りかかり、窓から日の暮れ始めた町を眺める。傍ら、この数日の出来事を思い浮かべた。わざわざ一人ずつに確かめに行って、達子に協力をしてもらって。――と、そこまで思いだした明音は、不意に疑問が浮かぶ。


「あのさ、二つ気になる事があるんだけど」


 三人の視線がこちらに向く。


「燈子が達子に口封じをしてたけど、アレはどういう経緯で?」

「口封じ……ああ! アレですか。実行の数分くらい前に、千晴先輩から『藤友達子は頭が良い。たぶん協力してもらってる』ってメッセージが飛んできたので、別働隊として私が向かった次第です。あの場面、お二人が交渉するのは難しかったと思うので、代わりに」


 燈子が降りてきて、ちょうど会話をしていたからその隙に、という運びか。納得した明音は「なるほど」と何度か頷いた後、続いでもう一つの質問をする。


「じゃあ次なんだけど、千晴と紗季さんが『ラブレターを捨てろ』って言ったのは、何の理由があったの?」


 ――それは純粋な疑問から生まれた質問だった。


 だが、明音の口から『捨てろ』の部分まで言葉が紡がれると同時、ガラスに罅が入るように、千晴の笑みと紗季の不愛想な顔に亀裂が走る。一瞬にして二人の顔が強張り、錆びた機械のようにぎこちない動きで、明音と燈子から顔を背けた。


 燈子に対する負い目が見て取れる。意味を理解した明音は「……もしかして」と白い目を向けつつ、羞恥やら嬉しいやら、複雑な感情でほんのりと頬を染める。対して、同じように意味を理解した燈子は目を丸くして二人を順番に見た後、「はぁ?」と剣呑な声を上げた。


 最初から最後までフェアプレイを心掛けていた燈子の顔に、強い憤慨が宿る。感情に任せて言葉を紡ごうとして、けれども店内だから飲み込んで。最後、怒気を押し殺して吐き捨てた。


「さいってー」


 つまるところ、千晴と紗季は抜け駆けをしようとしたのである。


 誤魔化しきれないと判断した二人が謝罪を繰り返すも、燈子の怒りは消えず。彼女が何とか毒舌を収めたのは、カフェで季節限定パフェと少々お高い紅茶を追加注文し、帰り道で限定化粧用品を幾つか買わせて、二人の財布が手痛い一撃を浴びた後のことだった。




「達子はさ、どこまで分かってたの?」


 話は戻って本日。明音は対面の達子にそう尋ねた。


 彼女は箸で掴んでいた玉子焼きを口に運び、よく噛んで飲み込んでから答える。


「今聞いた話は殆ど」

「……ほぼ全部じゃん」

「確証は無かったけどね」


 つまり、あの日、食堂で燈子が口封じをしていなければ、そのまま答えを得ていた訳だ。


 何とも的確な一手を打ったものだと感心しつつ、余談を繰り広げる。


「ちなみに、どうして分かったの? どのタイミング?」

「食堂でアンタの調査結果を聞いた時。アンタのことを冗談でも好きだとか、ラブレターを捨てろだとか。諸々を考えるとアンタに惚れているとしか思えない。それも複数人――で、複数人が犯人だとすれば全てに辻褄が合うし、どうせ、その辺だろうと思った」


 言われてみれば自分に気がある人間の行動のようにも思えるが、当事者だと分からないものだ。明音は「ううむ、流石」と唸りながら話題を転換。


「ところで、達子」

「ん?」

「今回の一件は、急いで事実を確かめたところで、私に大きな損得のある内容じゃなかった。極端な話、私が答えを導きだせなかったとしても何ら不都合はない」


 婉曲な明音の言い回しに、達子は「それで?」と主題を尋ねる。


 明音は嬉しさを隠せずに笑った。


「やっぱり達子は、私の困ることをしないね」


 一瞬、達子は面食らったように明音の顔を見た。だが、間もなく頬を歪めて笑う。


「だから、そう言ったでしょ。信じてなかったの?」

「信じてたよ、信じてた。再認識したの」








 放課後。手早く帰り支度を済ませた明音は、達子と共に帰ろうとする。だが、彼女の席に近づいて声を掛けようとした瞬間、教室の入り口側から声が掛けられる。


「夜久さーん、後輩ちゃんが呼んでるよ!」


 田中の声だった。後輩といえば燈子だが、何かあったのだろうか。「はーい」とそちらを向くと、案の定、そこには帰り支度を済ませた燈子が立っていた。


「燈子」


 と、届くか分からない程度の驚きの声を上げると、彼女はこちらに手を振る。


「一緒に帰りませんか?」


 珍しい誘いだ。明音は驚きつつも悪い気はしない。


 しかし、普段から達子と一緒に帰っているが、友達の友達同士を一緒にするのはあまりよろしくないような気もする。ここは達子に涙を呑んでもらうかと、彼女に謝罪の声を掛けようとするが、既に身支度を済ませた彼女は明音を置いてさっさと帰ろうとしていた。


「薄情な」

「どっちが。慕って来てくれた後輩と一緒に帰りなさいよ」

「そうするために君に謝ろうとしたんじゃんか」

「要らん要らん、私は別にアンタと帰りたい訳じゃない」

「薄情な奴め」


 明音が「……ありがと」と、聞こえない程度の声量で感謝すると「ん」と素っ気ない返事が返ってきたから、聞こえていたのかと微かに頬を染めた。


 傍ら、廊下で待っていた燈子に田中が声を掛けている、登下校中の小学生と会話する地元の老人たちのようだった。


「後輩ちゃん、夜久さんとは中学校から?」

「ああ、はい。学校は違いましたけど、その頃から一緒に」

「そっか。一緒に帰るくらい、仲良いんだね」


 田中が微笑ましそうに語ると、燈子はにこやかに頷いた。


「はい、ついでに言うと、昨日告白しまして、今は返事待ちです!」


 ざわ、と教室がどよめく。田中は顔を赤くして驚き、同時に無数の視線が明音に突き刺さった。目を見開いて絶句する明音と、哄笑する達子。


「アイツ、外堀を埋めに来てんじゃない」

「……意外としたたかなんだよ、彼女は」


 明音は頭を抱え、今から明日の朝が怖くなる。あっという間に噂が広まりそうだ。――佐倉燈子は良い意味で有名人である。社交性に富んでいる訳ではないものの、美容系の広告を任される程度には整った外見から、ファンも多い。そんな彼女の、一声。強烈だった。


「据え膳食わぬは女の恥、でしょ。ほら、帰れ」

「言われなくても。……また明日」


 明音は後頭部に突き刺さる無数の好奇の目に気付かないフリをして、そのまま廊下で待つ燈子に会いに行く。教室を一歩外に出ると、彼女は悪びれる様子もなく微笑んできた。


「……やってくれたね」

「先手必勝です。私を待たせた分だけ周囲の目が痛くなりますよ」

「なんて悪辣な」


 糾弾すると、可愛らしい顔でクスクスと笑うから憎めない。


 それにしても、高校に通い始めてから燈子と一緒に下校するのは初めてではなかろうか。そんな風に彼女を見ると、バッチリと目が合った。お互い、気恥ずかしくなって目を逸らす。


 そのまま無言で昇降口まで辿り着き、靴を履き替えて校門まで歩く。


 校門を抜けて一気に閉塞感から解放されると同時、燈子の手が明音の手の甲に触れる。明音は弾かれたように手を逃がし、目を見開いて隣の燈子を見る。


 彼女は眉尻を下げて寂しそうに、申し訳なさそうに笑う。


「あ、駄目……ですかね?」


 バクバク、と早鐘を打つ心臓を押さえた明音は、瞑目する。


 拒絶をするつもりはなかった。本当に驚いただけなのだ。


「……駄目じゃないけど、びっくりした」

「じゃあ、前もって言えばいいですか?」

「それなら、まあ」


 明音とて燈子のことは嫌いではない。というよりも、女性として好きだ。


 手は繋ぎたいし、キスだってしたい。それでも小さな自己否定からそんな行動を取ろうなどとは考えられなかったが、向こうからのアクションを拒むような理由も無いのだ。


 燈子は夏の暑さとは別の熱を顔に、改まって緊張の言葉を紡ぐ。声が上擦っていた。


「手、繋ぎたいです。ずっと我慢してたので」


 伸ばされた左手に、明音は恐る恐る右手を伸ばし、そっと指と指と絡めて繋いだ。


 夏より熱い体温が手を襲った。火傷しそうな熱。少し遅れて彼女の鼓動を淡く感じ、柔らかい手の感触に溺れそうになる。手の甲に触れる彼女の指の一つ一つが生き物のようで、否が応でも意識をさせられる。しばらく、二人揃って立ち止まってしまった。


 やがて、校門を出たばかりの生徒達が好奇の目で見るから、逃げるように歩き出す。


「……あのさ。私って、もしかして凄い浮気性?」

「何を今更」


 返答は雷鳴の如く一瞬であった。明音は頭痛と眩暈を覚える。


 しかし、燈子はクスクスと笑って握る手に力を込めた。視線が交錯する。


「私はいいですよ、浮気性でも別に。最後に私の横に居てくれるなら」


 なんとも情けない話だが、安心してしまった。明音は軽口を叩く。


「カッコいいね、ラオウじゃん」

「らおう?」


 小首を傾げる燈子。どうやら知らないらしい。


 駅までの長いようで短い道中。手を繋いであっという間に過ぎ去る時間を惜しんだ。


「『北斗の拳』って漫画があってさ」




 高校の最寄駅から一本で帰宅できる燈子と違い、明音は一度、乗り換えを挟むことになる。


 利用客の少ない駅で降り、対岸を訪れる快速急行を待つ。


 規則的に並んだ、乗車口を示す黄色線。一つ置きに一人の客が立っているような殺風景なホームで、明音はぼんやりと日の暮れ行く夏の町を眺めた。遠くにセミの声が聞こえ、夏休みが間近に迫っていることを痛感する。


 次の電車まであと数分。明音は駅の時計を一瞥した頃、喉の渇きを感じた。自動販売機で水でも買おうかと視線を彷徨わせたところ、ちょうど、自動販売機に知った顔を見る。


「紗季さん」

「――明音。ここで会うなんて珍しいな」


 紗季は自動販売機の取り出し口から飲み切りサイズのお茶を取り出した。


「確かに。私が早かったり紗季さんが早かったり、あとはそっちがライブだったり。考えてみると全然会わないよね、乗換駅は同じなのに」

「方角が違うからな。そんなもんだろう」


 最後に会ったのは一か月くらい前ではなかろうか。そんなことを考えながら自動販売機に歩み寄ると、「何飲む?」と紗季が尋ねてくるから、「お水」とお言葉に甘えた。


 ぱちぱちと気味の良い音を立ててキャップを開け、水を一口。大きな溜息をこぼす。


「今日はライブとか練習はないの?」

「ああ、最近世話になっていたバンドが正規メンバーを入れたんだ。サポートはお役御免。今は次の就職先を探してるよ」

「大変だ」

「そうでもないさ。楽しくやってる」


 紗季は誰も座っていない両面四人掛けのベンチの背もたれに腰を置く。


 それからしばらく、遠くを羽ばたくカラスの群れを眺める。無言の時間が続くと、疚しいことばかりを考え始めてしまう。彼女に告白をされたんだな、など。


 思わず視線がぶつかり、お互いがお互いの考えていることを察する。明音は少し恥ずかしくなって目を逸らすが、紗季は苦笑をする程度だった。


「昨日は悪かったな。あんな伝え方になって」


 急な謝罪に、明音は驚きつつ首を横に振る。


「謝らないでよ。別に、気にしてない」

「そうか。それならよかった」


 紗季はお茶を一口飲み、小さな吐息をこぼす。


「私はさ」


 紗季が切り出した。


「千晴のように自分の選択を肯定して突き進める訳じゃないし、燈子のように手段を選ばないやり方もできない。今更棄てる物も持たない分際で一丁前に体裁を気にして、右往左往しながら姑息な生き方をしているばかりの、どうしようもない奴だ」


 言葉のリストカットを始めた紗季をどう慰めたものかと明音が戸惑う中、彼女は微かな笑みを浮かべて明音を見る。その笑みは、彼女にしては珍しく明るいものだった。


「でも、頑張ってお前を大切にするし、幸せにする」


 喉を出ようとしていた慰めの言葉は消え、「うぁ」と間抜けな声が疑問符を付けて浮き出た。まるでプロポーズでもするような言葉に、明音の顔が沸騰する。暑くて変な汗が出た。


 紗季は珍しく目を細めて愉快そうに笑った。


「お前に選んでもらえるような人間に、頑張って成るよ」


 明音は夏服の内側をぱたぱたと手で仰ぎつつ、顔を俯かせ、瞳だけ彼女に向けた。


「紗季さんは……カッコいいよ。前からずっと」


 驚く紗季に、しっかりと自分の意思を伝える。


「そのままでも素敵だと思う。私は」


 しばらく唖然としていた紗季は、やがて口を結んで後ろ髪を掻く。それが彼女の照れ隠しだということを知っている明音は、想いがしっかり伝わったことに安堵した。


 それから、明音とは正反対の方向に向かう電車が駅を訪れ、彼女はそれに乗りこんだ。つり革を掴む彼女に手を振り、もう少しゆっくり来てくれればよかったのに、と、胸中で電車に苦言を呈してしまった。




 風呂上がり、髪を乾かし終えた明音は、ベッドに倒れ込んだ。


 冷房の効いた心地よい自室。燈子と手を繋いで帰ったり、紗季に想いを伝えたり、普段は使わない筋肉を使った時のような強い疲労感を覚えながら、現代人らしくスマートフォンを取り出す。目的もなくSNSを開いて燈子の裏垢やニュースを眺め、枕の脇に置く。


 その時、今日、一度も千晴と会話をしていないことを思い出す。


 昨日に告白をされてから迎えた今日、他の二人とは会話しているのに。そんなことを考えた明音は、難しい顔でスマートフォンを手に取り、千晴に何かメッセージを送ろうかとアプリケーションを起動する。普段はあれだけ他愛のない言葉を投げつけ合っているのに、今日は送信のアイコンがやけに重い。文字を打っては消して、明音は枕に顔を埋めた。


 その時、スマートフォンが震え始めた。「あわっ」と阿呆な声を上げて画面を確認すると、そこには『千晴』の文字。明音は目を泳がせ、固唾を飲んだ後に着信に応じた。


「も、もしもし⁉」


『夜分遅くにどうもどうも。今、大丈夫だった?』


「あ、うん。そろそろ寝ようかなってくらいだから。どうかした?」


 時刻は二十二時。健全な高校生が寝るには丁度いい時間だろうか。


 明音が用件を尋ねると、普段の彼女であれば手早く用事を伝えて軽口が続く。だが、今日の彼女は珍しく言葉に窮して『あー』『んー』と間延びした意味のない言葉を重ねた。


「千晴?」


 不審に思った明音が名を呼ぶと、彼女は困った調子の声を上げた。


『用件は無いんだけどさ。……駄目かな』


 驚いた。彼女は確かに無駄口を叩くが、それはあくまでも本題に付随した行動であることが多い。仕事の傍らで雑談をしたり、勉強の傍らで雑学を披露したり。行動そのものに目的を持たない彼女は少し珍しいような気がして、明音は驚きに声を詰まらせる。だが、その意味を理解すると、冷房の効きを疑うくらいのささやかな熱が胸の奥に浮かんだ。


「いいよ。今、ベッドに入る」


 伝えながら照明を落とし、ベッドで毛布を被る。向こうでも衣擦れの音が聞こえた。


『寝落ち通話ってやつだ!』

「いや、バッテリーが消耗するから普通に切るよ」

『じゃあ眠くなるまで話をしよう』

「そうなると少し困るかな。君の話は絶妙に面白いからね」


 彼女の声は弾んでいる。自覚は無いが、自分のそれも同様なのだろうと明音は思った。


「今日、燈子と一緒に帰ったんだ」


 『へえ』と意外そうな声が返ってくる。


『意外だ。如何に君のことが好きでも、それはそれとして一人で帰りそうなのに』

「私もそう思ってたから驚いた。でもね、すぐに納得したよ――彼女、教室に居た全員に聞こえるように、私に告白したことを明かしたんだ」


 途端、彼女の心底愉快そうな笑い声が通話越しに聞こえてきた。


『うわ、やるなあアイツ! そうか、その手があったか』

「お陰様で教室中の目が痛かったよ。手痛い一撃だった」

『私もやろうかな。そしたらどんな反応してくれるの?』

「君のことを嫌いになるかも」

『おっけー、私は一対一でしか言わないよ。安心して』


 脅し文句に速やかに屈した千晴。明音は苦笑をした。


「そういえば彼女、北斗の拳を知らなかったんだよね」

『え、マジ? ……ジェネレーションギャップを感じるなあ』

「一年をジェネレーションって言ったら十年はどうなるのさ」

『アドバンスジェネレーション』

「うわっ、懐かしい!」


 ポケットの中にモンスターを入れるアニメの、一時期のサブタイトルだったはずだ。


 明音や千晴達の世代が幼稚園に通っていた頃のゴールデンタイムに放送されていた。明音はしみじみと昔を思い出しながら、好きだったキャラやモンスターの名前を挙げ合う。


 目的もない話題を三十分くらいは話しただろうか。


 心地よい眠気を感じていると、ちょうど向こうから欠伸が聞こえる。


「良い時間かな?」


 尋ねると、名残惜しそうな声が返ってくる。


『まあ……うん、そうだね。そろそろ終わりにしようか』


 言い合うも、どちらから切ればいいのか分からず、お互いに別れの挨拶もできずに無言が数秒ほど漂う。同じようなタイミングで軽く吹き出して笑い合い、もう少しだけこの時間を楽しむことにした。話題を探した明音は、ふと、気になっていたことを彼女に尋ねる。


「そういえば、千晴は――その、私に告白するとき、わざわざ二人に報告したんだね」


 自分だったら恥ずかしくて言わないだろう。もしも、同じ相手を好きだという事前知識があったのなら悩むかもしれないが、千晴はそういう性格だとも思えない。


『意外かな?』

「意外だね。千晴、そういうのは『最初に行動した人に最初の権利が与えられるべき』って、よく言うじゃん。君自身、やるべきことをさっさと済ませる性格だし」

『まあね。それは否定できないし、実際、私も黙って君に告白しようとは思った』


 では、なぜ。明音はその言葉を飲み込んで、急かさないように彼女の言葉の続きを待つ。


 十秒ほど数えると、困り果てた声色で、どこか冗談めかした言い方をした。


『でもさ、やっぱり――友達なんだよね。二人とも、何だかんだ』


 そう思って機を捨てた自分を馬鹿にするような、そんな声だ。


 だが、明音はその選択をした彼女を馬鹿にする気にはなれなかった。


「そういうの、君の素敵なところだと思う。本当に」


 電話越しに彼女の動揺する呼吸が聞こえた。今度は、ひっそりと笑ってやった。


 良い具合に体温が上がったから、今度こそ会話を打ち切ることにする。「それじゃ」と伝え、おやすみと続けようとした明音だったが、『待って』と制止の声が掛かった。


 明音は口を噤んで彼女の言葉を待った。


『あの、さ』

「うん」


 深呼吸が電話越しに聞こえた。


『……だ、大好きだよ』


 まるで恋人だ。告白をした側と、返事を考えている側の会話ではない。


 明音は茹ったように顔を赤く染め、返答に窮する。唇を噛んで目を泳がせ、常夜灯を浴びて仄かに浮き上がる枕の皺を流し読みして、どうにか言葉を紡いだ。


「私も、す、好きだよ…………おやすみ」


 バタバタと、何かを叩くような音が向こう側から聞こえてきて数秒後、喜色を隠せない千晴の声が返ってくる。


『うん、おやすみなさい。また明日』


 そうして電話が切れ、明音は深い深い溜息をこぼした後、スマートフォンを置き、枕に顔を埋めた。死にかけの魚のように、不規則に足でベッドを叩いた後、火照った顔を冷房に冷ます。


 好きだ。霜鳥千晴を好きだし、辻野紗季を好きだし、佐倉燈子も好きだ。


 全員に恋愛感情を抱いている。節操が無いと言われようとも、この感情は嘘ではない。


 だが、三人は勇気を振り絞って想いを伝えてくれたのだ。不誠実は許されない。


 だから――


「選ばないと、いけないんだ」


 照明の落ちた自室で、明音はぼそりと呟いた。


 期日は約一年。夜久明音は、意中の相手三人の中から、誰かを選ばないといけない。


 明音は仰向けに寝転がって、枕に頭を預ける。カーテンに手を伸ばして捲り、鮮やかな星空を眺める。誰を選んでも誰かは傷付けるし、選んだ相手すら幸せにできないかもしれない。


 それでも、頑張ろう。彼女達に愛されているし、彼女達を愛しているのだから。


 そう固く心に決め、そっと目を瞑った。

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誰かが嘘を吐いている百合ラブコメ 4kaえんぴつ @touka_yoru

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