第15話

 東陽高等学校から最寄り駅の駅へと向かう道中、四車線道路の中腹を西に曲がって路地裏を進んだ先。そこには、二人が初めて訪れる小さな喫茶店があった。内装が木調で統一された雰囲気の良いお店ではあるものの、アクセスの悪さが遠因か、客は明音達以外に誰一人居なかった。


 眠そうな初老の店主にアイスティーを一つずつ頼んで数分、届いたそれらを互いに一口。


 それまで貫かれていた沈黙を、「さて」と千晴が破った。愉快そうな目が明音を捉える。


「それじゃあ聞かせてもらおうかな、探偵さん。私が差出主だっていう根拠を」

「……いや、私の回答が事実かだけ答えてくれればいいんだけど」

「そういうこと言う? だったら私の答えは『知らない』の一点張りだよ」


 どうやら探偵ごっこは免れられないらしく、明音は嘆息して思考を整理した。


 唇を舌で湿らせ、ジッと千晴を見詰める。


「――順を追って話そう。先日、私のもとに一通のラブレターが届いた。内容は千晴も知っている通り、私に対する告白と、気持ちを受け入れてくれるなら交際してくれ、と迫るもの。そして、差出人の欄にはイニシャルだけが書かれていた」

「S.Tだね。姓名がサ行とタ行で構成されている、東陽高等学校の生徒」


 首肯。


「そして、名簿を洗ったところ、該当者は三名。千晴と、それから燈子、紗季さん」

「奇しくも君の友人三人だった訳だね。いやあ、凄い偶然だ」

「確かに三人のイニシャルが同じなのは偶然だろうけど、問題はそれを正体の隠匿に使った人が居るという点。この偶然に気付いた犯人は、それをこの事件に使うと決めた」

「犯人。凄い言い草だね」

「……ごめん、達子に引っ張られた」


 頬を引き攣らせる千晴に、明音は殊勝に謝った。咳払いを一つ。


「――ともかく、容疑者は三人だけ。そこで私は三人それぞれにラブレターの差出人かと尋ねて回った。『気持ちに応えてくれるなら会いに来てくれ』と書かれていたし、私も受け入れる意思をしっかりと伝えた。でも、全員が差出人であることを否定した」


 もちろん、身に覚えのある千晴は頷いてそれを認める。


「もしも交際が目的で私にラブレターを出したのなら、事実確認で否定をする理由が無い。だからこの一件は、私のことを嫌いな誰かの悪戯って可能性も考えた」

「うん、私から見てもそう考えるのが自然に思える。その結論に至らなかった理由を聞きたいな」


 結露の付いたグラスを掴み、アイスティーを一口。乾いた口を濡らした。


「悪戯であると仮定すると、私にラブレターを出すことで何らかのメリットを享受できた人間が存在することになる。例えば――右往左往する私を見て楽しんだり、とか。どうあれ私の行動を観察して初めて、悪戯がその実行者にとっての利益につながる」


 この点においては断定に足る根拠は無いが、概ね切り捨てていい可能性だと判断した。そこを彼女に追及され続けると厄介だから、強い眼差しでハッキリと仮説を推す。


「でも実際には、私を観察している人なんて居なかった。三人への事実確認は全て室内や店内、人の目が届きづらい場所で行った。観察には大掛かりな不法行為や発覚のリスクが付き纏う。単なる嫌がらせと解釈するのは少し難しい」

「だから、私達が嘘を吐いている可能性の方が高いと?」

「……悪戯の可能性を完全に捨てきれている訳じゃないのは、私も分かってる。でも、悪戯や嫌がらせであるという証拠もない以上、高い可能性を推す」


 軽薄に笑う千晴へ、明音は真っ直ぐな視線を返す。お得意の軽口で上手い具合にはぐらかされるかもと考えたが、意外にも彼女は微笑みながら言葉を収め、小さく頷いた。


「いいね、悪戯の可能性を否定するって分には、筋は通る。疑われるのは本意じゃないけど」

「不本意は百も承知だけど、事実なら認めてほしい」

「君の推理が正しければね。――それで? 私達の誰かが嘘を吐いているとして、それがどう展開して私という結論に結び付いたの? それに、もしも私が差出人だとして、嘘を吐いた理由は? 教えてよ、そこが肝心でしょ」


 指を一つ立てて挑発的な笑みを浮かべる千晴。「それともまさか、当てずっぽう?」と犬歯を覗かせるから、明音は鼻を鳴らして推理を展開した。


「ラブレターは、恋愛感情の伝達を目的とした手紙だというのが一般認識だと思う」

「まあ、そうだろうね」

「だから、受取人から事実確認をされた時に嘘を吐く理由なんて、本来は無い」

「それもそうだろう。それで?」

「でも、このラブレターに別の目的があれば。嘘を吐くことにも辻褄は合う」


 明音は鞄から受け取った薄桃の封筒を取り出すと、テーブルに置いた。


 彼女の視線が封筒に落ち、それから数秒後、視線と眉を上げた。


「そりゃ確かに、ラブレターを告白以外に使うなんて馬に蹴られそうな計画があったなら、整合性はあるね。それじゃあ君はなんだ、仮に私が何かを企んでいたとして、その目的とやらを推理できたってこと?」


 明音は重い首を動かして頷いた。ここからは完全に独自で考えた推理だ。


 当たっている保証はない。だが、ここまでの彼女の反応から、今までの話の全てが見当違いということもないはずだ。そう己を鼓舞し、順序だてて説明する。


「告白でないとするなら、ラブレターを出す行為には他に二つの動機が考えられる。一つは手紙を出すという行動そのものに何らかのメリットがある場合。例えば、牽制。他の誰かの告白を制限したり、或いは受取人が他の人に靡かないよう制する目的もあるかもしれない」

「ふむ。もう一つは?」


 千晴が興味深そうに顎に手を添え、先を促す。明音は勿体ぶることもなく応じた。


「二つ目の可能性は、ラブレターを受け取ってからの私の行動によって、差出人に何らかのメリットが生じる場合。……そして、君が私に手紙を出した理由は、こっちだと思う」


 それを聞いた千晴はそっと目を瞑った後、黙考する。


 瞳を開き直し、彼女は両手を行儀よく膝の上に置く。


「敢えて口は挟まないでおくよ。君の推理を最後まで聞きたい」


 間違っているなら否定して欲しかったが、仕方がない。


 探偵の責任を果たそう。そう明音は続ける。


「少し話は逸れるんだけど、ある時、クラスメイトのAさんが私に質問をしたんだ」


 唐突な話題転換に千晴は眉を上げる。だが口は挟まない。


「『○○さんって恋人居るのかな』って。そして、そう聞いてきたクラスメイトの隣には、少し恥ずかしそうにするお友達のBさんが居たんだ。火を見るよりも明らかに、AさんはBさんの為に質問をしていた。交際を申し込むに当たって、既にパートナーが居たら勇気を出すだけ損だからね。傷付かない人が手助けをしたんだと思う」


 ここまで話すと、明音が言わんとすることを全て理解したのだろう。察しが早くて助かるが、口を挟む様子は一向に見られないため、まだ探偵を演じ続けることにした。


「――誰かの恋愛事情は、その人を想う誰かにとって値千金の情報になる」


 千晴は目を瞑って笑う。


「まあ、そうだろうね。――分かるよ。分かる」


 睨み合いをするような沈黙が喫茶店の一画を覆う。斜陽に差し掛かろうとする陽射しが喫茶店の窓からテーブルに伸び、氷を含んだアイスティーが橙色の疎らな光を拡散させた。氷が解けて一つ落ち、カランと音が響く。明音は夏景色を窓の外に見た。


「ラブレターを受け取った私は、三人に事実確認をした」

「うん」

「その過程で、必然的にプライベートに関する話題も出てくることになる。既に誰かと交際していたら、それを理由に弁明するかもしれないし、既に好きな相手がいるならその話題だって。もしかしたら性的指向についての相談が出たかもしれない」

「その可能性は、高いだろうねえ」


 間延びするような声は、何かを誤魔化すような気配を感じた。


「三人の中に、一人だけ居たんだ。他の二人がどう答えたか、聞いてきた人が」


 ふっと笑う千晴に、明音は確かめる。


「昨日、ダーツをしている時に。覚えてる?」

「覚えてるよ。そんな話もしたね」


 明音の把握する限り、彼女の最大の失態がそれだった。あの会話さえ無ければ、明音は依然として彼女を疑いきることはできなかっただろうし、念押しとして達子を頼ることもなかった。


 ここまで確かめたら、もはや問題を根掘り葉掘り追及する必要も無いだろう。素直に認めてくれたら話が早いのだが――そう千晴を見るも、彼女の目は先を促す。


 沈黙が数秒。遠くからドリッパーの音と豆の強い香り。斜陽が少しずつ色付く。


 痺れを切らした明音は、最後まで言い切る道を選んだ。




「つまり君はイニシャルS.Tを名乗るラブレターを使って、容疑者の誰かの恋愛事情を、私に探らせようとしたんだ」




 千晴は静かに目を瞑った。口元には微かな笑みが浮かんでいる。


 明音の知る推理ドラマでは、ここで犯人が泣き崩れて自供。だが、これは殺人事件などではない。せいぜい赤面でもしてくれれば探偵のやり甲斐もあるというものだが、そう分かりやすい相手ではない。


「ちなみにその相手、っていうのはどっち?」


 久方ぶりに感じられる千晴からの問い。返答は用意している。


「たぶん、紗季さんだよね。頻繁に二人だけで遊んでいるって話を聞くし、ダーツも君から誘ったって紗季さんが言ってた。それに、燈子が相手とは考え難いから消去法でも絞り込める」

「へえ、何で?」

「昨日の昼食時、燈子が達子に口封じをしていた。――たぶん、燈子は君の協力者だ」


 「ふむふむ」と大袈裟に頷いた千晴は、不敵に笑った。


「なるほど、確かに君の推理は筋が通っているように思える」


 含むような千晴の言い回し。


「でも、結局のところは『筋が通っている』だけで、強い根拠がある訳じゃない」


 椅子に大きく寄りかかり、まるで洋画のように大仰なジェスチャーで明音の主張の弱い部分を指摘した。だが、その点は昨晩の内に明音が悩み、そして解消した部分である。


 一切返答に窮することはなく、速やかに手札のカードを切った。


「いや、三人の中で君が差出人だという強い根拠なら、ある」


 ベラベラと反論を紡ごうとしていた千晴の唇が閉じた。その瞳に動揺が宿る。


 この期に及んで、遂に千晴の鉄面皮に歪みが見えたような気がした。攻勢に出るように明音は乾き始めた唇を舌で濡らす。


「私がラブレターを貰った日。私より前に登校したのは、三人の内で君だけだった」


 千晴の双眸が大きく見開かれた。その宝石のような眼球に真剣な明音の顔が映る。


 その日の出来事はよく覚えている。朝、駅を出て達子に出会った。そして紗季を見付けて、彼女を追い抜いて・・・・・・・・学校へと向かった。途中、燈子から寝坊した旨の連絡を受けた・・・・・・・・・・・・・・・・。最後に、昇降口で教室に向かう千晴を見た・・・・・・・・・・・・・・・。その後、ラブレターを発見する。


 朝、明音にそれを出せたのは、千晴だけなのだ。


「待ってよ、そりゃ――確かに、出せたのは私だけなのかもしれない。でも、それは『ラブレターが置かれたのは朝』って仮定の上での話でしょ? 前日の放課後だったかもしれないじゃん。そしたら、私だけが犯人とは限らない」


 千晴は動揺を隠せない調子で言葉を尽くすが、明音は間髪を挟まずに否定した。


「悪いけど、それはないんだ」

「……どうして?」


 思い返すのはその日の朝、達子からの一言。『眠そう』――そう、眠かったのだ。何故? その時、明音は彼女の言葉にこう答えた筈だ。


「その前日、私は保険委員会の仕事で最終下校時刻まで学校に居たんだ。下校は私が最後だった。私の後ろで先生が校門を閉めるのも確認している。だから、それは無いんだ」


 ハッキリと言い切ると、千晴は息を呑んで唇を噛んだ。


 熟考するように口を手で押さえ、もう片手の指でテーブルをトントンと数回叩く。反論の余地を探すように目を細めるが、見つからずに観念して瞑目した。


「君は紗季さんの恋愛事情を知るため、燈子の協力の下、あの日の朝、私にイニシャルだけ書いたラブレターを出した。そして、私が三人に事実確認を済ませたタイミングで、『紗季さんがなんて言っていたか』を確かめようとした。それが事件の真相だと思う」


 千晴は口を覆っていた手を離し、深呼吸をした。結露が作った水溜まりからグラスを掴み上げ、アイスティーを一口。氷が少し溶けて薄まったそれで、火照った身体を冷ます。


 それから再度、嘆息をした。


「正解だ。って、言ったらどうする?」


 自分の口で真実を追求しておきながら、明音は驚きを隠すことはできなかった。だが、素直に認めた彼女に恥をかかせてしまわないように、神妙な顔を作る。


 胸の奥。密かに千晴に抱いていた恋心にそっと蓋をする。


「どうするも何も、応援するし、協力するよ」


 よほど明音の言葉が予想外だったのか、今度は千晴の顔に驚きの色が宿る。


「……正気? 明音、紗季さんのこと好きなんでしょ? 私は嘘まで吐いたのに」

「そりゃ真相を伏せて利用だけされたって事実には傷付いてるよ。でも、素直に自分の想いを伝えられない人の気持ちは私にも理解できる。嘘を吐いたことに恨みは無いし、それから私の恋愛感情も関係ない。今の今まで、伝えようなんて思ったことは無いから」


 千晴は物言いたげな顔で明音を見詰めるが、明音の意思は変わらない。


「……本当は、この一件の真相を暴く気は無かったんだ」

「じゃあ、どうして」


 意外そうな面持ちの千晴に、真っ直ぐ本心を伝えた。


「私に質問をしてきたAさんや、君に協力している燈子のように。私も友達にできることをしたいと思った。仮説が事実なら、私でも何か協力できることがあるんじゃないかって」


 思うところは多かった。千晴に対する恋愛感情は嘘偽りなく存在するし、紗季に対するそれも同様だ。安易に暴くことで傷付ける可能性があるかもしれないとも考えた。それでも今日、こうして彼女に事実を確かめたのは、ひとえに、彼女の力になれると思ったから。


 その想いが伝わったのか、千晴は眉尻を下げながら笑った。


「……そっか。君は昔から、そういう奴だよね」


 そう言って、千晴は天井を仰ぎながら深い嘆息を吐き捨てた。長かった。


 それが終わったら彼女の口からこの一件に関する動機や真相が改めて語られることだろう。明音は迷宮入りしそうだった難事件を見事に解き明かしたことへの達成感に、心地よくアイスティーを口にした。そんな明音を見た千晴は――吹き出すように笑った。




「まあ、普通に不正解なんだけども」




 もし鏡を持っていたのなら、すぐ明音の目の前に置いてやるべきだっただろう。それほどまでに、その時の明音の顔は間抜けなものだった。


「…………はぁ⁉」


 意味が分からない。何が不正解だった。だったらさっきの発言はなんだ。


 そんな幾つもの疑問が浮かんで喉元で渋滞して、果てに出てきたのは素っ頓狂な声一つ。阿呆のような声に、千晴はケタケタと笑う。


「え、は? だってさっき、正解だって」

「ちゃんと聞いた? 『正解って言ったらどうする』って言っただけ。正解とは言ってない」

「……な、何だよそれ」


 確かにそう言っていたことを思い出した明音は、正論で苦言を呈することもできず、負け惜しみを言うようにそう吐き捨てた。心底愉快そうに腹を揺する千晴がこちらを見詰めるから、明音は自分の顔が熱を帯びるのを知覚しながら歯を食い縛り、怒りを込めて睨み返す。


「いやあ、中々面白い推理だったよ、探偵さん。小説家にでもなったらどうかね」

「……その常套句はやり返されるまではワンセットでしょ。言い返せないんだけど」

「負け犬に許されてるのは遠吠えすることだけだからね。ほうら、鳴きたまえ。ワンワン」


 腹が立ったので暴力に訴える。テーブルの下で彼女の脛を蹴った。


 「いっ!」と甲高い声を上げてテーブルに突っ伏し、彼女は涙目に脛を押さえた。しかし懲りないもので、彼女は軽薄に笑って頬を歪めつつ、指先を明音に突き付ける。


「……まあ、実際、惜しかったよ。百点満点中二十点くらいだけど、考え方は合ってた。途中式で一か所間違った結果、見当違いの答えに至ったって感じ」


 どうやら本当に自分の推理は間違っていたらしい。


 彼女の言葉の節々からそれを痛感させられた明音は、鼻を鳴らす。まだ耳が熱い。


「……でも、その口ぶりだと君は真相を知ってるんだね?」

「まあね。ついでに言うと、ラブレターを君の靴箱に入れたのも私。そこまでは合ってる」

「じゃあ、何が違ったの?」

「あと少しだ。考えてごらん」


 もういっそ、このまま真相を明かして殺してくれ。名探偵の推理を傾聴する真犯人のような気分で彼女を見るが、どうやら彼女は素直に正解を教えてはくれないらしい。


 明音は腕を組んで考える。しかし、熟慮した末の回答が先刻のそれなのだ。今になって改めて考えろと言われたって、すぐに正解は出ない。


 口を噤む明音に、千晴はふてぶてしい笑みを飛ばす。


「アリバイから確証を得たのは賢いね。でも、動機をもっとちゃんと掘り下げた方がいい。君の語る『好きな人が居るかを知ろうとした』って動機は、筋は通るけど根拠が弱い。もっと色々な可能性を考えなければいけなかったんだ」


 考えればキリが無い。明音は唸った。


「……千晴が私にラブレターを出した」

「うん、正解」

「でも、私が事実確認をした時には嘘を吐いた。そのことから、私にラブレターを渡したのには告白以外に別の理由があったと考えられる」

「まあ、そこも概ね正解だね」

「何が目的か。なんで嘘を吐いたか」


 チラリと千晴を見るが、彼女は答えを教えてくれない。


 しかし、難しい顔で熟考すると、不意に千晴が口を割った。


「ちっちゃい頃さ、私、サッカーの試合を観てて思ったことがあるんだ」

「……何? 急に」

「『これ、手を使ったら最強じゃね』と」


 あまりにも間抜けなことを言う千晴に、明音は呆れを隠せない顔を返す。


「明音も、一度くらいはそう思ったことない?」


 本題からあまりにも逸れた話題だが、無視するのも悪い。渋々応じた。


「……どうだろ。ちゃんと試合を観たのなんてルールを知った後だから、そんな風に思ったことはないかな」


 千晴はアイスティーを一口飲むと、よく回る口で話題を変える。


「バスケの試合も観たことがあるんだ」

「……さっきから何の話をしてるの?」

「バスケはさ、ややこしいドリブルなんてしないで、ラグビーみたいに抱えて走ればいいのにって思ったんだ。そうすればそのままダンクシュートで確定二点じゃん」


 聞く耳を持たずに続ける千晴。どうしたものかと困り果てたが、彼女は何の意味もないことをするような人間ではないから、明音はいっそ、とことん彼女の無駄話に付き合うことにした。椅子に座り直して、真正面から彼女の視線を受け止める。


「そりゃ、それが通るならやるべきだろうね。でもルールがあるからできない」

「そうだよね。その通り、ルールがあるからできないんだ」


 一拍置いた彼女は、更に話題を変えた。


「ボクシングはさ、拳よりバットを使うべきだよ。その方がダメージが大きい」


 ここまで一様にルールを無視した話をされたら、流石の明音も理解できた。


「……ルール。君は誰かと約束をしていた」


 返答は無かったが、適当な言葉よりも分かりやすい首肯が返ってきた。


「誰かと約束していたから、嘘を吐いた。……事実を肯定できなかった」

「うん」

「じゃあその契約相手は誰? ――単純に考えると利害関係がある相手だね。つまり、私からの事実確認を肯定されることで、ラブレターの差出人を特定されることで損害を被る人」

「いいよ、その調子」

「では、その契約間で共通認識だった双方の『損害』とは何か。……さっき、千晴は『ラブレターには告白以外の目的がある』と答えた時、概ね・・正解だと返した。不正解、ないし部分点的解答だったことになる。告白と・・・、それ以外の目的。あの手紙に『告白』の目的も含まれていたと考えると、双方がルールを厳守するに値した『損害』も見えてくる」


 千晴はもう、何も言わない。穏やかな表情で明音の推論を見守る。


 明音も彼女にこれ以上は尋ねない。答えが見えてきた。


 口の中が動揺と緊張に乾く。まさか、そんな答えがあるのか。バクバクと心臓が早鐘を打ち、壊れかけのメトロノームに従おうとした口が舌を噛みそうになる。自分を落ち着かせるためにアイスティーを飲もうとするが、焦る手でグラスを握り、その結露の冷たさに我に返る。


 離し、一息を挟んだ。


「誰かに想いを伝えようとする人にとっての損害は、『その相手が他の人と結ばれること』」


 千晴のこちらを食ったような微笑みは、それを正解だと言っていた。


「ルールは一人で締結しない。君がそれに従ったのなら、同じように、同じルールを背負った人が居たはず。対等なんだ。対等な関係で、たまたま君が差し出す役割を請け負った」


 否定をしない。霜鳥千晴は否定をしないから、明音は証拠も何もない自らの仮説が正解であることを否応なしに理解させられる。数秒、言葉を詰まらせた。


 もしも仮説が真実であれば、自分はどうすればいいのか。


 そんな思いを込めて千晴を見る。彼女は、明音に柔らかい笑みを向けた。――心臓が、余計に強く弾み始め、蓋をしたはずの心が騒ぎ始める。少し、顔が熱かった。


「……靴箱に手紙を忍ばせたのは、君一人」

「当たり前の話だね」

「でも、差出人は一人じゃない・・・・・・・・・・


 それが夜久明音の出した、再回答だった。千晴は何も言わず、静かに笑う。


 ――その時、喫茶店の入り口扉が開く。錆を覚え始めたドアベルがカランと音を立て、夏の香りが冷房に混ざった。遠くにセミと車の声が一瞬だけ聞こえ、扉が閉まると消え失せる。


「いらっしゃいませ」

「待ち合わせです」


 店主と客のそんなやり取りを聞いた明音は、思わず目を見開いて、弾かれるようにそちらを見た。声に聞き覚えがあったのだ。


 案の定、来客は明音の知る人達だった。


 制服を着たままの辻野紗季と佐倉燈子だ。二人は、明音たち以外に客も居ない店内を探し回ることもなく、すぐにこちらを見付けて歩み寄ってくる。


「悪い、待たせたな」

「私、家の前まで帰ってたんですけど」


 口々に言う二人に、明音が呆然としていると、どうやら呼び出し人らしい千晴が「やあやあ」とにこやかに手を振っている。


「急に呼び出して悪かったよ。ささ、座って」


 言われるまま、紗季が明音の隣に座り、燈子は渋々向かい側に腰掛けた。


 明音は二人が座るのを絶句したまま見届けた後、千晴へ質問を絞り出す。


「なんで二人が……」

「私が呼んだんだ。君からの指摘を受けた時点で、良い頃合いだと思ってね」


 千晴が差出人であるということを明音が看破した時、喫茶店を探すと言いながらついでに連絡をしていたのだろう。今更理解した明音は、その時から既に、彼女の中で真相を明かすことが決定していたのだと気付く。


「――さて、二人が来るまでの間に、明音は見事この一件の全貌を言い当てたよ」


 聞いた紗季は驚きながら「マジか」と、燈子はそんな二人を呆れ混じりの目で見て、「まあ、こんなお粗末な計画ですからね。当然です」と呟いた。


 明らかに全てを知っているような素振り。もはや疑う余地は無いだろう。それでも、こんな現実を疑いなく受け入れられるほど夢見がちなお年頃ではないから、最後に尋ねる。


「やっぱり、そういうことなの?」


 千晴は目を細めて笑った。


「そういうことだよ」


 もはや確認作業も必要ないだろう。千晴は速やかに本題に入る。


「ということで、正解発表」


 千晴は食えない笑みで平然としている。燈子は少し緊張した面持ちで、顔の前に手を合わせて深呼吸を。紗季は飄々と椅子の背もたれに寄りかかり、メニュー表を流し読んでいる。


 そんな三者三葉を視界に収めながら、千晴の口から語られる真相に耳を傾けた。




「――イニシャルS.Tのラブレターは、私達三人の共同著書でした」




 最初に、緊張の面持ちだった燈子の頬に微かな火照りが見えた。次に、言い終えた千晴が緊張を抑えるように胸に手を置き、深呼吸をする様が。紗季は変わらず飄々としているが、こことを落ち着かせるように嘆息をした後、畳んだメニュー表を置き場に戻す。


 共同著書。その意味を理解するのにはさほどの時間を要さなかった。明音は揺れる瞳で三人を順番に見た後、膝上に置いた手でスカートの端を握る。


「なんだか随分と遠回りをした気がするけど、やっと言える」


 千晴は少しだけ恥ずかしそうに笑った後、真っ直ぐに想いを伝えてきた。


「好きだよ。今度は嘘じゃない」


 彼女が全て嘘だと誤魔化した日を思い出す。あの時、彼女は何を思っていたのか。


 考えると心臓がうるさかった。黙れと言いたかったが、黙ったら死ぬので諦める。


 明音が返答を模索して視線を泳がせる中、千晴に続いたのは燈子だ。


「わ、私もっ、一応、その、同じく」


 入りはやや大きく、店内だということを思い直して声を抑えた彼女が同意した。


「……先輩のこと、好きですから。本気です」


 そう告げる彼女の顔は緊張に強張っていたが、眼差しは決して揺るがない。


 そして、三人の視線が沈黙を貫き通す辻野紗季へと向いた。渋面が作られる。


「……なんだよ。私も言わないと駄目か?」


 「駄目でしょ」「逃げるんですか」と千晴、燈子が切り返し、明音は何も言わず、ただ、少し、期待をしてしまいながら紗季を見た。友人二人の言葉を無視しようと肩を竦めた紗季だったが、隣に座る明音の顔を見ると、渋面が更に歪み、すぐ呆れに変わる。そして、後ろ髪を掻いた。


「こういうのは一対一で言うべきだろうに」


 小言を吐いた後、紗季は上体だけ明音に向ける。テーブルの下、対面の二人に見えない位置で、明音の膝の上に置かれた手に、彼女の手が重なった。どちらの熱か分からないくらい熱く、明音は心臓は一際早く跳ねるのを感じた。


「元カノと似てるとか関係なく、お前を――夜久明音を、一個人として愛してる。随分前からずっと。伝えるのがこんなやり方になったのは、まあ……悪いとは思ってる」


 見惚れるくらいに美しい瞳が、アッシュグレーの前髪を隔てて明音を見据えた。


 想い人三人からの間髪を挟まない告白は、明音の許容範囲を大幅に逸脱していた。明音は逃げるように目を瞑って俯いた後、震える声を一生懸命に絞り出した。


「……どう受け止めればいいのか分からないんだけど」

「そりゃそうだ、こんな急に言われてもな」

「それが当然の反応なので、気にしないでください。全部、千晴先輩が悪いので」


 二人の放った矢が突き刺さった千晴が、頬を引き攣らせながら言い返す。


「ぜんぶ私のせい? 二人も乗っかってきたんだから共犯でしょ、共犯」


 どうやら主犯は千晴らしい。今度、問い詰めるとしよう。


「明音。君が私達のことを好いてくれているのは知ってる」


 不意に千晴が矢を放ってくる。ドキ、と一瞬の動悸。思わず目を背けた。


「そ、れは……」


 三人の視線が突き刺さる中、段々と顔が熱くなっていく。


 否定の言葉を探した。だが、証人は三人だ。この場には真相を確かめに来たというのに、他でもない自分が真相から目を背けるのは、あまりにも情けない。きゅっと唇を噛んで黙考し、観念して頷いた。――冷房の効きが弱い気がする。


「……まあ、うん。嘘じゃない」


 燈子は分かりやすく嬉しそうな顔をして、他二人は飄々と鉄面皮で顔を覆う。だが、千晴も微かに緩む口元を隠せず、紗季は諸々を隠すように顔を背けた。


 千晴からの言葉が続く。


「君が誰にも恋愛感情を持っていなかったり、或いそれが誰か一人に向いていたら話は早かったんだけどね。三人とも好きだなんて言われちゃったら、もう、こうするしかない」


 今更、三人ともに好意を伝えていたことを思い出し、明音は罪悪感を覚える。


「どうしてこんなやり方をしたのかとか、色々と気になるところはあると思う。それについては追々。でも、取り敢えずこちらの用件から伝えると――」


 そこで一拍を置いた千晴は、やや不敵な調子の浮かぶ笑みで明音を覗いた。


「――選んでよ、誰か一人。三人とも相思相愛だから、好きな相手を」


 霜鳥千晴の顔には自信が宿っていた。胸に軽く手を当てて不遜な笑みをこぼす彼女は、自らが選ばれるに値する人間だということを強く信じている。だが、胸に当てた手とテーブルに置いた手が不安そうに何かを握り、そこに、表情に表れない微かな不安が見えた。


「あ、別に今ここで即決しろとは言いませんよ? 私達も心の準備はできてないので」


 佐倉燈子は急に回答を迫ることを悪く思い、笑って先延ばしを肯定する。だが、酷い緊張の中で無理やり浮かべようとした笑みは硬く、瞳は揺れていた。


「急がなくていいし、返事をしろとも言わんよ。気が乗らなかったら忘れてもいい。ただ、できることなら誰かを選んでくれって、それだけだ」


 辻野紗季は、他の二人に比べると平然とした様子だ。あくまでも選択権が明音にあることを強調し、もしも可能であればそれを行使してくれとしか言わない。だが、横目に明音を見るその眼差しからは、無意識かもしれないが、強い要求の念を感じる。


「一年くらいは待つからさ。ゆっくり考えてほしい。皆、本気なんだ」


 そう千晴が締め括ると、三対の眼差しが明音に突き刺さる。


 その一言で、明音は動揺を伝えようと開きかけた口を閉ざす。――恋愛感情の告白とはつまり、自分の感情を伝える行為であり、それには勇気が要る。最後の最後まで自分の感情を我慢した後輩も、元交際相手に似ていると過去に口走ったことを後悔している先輩も、そして一度は告げた言葉を辛うじて嘘だと誤魔化した同級生も、一様に、勇気を振り絞った。


 それを思い出した明音は、不安に染まっていた顔に微かな決意を浮かべた。


 ――三人のことは好きだ。それでも、夜久明音は自らが彼女達に見合う人間ではないと考え、その想いを伝えることはしてこなかった。不釣り合いだという認識は、今も昔も変わらない。


 それでも振り絞った勇気を踏み躙るほどなんて真似はできず、本気には本気で応えるべきだと己を叱咤激励し、三人を順番に見た。


「――分かった」


 夏休みを目前に控えた、盛夏のある一日の出来事。意中の相手三人からの交際の申し込みによって、差出人不明のラブレター事件は幕を下ろした。


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