第14話

「どうするの?」


 夜久明音が自らに届いたラブレターの真相に気付いた翌日。


 明音がそれについて一切言及しないまま放課後を迎えると、帰り支度を済ませた達子が、騒がしい教室で一言だけ尋ねてきた。明音は筆記用具を鞄に押し込んで目を瞑る。


「悩んでる」

「どうして」

「私の出した答えが真実なら、それを暴いて本人に確かめる行為に何の意味も無いから」


 もしもラブレターが夜久明音に恋愛感情を伝えるものであったら。その真相を確かめて本人に交際の可否を伝え返すことには意味がある。だが、それ以外の目的があって筆を執ったのであれば、その真相に気付いたとして、わざわざ暴く必要があるだろうか。


 だが、明音の持論に対して達子の鋭い指摘が入る。


「アンタの答えが真実かどうかを確かめるためにも、聞く必要はあるでしょ」

「む」

「それとも自分の答えに絶対的な自信が?」


 「いや、ううん……」と腕を組んで唸る。そう聞かれると少々返答に窮する部分はある。だが、辻褄は合うようにも感じている。


 そんな明音を、達子は嘆息と共に見下ろした。


「まあ、アンタが何をどうしようが私の人生には何の影響も無いし、好きにすりゃいい。今の質問も興味本位。それより、今日は私、予定があるから先に帰るわね」

「あ、うん。また明日」


 だらだらと言葉を交わすこともなく颯爽と去って行く達子の背を見送る


 明音は緩慢に帰り支度を進めつつ、先ほどの達子の言葉を考える。


 明音の回答が真実であれば、暴く必要が無いという結論は変わらない。だが、確かにこれが真実だという確証は無い。そして、もしも己の見解が間違っており、この事件の裏側には本当に自分に想いを寄せてくれている人間が居て、それから目を背ける行為になってしまうのだとすれば、自分は真相を確かめる責任があるようにも思える。


 嘆息。鞄を担いで立ち上がり、重い足取りで一階に下りていく。


 昇降口に差し掛かった辺りだ。後方から声が掛かる。


「あーかねっ!」


 振り返ると、そこには霜鳥千晴が居た。学校ではしっかりとピアスを外している。


 「千晴」と驚きながら彼女の名を呼びつつ、明音は靴箱から靴を引き抜く。「今日は一人なんだ?」と尋ねると、彼女は軽く笑う。


「人気者にも休暇が必要なのさ。今はただの、ゲーマーの霜鳥千晴」

「へえ、私も今日は達子にフラれちゃったんだよね。久しぶりに一緒に帰ろうか」

「その言葉を待っていた」


 言うや否や、隣の靴箱に向かった彼女は靴を取り出し、履き替えてくる。


 そうして、高校から最寄り駅へと伸びる帰路を二人で辿る。


 四車線道路の両脇、青葉の色付く街路樹が木漏れ日を差す広い歩道。東陽高等学校の生徒が疎らに歩くその道を、明音と千晴は並んで歩く。夏服を叩く風に、うんざりするような夏の暑さが死神の如く忍び寄ってくることを痛感した。


 千晴は参ったように手を翳して陽射しを遮りつつ、ぽつりと呟いた。


「来週には夏休みかぁ」

「夏休みだね。……夏休みだ」


 特に思考を介さずにオウム返しで同意した後、反芻し、実感を込めて重ねた。


「明音は勉強とかするの?」

「どうだろう。宿題は真面目にやるし、前期で点数取れなかった範囲は軽く復習すると思うけど、今から受験に向けて――っていうのは少し、気が乗らないかな。進路も決まってないし」


 取り分けて成績が悪い方ではないが、一切の懸念が無いほど賢い訳でもない。難関大学を目指すのであればすぐにでも勉強に着手するべきなのだろうが、紗季や千晴のように目指す場所が見えている訳ではないし、燈子のように稼げる職を既に身に着けている訳でもない。


 千晴は安堵したような情けなく思うような笑みを浮かべ、頭の後ろに手を組む。


「同意。同感。同意見。いやね、今から勉強なんて無理無理、学生を舐めるな」

「君はゲームで稼げてるんでしょ? そっちを頑張れば?」

「そりゃしばらくはそのつもりだよ。でも、反射神経が衰え始める三十代とかになると結果を出すのは難しくなるし、最近はストリーマー転向とかも増えてるらしいけど、私は性に合わない。ライフプランを真面目に考えるなら、ゲーム以外の柱もちゃんと建てないと」


 意外と真面目なことを言う千晴の横顔を、明音はマジマジと見詰めた。


「千晴、意外としっかり考えてるんだね」

「下手にそれっぽいことができるから、考えざるを得ないってだけ。その点、紗季さんとか燈子は羨ましいよ。二人とも長々とやっていける類の仕事ではあるからね。紗季さんの方は――まあ、少しだけ不安定な部分もあるかな? 人気の衰退とか」

「でも、あの人頭も良いからね。どちらにせよ上手くやれると思う――私達と違って」


 夏、下校路。二人のため息が重なった。


 それを流すように、少しだけ涼やかな夏の風が吹いた。それに髪を揺らした千晴は、浮かべていた渋面を微かな笑みに変えた後、明音を横目に見た。


「まあ、今年は遊ぼうよ。何も考えない最後の夏休みとして」


 何とも呑気な誘い文句だったが、実に甘美だった。明音は苦笑しつつ頷く。


「だね、今年は今年のことを考えて、来年を忘れよう。来年は来年だ」

「その通り。青春を謳歌できる最後の夏なんだ、満喫しよう」


 自分に言い聞かせるように呟いた千晴は、楽しそうに指を立てて数える。


「海に行って、祭りに行って、旅行をして、涼しい美術館とか水族館で時間を過ごすのも悪くない。図書館も嫌いじゃないし、ゲームセンターも久しぶりに行きたいな」

「家でも良いね。好きな温度のエアコンを付けて、好きなことやって。何もやらないって時間を大切にして、そんでもって最後に慌てて宿題を片付けよう」

「それから、恋愛もしてみたい」


 静かにそう付け加えた千晴を、明音は開いた眼差しで見た。


 彼女は唇で弧を描きながら明音に横目を返す。数秒、沈黙しつつ視線が交わった。


「……君が私にそれを言うんだ?」

「そりゃ、言うよ。この国には言論の自由があるからね。して、君は?」


 千晴が微笑むから、明音は嘆息してバランスをとった。


 こちらの恋愛感情を知っておきながらよくもまあ、平然と。そんな気持ちが無い訳でもなかったが、この気持ちが成就するか否か、この気持ちを向けられた彼女がどう思っているかを別として、自分自身が誰かと交際したいという欲求を持っているか、自分に確かめる。


「……まあ、人並みには恋愛に対する興味があると思うよ。やっぱり。綺麗な人には目を奪われるし、親しい相手に想いを寄せることもある。だけど、誰かと付き合ってみたいかと聞かれると、答えは分からないかな」

「『分からない』?」


 交際をしてみたいか、したくないか。ただそれだけのことを訊く単純な質問に対して、明音の返答は曖昧なものだった。眉を顰める千晴に、明音は説明を続行する。


「興味があるのは事実だし、想いを伝えられたら受け入れるとも思う。でも、いざ交際まで漕ぎつけたとして、私なんかがその人の時間を奪っていいものか、って思うんだ」

「……自己評価、結構低いんだね」

「これでも適切に評価を下しているつもりだよ。私は君達みたいに取り柄を一つでも持っている訳じゃないし、愛してもらった分だけ大切にすることしかできない。他に何か、世間的に魅力と呼ばれる類のものは持っていないし、後悔をさせてしまう」


 明音は目を瞑って肺の中の熱い空気を吐き出し、少し温い夏の酸素を吸い込んだ。


「だから、君みたいな凄い人達に憧れたんだと思う」


 聞いた千晴は難しい顔で前を見詰めていた。彼女にしては珍しく、軽口も真剣な反論も返ってこない。普段ならどんな会話にもすぐに返事をするのだが、どうしたのか。それとも何か、彼女にも思うところがあったのか。そう考えた明音は、一拍の思考の後、質問を切り返す。


「そういう千晴は? 興味があるって言うけど、予定は?」


 彼女が眉を上げてこちらを向いたかと思うと、その顔に苦笑が浮かぶ。


「私は……まあ、予定は立てているよ。実るかは定かじゃないけど」


 その顔に微かな不安の色を見た明音は、唇を結ぶ。千晴の顔に一瞬だけ、昨日に食堂で出会った佐藤の顔を重ねる。容姿も雰囲気もまるで似ていないが、浮かべた表情が重なった。そして、その表情が恋愛をする人間のそれだと気付いた明音は、ぽつりと呟く。


「……なるほど」

「明音?」


 不意の呟きに千晴が怪訝そうにする。


「いや、今なら少し、田中さんの気持ちも理解できるなぁって」


 明音はそう釈明した後、いっそう疑問符を濃くした千晴から目を逸らして、考える。


 『アンタの答えが真実かどうかを確かめるためにも、聞く必要はあるでしょ』。そんな達子の言葉通り、もしも事件の裏側に本当に自分を好いてくれている人が居るのなら、正解か不正解かを確かめる行為は自分が誠実である為にも大事なことだ。


 だが、それだけじゃない。


 仮に自らの導きだした答えが正解で。事件の裏に自分への恋愛感情が無かったとしても。真相を暴く行為には意味がある。そう判断して、明音は腹を括る。


 深呼吸を一回。その後、足を止めて千晴を見た。


「千晴に一つ、聞きたいことがあるんだ」


 彼女も帰路を辿る足を静止し、改まる明音を驚きの眼差しで見る。


「どしたの? 改まって」


 真っ直ぐ、揺ぎない瞳で千晴を見据える。これが夜久明音の出した回答だ。




「私に届いたラブレター。アレ出したの、千晴だよね?」




 しばらく、セミの声が夏の歩道に沁み渡った。四車線を力いっぱいに走る車の声が散発的に響き、夏の風が二人の間を抜け、街路樹の青葉を一つ散らす。


 霜鳥千晴は口を噤んだまま、押し黙っていた。目は驚愕に見開かれており、普段は軽口が湯水の如く溢れ出る口はぴたりと閉ざされている。


 十秒ほど経った頃、観念したように笑う千晴によって、その沈黙が破られた。


「……長い話になりそうだね。場所を変えよっか」


 呟いた彼女はスマートフォンを取り出し、近くの喫茶店を探した。


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