人は狂うと猫になる

こまの

人は狂うと猫になる

 人は狂うと虎になるらしい。

 というのは、学生の頃に国語の授業で読まされた『山月記』から得た知見だ。己の自尊心の高さから夢破れた李徴という男が狂って、気づけば虎になっていた。

 これはもちろん物語の話だが、じゃあ実際にそんなことは起こらないのか。虎とまではいかなくても、人間、猫くらいにはなれるのではないだろうか。どうだろう。

 昨夜まで友人が寝ていた場所で、友人の寝巻に埋もれながら、黒猫が一匹すやすやと眠っていた。その様子をじっと見ながら、人は狂うと猫になれるのかということを一人、寝ぼけた頭で考えていた。

 

 *


 遠方の大学に進学した友人、根白が、「ゴールデンウイーク暇? 遊びにおいでよ」と言ってきたのが先週。それに二つ返事で、のこのこ馳せ参じたのが昨日のことである。

 泊ってもよいとのことだったので、だらだらと駄弁りながら夜更かしをして寝落ちしたのが午前三時。起きると友人の姿はなく、根白が寝ていたところには黒猫がいるという現在、午前十一時である。

 ベランダに続く大きな窓から、日が高く上る様子が見える。ベランダには根白が育てているらしい、よくわからない草の鉢植えがいくつか並んでいる。昨夜はカーテンが閉まっていたから気づかなかった。猫もカーテンの裏に隠れていたのだろうか。

 昨日までは、猫など確かにいなかったはずだ。根白の部屋は一人暮らしの大学生らしくあまり広くない。猫がいれば、すぐにわかるだろう。もし、わからなくても猫の餌や、猫のトイレなど猫の生活の形跡が部屋にあるはずだ。本当に根白がいなくなったのか。猫がもともと部屋にいたのではないか。いや、むしろ根白が発狂して猫になったのではないかを確かめるべく、狭い部屋を物色することにした。


 *

 

一通り部屋を見て、部屋の中心部に腰を下ろす。先ほどまで自分が寝ていた場所だ。

 ざっと見た限り、キャットフードや猫のトイレなど猫を飼っている形跡はない。ドアや窓もしっかりと施錠されている。猫は体がやわらかいイメージがあるが、その猫をしても通り抜けできそうな隙間もない。

 スマホに根白から連絡が来ていないかと、見てみたが通知はなかった。もともと根白は、マメに連絡するような人間ではないのだ。

 そうすると、現状これは密室だ。密室の猫だ。友人が密室で消え、代わりに猫が現れた。

 なんだか不思議な状況に、一人で「ははは」と笑ってしまう。

 冷静に考えれば、こちらが眠っている間に根白が部屋に猫を放ち、自分は部屋に鍵をかけてどこか外へ出かけて行ったとみるのが妥当だろう。しかし、その推理には『なぜ?』 という疑問が生まれる。動機が不明だ。あと猫の入手方法も。

 眠っている猫を改めて観察してみる。毛づやが良い。黒い毛並みが日の光を柔らかく反射している。爪もきれいに切りそろえられているように見える。猫のことはよく知らないが、野良猫ではなさそうだ。

「おはようございます」

 寝ている猫に挨拶をしてみたが、猫は身じろぎ一つしない。

 この寝汚いところは、根白に似ているかもしれない。彼女には高校時代、一時間目から四時間目まで眠り続けていた逸話がある。

 暇なので再び、この猫が発狂した末の根白説に思考を戻してみる。この説の良いところは、猫を飼っていた形跡がない部屋の現状、根白が不在の現状、全てに説明がつくことだ。 

 しかし、これまた根白が猫になるほど発狂する理由、動機を考える必要がある。根白が応援しているアイドルが引退宣言などした暁には、発狂して猫になるかもしれないが、そんなニュースはなかった。あとは、……あとは何だろう。なかなか根白が発狂しそうなことなど思いつかなかった。彼女はいつも泰然としている。困ったことである。

 素直にお手上げして根白のスマホに、『いま、どこ?』と送った。数分して、『コンビニ』と返ってきた。


 *


『部屋に猫がおるよ』

 とメッセージを送れば、顔の崩れたクマがこちらに指を指して笑っているかのようなスタンプが送られてきた。なにぶん顔が崩れているため、本当はどんな表情なのかはわからない。多分笑っている。

『隣の家のねこかも』

『黒いやつ?』

 悠長な返信が連投される。

『黒猫。寝てます』

 写真を撮って、共有してやる。猫は写真を撮っても起きなかった。図太い猫である。根白から何か返信がくるかなと思って待っていたが、何もなかった。何もないまま数分経って、根白が帰ってきた。コンビニの半透明の白い袋を下げて、おはよーと笑っている。

「お、本当にクロササミバーガーだ」

「おかえり。なにそれ。猫の名前?」

「ただいま。うん。勝手につけた」

 どおりで呼びづらい名前だと思った。普段呼ぶことを全く考慮していない。

 黒猫は、その時やっと片目を開けて、うるさそうにすぐ目を閉じた。おそらく、『ササミ』という言葉に反応したのだろう。ちょっと目を開けてみて、何も食べ物が差し出されていない状況に辟易とした様子だ。

「お隣さんが飼っているんだけど、ときたまベランダからこっちに来る時がある。引っ越したてのときに一回来たのよ」

「窓、締まってましたけど」

「あれー? んー」

 根白が記憶をたどるように、首を徐々に傾ける。それを横目で見ながら、根白がコンビニで買ってきた袋を漁る。レンジであたためて食べるタイプの味噌ラーメンと醤油ラーメンが入っていた。今日の昼ご飯を買いに出ていたらしい。

「謎は全て解けた」

 根白が指を鳴らした後、かけてもいない眼鏡を直すそぶりをする。心なしかきりりとした表情をしている気がする。

「広間に関係者全員を集めてください」

「全員揃ってるんじゃないですか?」

「薮木は情緒がないなー」

 猫にクロササミバーガーと名付ける奴に情緒を指摘された。納得いかないが、続きを促す。

「……ふむ。ではですね。私は起きた後、ベランダの草花に水をあげていました。その時に入って来たんじゃないかな? 窓あけっぱだったし。それに気づかず、私が窓を閉めて鍵をかけた……と」

 とんだ名推理だった。おそらく真相だろう。なるほどーと拍手を送ると、根白が恭しく頭を下げた。

「じゃあ、お隣さんに連絡して引き取ってもらうかー」

 けだるげに根白が玄関から出て行って、しばらくするとバタバタと慌てて人が動く気配がした。猫はその音に反応して、考えられないくらい俊敏な動きで起き上がり、堂々たる足取りで玄関に向かった。そして玄関から、飼い主らしき女性が顔をのぞかせると悠然と出迎えた。どっちが主人かわかったものではない。

 飼い主の女性は、猫を抱きかかえ、根白にペコペコ頭を下げながら自分の部屋に戻っていった。根白はそれをヘラヘラ受け流しながら見送る。

「ほい。落ち着いたー。ラーメン食べましょ。ラーメン」

 何かのCMで採用されていた歌をハミングしながら、ラーメンの包装を乱雑にはがしていく。そのまま電子レンジに突っ込んで、こちらを振り向いた。

「薮木は、味噌でいいよね? 私、醤油」

「ありがとう」

 そういう確認は買う前にしてくれよと思ったが、言わなかった。

「猫の名前、塩だったよー」

 笑いながら、根白が教えてくれる。黒猫なのに塩なんだと思いながら、自分の分の味噌ラーメンの包装をはがしにかかる。

「せめて、ゴマでは?」

「白ゴマもあるからねえ」

 それもそうかと思って他を探してみる。

 昆布……かな……。昆布でいいか。

 こちらが一生懸命、黒猫の名前に見合う食べ物を探している間に、根白はスマホを操作していた。知り合いから、メッセージが届いていたらしい。突然、大声を出す。

「……え! あ! ちょっと! レポートの提出期限、一昨日までだった! うわ! 出し忘れた! まずい! 必須単位~!」

 衝動のまま、ぼすんとベッドに倒れこんで、足をばたつかせている。

「ちょっと待って。挽回可能なのか? 来年もあのつまらんお経のごとき授業受けることになったら、発狂するぞ」

 何やらわめきながら、嘆き悲しんでいる。取得を義務付けられている授業の単位を落とすかもしれないと慌てているようだ。

 なるほど。発狂とはこういう時にするものか。発狂するならぜひ目の前でしてみてほしい。猫になるか確認したいから。

 そんなことは言えないので、「もう一回受けよう! 受けておこう!」とはやし立てておく。

 来年もつまらない必須単位の授業を受けて、発狂した根白が猫になるところを想像する。猫になったら働かなくていいじゃんと喜びそうだった。

 根白の醤油ラーメンを温めていた電子レンジが鳴る。私も自分の分のラーメンを温めるために立ち上がった。

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