第8話



「先生、ありがとうございました」

「無理はしないようにね。休養第一で。次はまた来月、予約してね」

 彩葉は軽く腰を曲げ、頭を下げた。トートバックと杖を手に取り、立ち上がるとスカートの裾を直して診察室1を出た。

 中待ち合いに入ると、ミハルが介添えしてくれた。総合受付の手前まで一緒に歩く。

「彩葉さん、元気そうでよかったわ。退院まで本当によく頑張ったわよね」

「先生はじめ、病院の皆さんのおかげですよ」

 こつこつと、ゴム足をつけていても杖の音が廊下に響く。

「寝たきりだった彩葉さんが歩いているだけで、私にとって感動ものなのよ」

 とミハルはしみじみとした後で、プリン食べた時のことは覚えてる?と聞かれた。

「美味しかったです」

 笑顔で応える彩葉にミハルはふふふ、と笑った。あの時一緒に居てくれたのはミハルさんだったのか。彩葉の中で答え合わせができた気がした。

「食べ物の威力はすごいよね~」

「本当に」

 二人は総合受付前で笑顔で別れた。

 また来月、と手を振って。



 精算が終わると、彩葉は病院の入口に移動して母にLINEをした。

「今日子が夜帰ってくるって。気をつけて帰りなさい」

「お土産はプリンがいいなって伝えといて」

 彩葉の口はすっかりプリンの口になっていた。病室で食べたぐちゃぐちゃに潰されたプリンの味は忘れられない。

「プリン買っていくって言ってたよ」

「やった!」


 杖を突きながら、彩葉は総合病院を後にした。長い外出で疲れているはずなのに、心なしか足取りが軽い気がした。

 昼過ぎの明るい日差しが濃い影を作る。彩葉はしまったという顔をして、トートバックからつばの広い帽子を取り出した。

 空を見上げる。太陽はじかに見なくても十分まぶしい。室内からでは見ることのできない、視界の白さだって幸せだ。

 バスの乗り降りで手間取り、背後から舌打ちされることがあったとしても。


 彩葉はもう絶望していない。

 彩葉が書いた文章は、彩葉にはまだ読むことができない。

 でも、カラカラに干からびた海綿のように硬くなった脳みそは、水を吸収したように動き出している。この二年の間に地層のように固まったいろんなことが、少しずつだけどにじみ出てくる。そんな宝物を彩葉は言葉にすることができる。


 彩葉は言葉を語ることができる。場所は選ぶけど、パソコンなら音声入力だってできる。ポメラにブラインドタッチで打ち込まれた文章を、誰かに読み上げてもらうこともできる。パソコンにテキストを移せば読み上げさせることもできる。


 大号泣で再会した未那はきっと手助けしてくれるだろう。だけど、彩葉はいつか自分自身で読める日がくると、

 必ずくると信じている。



了.

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色は匂えど散りぬるを ヒノエンヤ @hinoenya

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