第7話



「これ、リハビリでは初めての食べ物だけど、なんだかわかる?」

 昼食の最後に潰された黄色と茶色の混ざったものを口に運ばれゆっくりと歯と舌を使って咀嚼し飲み込んだ後、甘味の美味しさと懐かしさ、そして嬉しさに彩葉は大きく息を吸って、吐いた。


「プ、…………」

「!!!今、プリンって言った?」

 よく食事介助をしてくれる看護師が、驚いてスプーンを握りしめた。彩葉の耳には掠れた破裂音のプ、しか聞こえなかったが、彩葉自身も驚いた。


 発語についてはすぐに青木医師に伝えられた。それから間もなく、彩葉はたどたどしくではあるが、話せるようになった。具体的な意思疎通がはかれるようになって、彩葉のリハビリは加速度的に進んだ。


 時々、彩葉は夢を見た。

 夕焼けの暖色の日差しに包まれて、彩葉は立っていた。実際はもう1年以上立つことは出来ていないのに。足裏にはしっかり地面を踏みしめる感覚があった。

 水の中を泳ぎ漂う金魚のように、薄灰色のもやもやするものが彩葉の視界を横切っていく。淡い影が漂って重なり遭うときにははっきり黒い形になった。手を伸ばそうとすると、するりと遠ざかる。身体を傾けると足が自然に一歩動いた。届きそうだと思った瞬間、ゆるり、と影は遠ざかる。もう一歩、彩葉は歩いた。ギクシャクとした動きだと自分でも思えたが、たしかに彩葉は夢の中で歩いていた。


 夕焼けの光は群青と橙色と朱色のグラデーションに変わっていき、黒いもやもやした影は見えなくなったが、彩葉は満足していた。



 彩葉のリハビリは続いた。

 呼吸以外の生きるための行動すべてがリハビリの対象だった。時折見る夢の中では、現実の彩葉より少し未来の状態であることに、彩葉は気づいた。


 美しい色彩の風景の中の、今より少し良い状態の自分。

 励みになったし、良い夢が見られるように、想像力を鍛えようと思えた。妄想とも呼ばれるが、それは彩葉の生きる力の動力源だった。


 そんな風に切り替えができた瞬間、彩葉は心から笑顔になれた。そばにいたリハビリ中のPTと看護師が驚き、そして笑顔になった。彩葉は倒れて初めて、笑顔になれる自分に幸せを感じた。


 それから半年程で、彩葉は退院することができた。両親と弟が迎えに来てくれた。長期入院で増えた荷物は、トランクと弟の膝の上になんとか詰め込むことができた。


 退院の翌日、妹が付き添ってくれ、家族でお世話になっている馴染みの美容室に行った。母から事情を聞いていた美容師は涙目で、彩葉を迎えてくれた。

 良い人たちに恵まれている、彩葉は幸せを感じた。年単位で伸ばしっぱなしになっていた髪は扱いやすいようにミディアムに切られ、随分と頭が軽くなったことに彩葉は驚いた。闘病中にまだらに色が抜けていた髪は、自毛の色より少し明るめに染められた。

 ひとつずつ、彩葉の生活が戻ってくる。




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