本当に苦いのはコーヒーじゃないという牧歌

崇期

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 私はここ十三年はサービス業をやっているはずだ。客とのことで理不尽な思いを噛みしめるたびに、「次に仕事を変わるなら、絶対客商売以外にしよう」と心に誓うのに、何度転職してもどういうわけかサービス業に従事している。


 運命という言葉について思い巡らせるような感覚は持ってはいない。しかし敷かれたレールの上をただ歩いている──というのでは、あまりにも冷淡だろう。この世界線では、私は喫茶店のマスターをやっている。そんなこと言ったらどの世界線もあり得る話だぞ、と突っ込まれても、殺し屋や勇者を選択しないように、ただきっと、この身になじむ仕事というのがあるのだ。頭の中でちらと想像しただけで、喫茶店のマスターならうまくやれるはずだ、と過去の私も首肯しゅこうしたのだからな。



 

 その日、私が営むカフェに朝から四人連れの客が入ってきた。ほとんど暗めな色の服で占め、ひどく陰気な雰囲気で、エドワード・ホッパーが描いた室内にいそうな感じだった。老若揃っているところから似寄ってはいないものの家族かな、と思った。子は、大人からパフェを強く勧められても遠慮がちにオレンジジュースを選び、男女二人はケーキとコーヒー、ケーキと紅茶のセット、眠そうな目の老人はホットサンドを注文した。


「それでいい」と私は胸底で唱えた。朝イチの客が一日のリズムを作るのではなく、私が「今日はうまくいく」と決めたらそうなるということだ。私はわざわざ喫茶店のマスターになった。そこには職業人としての意地がある。人はできないことにも立ち向かう性質を持つ。世界を牛耳ぎゅうじれると思っているのだ。この店は、私が意のままに作った箱庭だった。



 ◇◇◇


 

「チーズケーキ、すごくおいしかったです」お会計となり、レジを挟んで面を合わせたときに、少年の母親らしい女が口を利いた。

「ええ、コーヒーも軽くて飲みやすくて」と彼女の夫らしい優男やさおとこも同調する。

「もしかして、こちらへはご旅行かなんかですか?」と私は軽い気持ちで言った。「お話が聞こえて、イントネーションがきれいだったので、もしかすると東京からお出でなのかな、と思いまして」

 その質問に対し、男がふっと空中を目で探るような演技をした。

「ここは、なんという町ですか?」

「えっ?」

 一瞬詰まったことを恥じるように私は慎重にすみやかに表情を回復させてから言った。「福岡市ですが」

「福岡市か……。東京という町もあるのですね?」

「パパ」女のたしなめるような語調。「いけないわ」

「ああ」男はバツが悪そうに笑みを作る。「……チーズケーキというのは、福岡市で有名なスイーツなんですか? はじめて食べて、感動してしまって」

「は、はじめてですか?」

 食べ物の話に戻った方がいいと思ったのだろうが、そこまでわかりやすく失敗してくれるとは。あっけにとられていることを悟られないように努めたつもりだったが、無駄だっただろう。

「パパ」女が、二度目とあれば強めになるのも仕方ないという感じで言った。「記憶喪失って、世間の人にとってはドラマや小説の中でしかあり得ないことなの。もっと気を遣って。……って、気を遣うってこともどんなことか忘れてるんだろうけど」

「そっか、そうだよな……。そんな客にそうそう出会えないよね」

「うん。マスターを驚かせちゃ悪いわ」

 少年はそんな両親のやりとりを、頭上を飛び回る小蝿でも眺めるような顔つきで眺めていた。そしてどちらの親なのかとか、もうどうでもいいことだが、三人の背景のように佇んでいた老人がつぶやく。「そうさな、記憶喪失も集団催眠も、小説の中にしか出てこないからな」


 四人は店を後にした。あの家族以外の客がいなかったことは幸いだった。

「なに考えてんだ!」私は体を折り曲げて床に唾棄だきするように叫んだ。「記憶喪失というより異星人だろ! なにが小説にしかないだ!」


 

 どの世界線にいようと、客商売というのは徒労しかない。人々は私を驚かせるために数奇な人生を辿っているかのように思える。……余計な詮索をしなきゃいいんだよ、うん、今度は絶対にこっちから話しかけないぞ!


 次に来た客はグレーのブルゾンを着た、おちゃらけていても根は真面目、と思わせている風な若者だった。

「あのぅ、すみません。この当店おすすめのドライカレーのセットですが。カレーに載ってるゆで卵、縦半分に切ってあって、うまそうっスね。このゆで卵だけの注文ってできますか? ドライカレー抜きで」

「え?」


 

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本当に苦いのはコーヒーじゃないという牧歌 崇期 @suuki-shu

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