第8話『前夜』
「精が出るな、少年」
夜。ユーシャが日課の鍛錬をしていると、背後から急に声がかけられる。
「あんたは、確か……」
そのがっしりとした体型と厳しい顔つきには覚えがある。一週間前、学長室に連行されたときに見た男。名前は知らない。学園の関係者らしいが、話を聞く限り教員ではないようだ。
「…………」
気配はなかった。誰かが近づけばすぐにわかるが、この男の場合気配がわからなかったというよりも、急に気配が現れた感じだ。理由はわからないが、何にせよ只者ではないことは確かだ。
「何か用ですか?」
「つれないな少年。そんなことでは立派な勇者にはなれないぞ」
勇者はその冷やかしには答えず、ひとまず頬を伝う汗を拭う。
「ふむ……。毎晩ここで鍛えているのか。寮舎にも鍛錬所はあるだろうに」
どうもすぐにいなくなる気はないらしい男の様子に観念し、ユーシャは口を開く。
「確かに、寮の方にもトレーニングルームはある。だがあそこはダメだ。どの器具も普通のものしか置いてない。あれじゃあ田舎で鍛えていた時の方がまだ成果があった」
それに……、
「なるほどな。察するに、理由は設備が脆弱ということだけではないようだが」
……。
「どうも俺は、ここでは少し避けられているらしい」
「ほう」
男は興味あり気に顎を撫でる。
「だがそれも致し方無きことではあるのだろう。何せ君はあの魔王、かの『仄暗き夜の王』とその拳を交えたのだから」
「夜の王……」
それはユーシャにとって聞き馴染みのない言葉だったが、何を意味しているのかは理解できた。
「彼の魔王が持つ呼び名の一つだ。『真祖の吸血鬼』『不死の魔王』『月夜の絶望』『金色たなびかせる暗闇』。数多の呼び名は、それだけ人間たちから恐れられているというその証拠だ」
魔王。普段のアイツを見ていると忘れてしまいそうになるが、あの少女はアレでもれっきとした魔王なのだ。魔界より地上を侵略せんとやってきた恐るべき魔王。それがあの少女だ。
「そのようなモノに挑みに行ったのだ。周囲からの奇異の目はある程度受け入れねばならない。たとえここが、勇者という特異な存在を造り出すための場なのだとしても」
「…………」
「気に入らないかね?」
そう言って楽し気に口の端を釣り上げる男の表情は、確かに気に入らない。
「アイツは……魔王は、魔王なんて呼ばれるほど大したヤツじゃない」
「ほう? それは?」
どういう意味かと続く言葉に、ユーシャは答える。
「あいつは、力こそ悪魔染みているが、中身はどこにでもいるただの女……、いいや女の子だ。周りの人間が過剰に持ち上げているだけで、アイツはどこもすごいやつじゃない」
鍛錬中だったせいか、言葉の端が熱くなるのを感じる。
「朝はだらしなくて、起きるのに数十分掛かって、好き嫌いがあって、ゲーム好きで、どうしようもない、ただの女の子だ。だから──
「だから、外に出してやるべきだと?」
「っ……」
「勘違いするな少年。見た目が幼き少女であろうと、趣味嗜好がどのようなものであろうと、アレは魔王で、我らの敵なのだ」
「だが──
「現に、彼女に殺された人間は無数に存在する。彼らやその遺族に、君は同じことを言い連ねるつもりなのかね?」
「っ────、それは……」
「過ちは仕方のないことだ。若さゆえの浅慮も、時には敵との馴れ合いも許容しよう。だがしかし、決して忘れてはならない。それは彼らが悪魔という名の侵略者であり、君たちはそれを屠る勇者なのだということを」
「……」
「だからこそ我々は常に問わねばならない。悪魔を、魔王を殺すということの意味を。すぐ隣の世に棲まう隣人を殺すことの意味を、常に」
「すぐ隣の……隣人」
その言葉の意味を理解し、ユーシャは拳がキリリと軋む。
「納得しろって言うのか? 相手がどんなヤツだろうと、敵だから……悪魔だから割り切れと」
「そうだ」
「っ……」
「いずれ君は優秀な勇者へと成長するのだろう。それこそ、かの勇者姫に匹敵するほどのな」
「……同じことを、昼間にも言われました」
「ほう。それは、なかなか見る目のある御仁だな」
何が楽しいのか、男は小さく笑みを浮かべる。
「少し長居をし過ぎたようだ。私はこれで帰るとしよう。君も、鍛錬はほどほどにして、早々に休むといい」
確かに、流れた汗はすでに乾いていて、暖まっていたはずの身体は春の夜空に晒されてすっかり冷めていた。
だからといって、素直に眠れる気分でもないが。
「そうだ。一つ言い忘れていた」
そう言って男は背を向けたまま立ち止まり、
「明日の朝、かの魔王の処刑が決定した」
「ッ────!」
「協会の老人どもは魔王の存在を酷く恐れていてな。幽閉しているとはいえ、『始まりの魔王』の中で唯一生きながらえるあの魔王を早く殺せと躍起になっているのだ。今までは学長殿が押さえてきたが、先日のとある事件を皮切りに、ついに押し切られてしまったようだ」
「まさか、それは──」
「察しがいいな。そうだ少年。あの老人どもは、君が魔王の塔最上階へ辿り着いたことを理由に、魔王の塔の封印が弱まっていると主張した。一年生である君に突破されてしまうのなら、かの魔王を信仰する他の悪魔どもが封印を破るのでは、とね。当然根拠などありはしないが、奴らにとって理由などどうでもいいのだ。かの魔王を殺すことができるのならね」
「っ……」
「決行は明日の朝。聖剣持ちの執行人が到着し次第執り行われる予定だ。もし君に未練があるというのなら、別れの挨拶くらいの時間は作ってやろう」
皮肉にも聞こえるその言葉にユーシャは男の背中を睨みつける。
しかし振り向きもしない男はそんなこと意にも介さない。
「それではな少年。鍛錬はほどほどにして、早々に寝るといい」
「待て、まだ話は終わって──
引き止めようとユーシャが一歩踏み出したときにはすでに、男の身体はわずかな風だけを残して消えていた。
「…………」
伸ばした手を力なく下ろし、ユーシャは風すらなくなった暗闇をただ見つめるしかなかった。
眠れる気分などでは、とうになくなっていた。
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