猫
呆然と女の亡骸を抱く男の足元に、やがて一匹の、みすぼらしい猫がやってきた。猫は鳴き声ひとつ上げず、男をじっと見つめている。
その恨めしげな瞳は、先ほどまでの女のそれによく似ており、男は直ぐにその猫が彼女の新たな魂の形であると理解した。悪魔の力によって歪められた彼女の運命と魂は、男の願った通り、彼のそばを離れることは出来なかったのだ。
その視線に頬がかっと熱くなるのを感じた男は、反射的に足を振り上げ、猫を蹴り飛ばす。
ぎゃんと鳴いて宙を舞い、床に叩きつけられた猫は、その勢いのまま部屋の隅に滑っていくと、動かなくなった。男は深呼吸をする。鼻腔を通過する空気はひどく熱く、ただ不快であった。猫を殺してしまった。彼女を、殺してしまった。何故自分はそんなことを。この殺意は、一体何処から生じたものだったのだろう。ただ分かるのは、己の殺意が未だ消えず、この胸の内で燻っていることだけだ。
持て余した殺意の不快さにはっはと息を吐く男の視線の先で、猫が血を吐きながらゆらりと起き上がった。確かにこの爪先で、その命を潰したのを感じたはずなのに、何故。男はさらに不快になった。
猫は、吸い寄せられるように再び男の足元に歩いてくる。男はもう一度猫を蹴り飛ばした。ばきっと骨が砕け、それがぐしゃりと内臓に突き刺さる音が聞こえた。が、やはり猫は起き上がってくる。男はまた猫を蹴り飛ばした。それでも猫は起き上がってくる。
何度も何度も、男は猫を蹴り飛ばした。が、何度蹴り殺してもその度猫は起き上がり、男の足に擦り寄ってくる。
嗚呼どうしてこんなことに。俺は彼女を愛していただけなのに。だって彼女はあの日、誰もが小馬鹿にし、視線もくれないか、さもなくば見下してきた俺に微笑みかけたのだ。だから、俺が彼女の隣に立つきっかけさえあれば、彼女は俺を受け入れてくれるはずなのだ。それなのに、どうしてそんな目で俺を見るのか。猫を蹴りながら嘆き喚く男の頭上で、悪魔が高らかに嗤う。
男は気付かない。己の願いに「愛」の一文字も存在しなかったことに。己の欲していたものが、彼女の愛などではなかったことに。己が愛と名付け後生大事に抱えていたものが、自ら満たすことが出来ぬまま拗れ肥大化した自己承認の欲求であったことに。そのどろりとした欲の受け皿の役を彼女に求めただけであったということに。だからこそ、傲慢にも女の運命を歪めることを悪魔に願えたのだということに。
悪魔は嗤う。人間がそれと知らずに身に潜ませた悪徳の種をそれと知らぬまま芽吹かせ、そして花咲かせることの、なんと愉しいことか。その身のあちこちから悪徳の花を咲かせ絶望する人間の、なんと美しいことか。悪徳のために悪徳を働くことの、なんと悦ばしいことか。
「私は、悪徳を愛しているのだよ」
もはや男の右足にめり込み、溶けこみながらも、なお恨みがましい目でこちらを見つめる猫に慄き、足をめちゃくちゃに振り回して悲鳴を上げる男を眺めながら、悪魔は唇に美しい弧を描き、ひどく醜悪な声で嗤い続ける。その嗤い声はやがて人々の悲鳴にかき消され、まるでそんなものなど無かったかのように、いつしか聞こえなくなっていた。
悪徳 芥子菜ジパ子 @karashina285
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます