悪徳

芥子菜ジパ子

悪魔

 ある国、ある街、ある所に、ある女を秘かに想い続けるある男がいた。

 その恋は、よくある恋物語の定石通り、報われぬものであった。男は見目も良くなければ仕事が出来るわけでもない、悲しいかな恋物語の主人公には到底向かぬ男で、誰にでも平等に笑顔で接する女は、そんな彼を大勢の友人のひとりとしか思っていなかった。故になにもかも定石通り、女は他の男と結ばれることとなる。

 結婚式に招待された男は、花嫁姿の女を見て滂沱の涙を流した。誰もがその涙を「友人の流す感動の涙」と思い、適当な祝いの言葉と共に男の肩を叩いた。それが彼をさらに惨めにし、男の涙と嗚咽は加速してゆくばかりであった。


 刹那、一天いってんにわかにかき曇り、雷ががらがらがらと轟いた。その音と稲光に瞬間的に身を縮めた男がこわごわと顔を上げると、周囲の人間は蝋人形のように固まっていた。いいや、固まっていたのは人間だけではない。窓の外に見える木々も、その葉も、風に靡くその姿のまま斜めに固まっている。男の目に映る全ては、一枚絵のようであった。男はやがて、自分以外の全てのものの時が止まっているのだということに気付く。


「お前の望みを叶えてやろうか」


 頭上から声が聞こえた。猛禽の翼をばさりばさりとはためかせ降り立ったのは、なんと悪魔であった。全くの未知の、超常の存在を悪魔と男が断じることが出来たのは、その姿があまりにも美しく、扇情的であったからだ。


「お前の望みを叶えてやろうか」


 銀色の髪をゆらゆらと揺らしながら、美貌の悪魔は今一度、男に問うた。その声は、男のものとも女のものとも判別出来ぬ軽やかなものであったが、これまで感じたことのない圧で、男の両肩に伸し掛かってきた。


「お前の絶望からは悪徳の種の香りがする、私はその種を育てたい。私は、悪徳を愛しているのだよ」


悪魔は男の頬に残る涙のあとをべろりと舐めながら、さらに甘く囁く。

 自分に悪徳の心などない、自分はただ彼女を愛しているだけなのだと繰り返す男に、悪魔はふんと鼻を鳴らし、右手の指をぱちんと弾いた。周囲の景色がぼやりと滲み、女とその結婚相手が睦み合う姿が映し出された。

 男は咄嗟に瞼を閉じようとしたが、悪魔はそれを許さなかった。強引にこじ開けられた瞼を痙攣させながら、獣のような唸り声を上げて、男は愛した女の痴態を眺め続けた。


「彼女が俺の前では途轍もない無力であると感じるほどに、俺から離れられなくなればいい。彼女を、永遠に俺だけのものにしたい」


 どれほどの時が経ったろうか。遂に男は悪魔の前に膝をつき、そう願った。

 悪魔は高笑いし、再び右手の指をぱちんと弾く。世界がぐにゃりと歪み、人々のざわめきと木々の葉の擦れる音が、波紋を広げるが如く大きくなってゆく。

 

 ピントが合い、全てが動き出した世界で、男は花婿衣装に身を包んでいた。男はあっと声を上げる。彼のいるまさにそこは新郎新婦の控え室で、隣には、先ほどまであれほど遠くに感じていた花嫁姿の女が佇んでいるではないか。

 男は歓喜の涙を流して女の腰に両手を回すと、力を込めて彼女を掻き抱いた。が、こちらに柔らかくしなだれてくると思っていた女の身体は、ひどく強張っていた。その首筋に筋と鎖骨の輪郭が浮かび上がるほどに。

 女もまた、涙を流していた。


「私は永遠に貴方のものよ。でも勘違いしないで。私には分かる。何も分からないけれど、分かるの。何かのことわりが歪んで、私が貴方のものになってしまったのだということが」


故に自分は涙を流すのだ、わけも分からぬまま、否、分からぬからこそ、己の運命の違和感に泣くのだと女は続け、そのまま傍らのテーブルの上に何故か、信じられぬほどに都合よく置かれたナイフを掴むと、男の止める間もなく、自らの喉を裂いて死んでしまった。

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