第7話 「やさしい世界」②



通常は12階から落ちると即死ですが、電線に何度も引っかかったことでそれがクッションとなり、地面に落ちても意識があったようです。

救急隊員の呼びかけに答え、自分の氏名をはっきりと言い、「足が痛いです」ということも言っていたそう。


彼女は大学3年生で専攻はヴァイオリン、

何の偶然か私と一緒に「『副学長先生』からの電話」の話を聞いた大ベテランの田畑先生に師事していました。

名前を森山さん、とでもしておきます。

森山さんはもともとこの大学の附属高校に在籍していましたが、高校は中退して通信高校で卒業資格を取り、短大へ進学後努力を重ねて大学へ編入しました。

3年生ながらも次々とオーディションに合格し、早くも学部卒業後の就職先が決まった先でのことだったそうです。


田畑先生は流石にこのことに落ち込んでいました。

私は掛ける言葉に迷い、この頃から田畑先生とは少しずつ疎遠になっていってしまいました。


その3か月後、森山さんは元気な姿でお母様と講師室に挨拶に来ました。

入院・リハビリ生活が長かったとは思えないほどの健康的な姿で、髪の毛はツヤツヤ、清楚でとても可愛らしい洋服を着て、まるで撮影前のモデルさんか女優さんのようでした。全体的にエレガントな装いの中、カバンについていた餃子のキャラクターのようなマスコットアクセサリーが妙に幼く、少しだけ浮いているように見えました。


ともあれ森山さんは後遺症もなく、歩行や演奏などもできるよう回復したとのことで、一件落着となりました。



さて、この頃の私は非常に経済的に困窮していました。

演奏の機会が失われた上に、この大学の仕事は非常に薄給でした。

更に、激減した大学入学者を増やすためにと、大学が動画やパンフレットを作成する際は私が決まって選ばれました。

写真も、動画も、撮影は拘束時間の長い仕事です。

その分のリターンがあれば良かったのですが、「学校のために何とか」と言いくるめられその分の出演料はもらえませんでした。

ベテランの先生方にこのような対応をしているのは見たことがないので、私がいつも選ばれている理由をそこで察しました。

拘束時間は長いのに稼ぎは少なく、家族からも「どうしてそんなにお金がないのか」と不思議に思われる日々でした。

空き時間が無いので自分の演奏に使える時間もなく、オフの日は疲れ切ってしまい何もできません。


その悪循環からどんどん生活が苦しくなっていき、ある日鏡を見てみるとげっそりと痩せた、青く黄色味がかった顔の自分が写っていました。

髪の毛はぼさぼさで、まるで幽霊のようです。

私自身も、この大学の怪異の一つになってしまうかも知れないと、本気で思えるような姿でした。


この音楽大学はとても、優しい環境にあります。

未だにアカハラ、パワハラで教員と学生で揉める音楽大学もある中で、

先生方は優しく、学生生活は穏やかです。

ですが、このような「やさしい世界」にはどこか、誰かが歪みを受けてしまうよそよそしさ、冷たさが潜んでいるような気がしました。

その歪みが「絶叫する男」の理事(?)や、かつては優しい先生だった「自称・副学長」の高山さんの現在の姿かもしれないと思えたのです。


若く優秀で、一見悩みが見えづらい森山さんにも、人知れない苦悩があったに違いありません。


私も歪んでしまう前に、怪異になってしまう前に、この場から一度離れてみよう。

そう思える出来事でした。


その他にも色々な不思議な体験をしたのですが、

今思い出せるのはこの程度です。


因みにその音楽大学ですが、キャンパスのうち何棟かの建物が耐震基準を満たしておらず、それを隠ぺいしていたことがつい先日明らかになりました。

皆様もニュースなどでご覧になったかも知れませんね。


ごく普通に考えて、そのような場所で勤務していたことが一番の恐怖だったかも知れません。

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怪奇は踊る、されど Sakuya @sakuyawritting

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