第6話「やさしい世界」①

202X.03.27

「やさしい世界」


今からするお話は、私がこの大学を退職する半年前ほどの話になります。

こうして振り返ってみると、退職を決意するきっかけともなった話とも言えます。


この音楽大学で働き始めた頃は、小規模ながらもその学校らしい、温かな活気というのがキャンパス中にありました。

しかしその数年後になるとキャンパス内に活気がなく、小規模校というよりもただ単に学生のいない大学、というような寂しい雰囲気へ変わっていきました。

大きなターニングポイントはやはり世界的に新型感染症が蔓延したことだったと思うのですが、それは単なるきっかけに過ぎず、

学校法人としての限界が迫ってきたところに感染症の流行が決定打となったというように見受けられます。


感染症の流行で演奏の機会が尽くなくなったときは、自分が信じて努力していたものが全て「不要不急」だと言われているような気がして、モチベーションの低下が著しかったのを覚えています。

それでも大学の仕事が再開して、学生たちの純粋な演奏にレッスンなどで触れた時には

「若い人たちがこんなにまっすぐ学んでいるのだから、私が腐っているわけにはいかない」と随分励まされたものです。


さて、感染症流行の混乱のピークを少し過ぎた頃です。

11月初旬の、晴れた日でした。

午前中の11:00前後だったと思います。


この時期は大学の仕事以外にも執筆の仕事や取材が多く、多忙ではあったのですが、その日は比較的スケジュールが落ち着いていた日でした。


突然レッスン室の床がぐらぐらと揺れているのに気が付きました。

地震だ、と思って窓の外を見てみると案の定電線が不規則な動きで大きく揺れています。


既に妙な違和感がありました。

地面の揺れはそこまで大きくなかったと思うのですが、一方で電線の揺れは非常に大きいのです。


地震ではないのかな、とも思いました。


そのキャンパスの建物は非常に老朽化していて、例えば5階のレッスン室でピアノのペダルを踏み替えたときなどに「ドスン」と4階にその振動が響いたりするのです。

重いピアノや楽器がたくさんあるこの建物内で大きな地震がきたらどうなるのだろう、と思うことはよくありました。


何が起こっているのだろう、とレッスン室でそわそわしていると、窓の外からだんだんとざわざわとした雑音が聞こえてきました。

数分後に救急車のサイレン音が聞こえて、その音が最大音量に聞こえたところで止まりました。

ああ、学校に救急車が停まっているんだ、事故が起こったのだとその時に分かりました。

内線がけたたましくなり、「美咲先生はそのお部屋で待機していてください」という指示だけがありました。


女子学生が1名、12階の教室の窓より

自ら飛び降りたようでした。

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