寛容で多様的な明るい社会
くーくー
第1話
それは世界大統領ウォーリン・スピアの唐突な辞意表明から始まった。
「世界の皆さま、わたくしは世界大統領としてこの二年の間何事にも代えがたいような素晴らしい経験をさせていただきました。それは私の今後の人生においての糧になることでしょう。そして、任期を後一年残す中こうして辞意を表明させていただくことをお許し願いたい。」
就任三年目を祝う祝賀会場に詰め寄せた満員の聴衆は、一様にどよめいた。しかし、その後に続いた言葉はそれ以上に皆の度肝を抜くものであった。
「初代大統領として世界の皆さまに選んでいただき私は人生をかけてこの職務を全うしようと邁進してまいりました。けれど、昨晩眠りに就いたとき気付いてしまったのです。これは本当の私ではない。私は実はカレッジフットボールのQBだったのです。何を突拍子も無いことをと思われる方もおられるかもしれません。しかし、其れを自認し願えば何でも叶います!声に出すことが大切、そうすることで私たちは性別も国境も乗り越えて、世界を平らげ性別も争いも分け隔てのないこの平和な世を手にしたのではないですか。世界中が手と手を取り合いひとつになるそんな理想などは机上の空論だ。バカバカしいと切り捨ててしまっていたら、今まさに享受しているこの素晴らしい愛に溢れた安寧の世界は私たちの掌から儚くもすり抜けてしまっていたことでしょう!」
こめかみに青筋を浮かべ両手の拳をぶんぶんと振り上げて熱く語るウォーリン世界大統領の姿に、会場のほとんどは呆気にとられて口をあんぐりと開けていた。しかし、ごく一部の人々ははらはらと涙を流し、興奮冷めやらぬ様子で壇上に拍手喝采した。
会場にいたテレビカメラクルーはその点々と散らばった少数の人々の感激の表情を次々に映し出し、生中継を観ている街頭や自宅にいる人々には会場がさながら熱狂と興奮のるつぼで一体になっているかのように映ったのだ。
世界大統領辞任後、生中継を観て感激したコーチから誘いを受け、ウォーリンは強豪SS大学のフットボール部に入部し、思い描いた通りQBを任された。身長5フィート6インチ体重130ポンド足らず他選手の倍以上の年齢で、勉強とディベートに明け暮れた青春を送り、一度もカレッジスポーツの経験のない大学史上初異例の選手だ。ウォーリンが試合に出るときは前QBが背後からサポートし、相手チームはわざとらしくなるスレスレ程度にふらりふらりとウォーリンの邪魔にならないように一見軽快に動き、前世界大統領とその熱狂的な支持者のご機嫌を取る。ルール度外視の特例に次ぐ特例だったが、試合後にはウォーリン選手大活躍と大学新聞の一面をにぎわせた。
それから、世界の潮目は一気に変わった。
エレメンタリースクールの二年生が「あのねぇ、僕本当は学校の先生なんだよ」と言い、言う事を聞いてくれない子供たちに疲れ果てた教師が「私はね、本当はまだ二年生の子供なの。お絵描きして遊びたいわ」と返せばその場で立場が逆転し、教卓に頭まですっぽり隠れてしまう教師と、小さな椅子にお尻が収まりきらない二年生が誕生する。
多くの人々がその様な風潮に眉を顰め、ハチャメチャになってしまった秩序をどうにかうまく収めることに四苦八苦し、疲労困憊となっていた。しかしその不満を口にしてしまうと声の大きな賛成派に苛烈な嫌がらせを受けるため、貝のように口を閉じ目の下には深く濃いクマが刻まれた。
そんな大人たちの不甲斐なさに憤慨しこのままではいけないという思いを滾らせた若者たちは、同じ考えを持つ仲間たちをひそかに集め監視の目が届きにくい街外れの廃ビルに集まって思いのたけを吐露するようになっていた。
「なぁみんな、こんなところでこそこそと本音を言っているだけでは何も変わりやしないじゃないか。俺は次の月曜集会の時に、カメラをジャックして俺たちの思いをきちんと話そうと思うんだ。きっと世界には他にも同じ思いをしている人たちがいるはずだ。誰かが勇気を出さなくては」
大学のフットボールチームの元花形QBだったリーダー格の青年の言葉に若者たちは頷き合い、翌々日の世界大統領府前広場で行われる月曜集会のテレビカメラジャックに向けて着々と準備を進めた。
月曜日、「アイタタタ腹がいてぇよぉ」もんどりうつ少年に気をとられたカメラクルーを屈強な若者たちが取り囲み、その中心には若者たちの代表のあの青年。
「世界の皆さん突然すみません、ほんの少しだけ俺に時間をください。今のこの状況について言いたいことがあります。希望を声に出すのは確かに良いことだけれど,そこに向かって努力するのが一番大切なんじゃないか。俺たちはそう思うんです。とんとん拍子に夢をかなえたように見える人もそこにい続けるためにきっと努力はしたと思う。それが叶ってもかなわなくても夢を掴もうと伸ばした手と積み重ねた努力と流した汗や涙が何よりもの財産として心に自身に刻まれるんだ。そうここに」
自身の胸をポンと叩いて短いスピーチを終えた青年、その簡潔でありながら飾り気がなく真摯な思いに溢れた感動的な言葉は観衆の胸を打ち、ジャックされたカメラマンに始まり初めはパラパラと小さく小雨のような、しかし次第に大きくなり夏の終わりの雷雨のように激しい雨音に似た拍手が、広場中を包みこんだように思われた。しかしその調べに紛れ、枯れ木のようにやせ細った一人の小柄な老人が青年の前にいつの間にか忍び寄り鞄から出した果物ナイフでその胸をぐしゃりとえぐった。
「なんてことをするんだ!この素晴らしい若者を」
今度こそ皆が心を一つにし、さっきは拗ねた表情で拍手をしなかった人まで一丸となって凶悪犯を取り押さえる。
「愚かなものたちめ、今朝気付いたのだ!私は神だーこの世界を統べるもの!おぬし等天罰が下るぞ」
「ふざけるな!言っていいことと悪いことも分からないのか!」
抑え込まれた老人は、折り重なる人々の圧でその場で絶命した。すると、老人の鼓動が止まったその刹那に青空を切り裂くような赤い閃光が走り、広場は炎で包まれた。
「ま、まさか彼のいう事は本当だったのか?そんなバカなことが」
「あぁ、神よ、どうかお助け下さい」
その五分前、勇気ある青年のスピーチが終わったころ、新たに世界大統領になった三歳児のベッキーがママに決して触ってはいけないと言われた食器棚の一番上にあるクッキー缶を物欲しそうに見つめていた。
「あんな高いところ、これじゃあ跳んでもはねても届かないわ!」
どうしても食べたくて脚立をずりずり引き摺って持って来て食器棚の上に手を伸ばしお目当てのそれを手に取って開けたが、そこには食べたかったチョコチップクッキーは入っていなかった。
「なーんだ、変なボタン」
ベッキーは、缶の中の赤く古ぼけたボタンをえいっと放り投げた。
世界大統領の引継ぎ式典で「ベッキーこれは世界の命運を左右するんだよ」と前大統領に言われていたのだが、目の前を横切った黒猫に気を盗られていたベッキーの耳には一切その声は入っていなかったのだ。
「あー世界大統領ってちゅまんないのね。ドアには黒いお洋服のしかめっ面のおじちゃんたちがいつもいて公園にも行けない。こんなのピッピちゃんに替わってもらおうかな」
九官鳥のピッピちゃんは、その言葉に即座に反応する。
「ピッピ゚セカイダイトウリョウ、ダイトウリョウ」
「うふふーぅ、しょうだよーあれっ窓のお外が真っ赤っかだよ、花火かな」
「ハナビハナビ」
業火が世界を包みこんだ。
寛容で多様的な明るい社会 くーくー @mimimi0120
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