第39話 どっちでも

 包丁が突き刺さる音がした。


 骨に当たる音、ではなかった。ザクッとした軽い音だった。


「……」会長は寝転んだまま雪落ゆきおちさんを見て、「どうしたの? なんで、外したの?」


 雪落ゆきおちさんが振り下ろした包丁は、地面に突き刺さっていた。


 会長が避けたわけじゃない。いくら雪落ゆきおちさんが運動音痴とはいえ、この距離で外さないだろう。


 つまり雪落ゆきおちさんはワザと外した。意図的に彼を殺さなかった。


 雪落ゆきおちさんは包丁を地面に投げ捨てて、


「ドッチラケです」雪落ゆきおちさんらしくない言葉だった。「あなたを見てると……復讐する気も失せました。なんだか……つまらなくなりました」

「俺を殺さないの?」

「はい」ギリギリのところで思いとどまったようだ。「ですが、私があなたのことを嫌いなのは確定です」

「じゃあ、俺はどうしたら良い?」

「さっさとこの場から消えてください。そして……極力私の前に現れないように」

「了解」会長は立ち上がって、無造作に泥を払う。「じゃあね」


 それだけ言い残して、会長はこの場を立ち去った。


 あまりにもあっさりとしていた。ちょっとした世間話をしていただけの関係性くらいに見えた。


 雪落ゆきおちさんは会長を殺しかけたのだ。そして会長は殺されかけた。10年前は……雪落ゆきおちさんは家族を殺されている。


 そんな2人の関係性には似合わないような、淡白な別れだった。


 しばらくの間、僕たち2人はただ雨に打たれていた。寒いなんて思わなかった。


「……これで、良かったの?」

「……さぁ。わかりません」雪落ゆきおちさんは深い、深いため息をついた。「私は……10年間なにをしていたんでしょうね。あんなヤツをずっと恨み続けて……殺してやるって決意して……結局、なにもできなかった」


 10年の恨みすらもなくなるほど、犯人は空っぽだった。殺す意味がないほどに、すでに死んでいたのだ。


 相手がちゃんと生きていたら、復讐を成し遂げていたのだろう。だがその意義を彼女は感じなかったのだ。


 もしかしたら……このまま犯人を生かすことが、最大の復讐だと思ったのかもしれない。


「あーあ……」雪落ゆきおちさんは軽く言って、地面に寝転んだ。「これから……どうしましょうかね。生きる目的がなくなってしまいました」


 復讐のために生きていたんだろうな。しかし、その復讐も終わってしまった。不本意な形で幕が下りてしまった。


 不完全燃焼だろう。


 だが……僕の言うことは決まっている。


「簡単だよ。キミにはまだやることが残ってる」

「……なにか、ありましたっけ?」

「明日は少年のお礼を受け取るし、部活にだって所属したじゃないか」彼女の生きる理由なんて、そこら中に転がっている。「それに……まだ僕は返答をもらってないよ」

「告白の返答ですか……」それを聞かずには死ねないな。「うーん……どうでしょう。正直言って、まったく考えてませんでした。復讐で頭がいっぱいでしたから」


 僕のことを異性としてなんて見ていなかったのだろうな。


 彼女は空を見上げたまま、


「でも……そうですね……」なにか、納得したようだった。「1つ質問があります」

「なに?」

「髪型……短いほうが好みですか? それとも、長いほうが?」

雪落ゆきおちさんの髪型なら、どっちでも」

「……変な人ですね……」自覚はない。「とりあえず……本日はお騒がせしました」

「別に騒いでないよ」これくらいなら日常の範疇だ。「じゃあ、また明日」

「はい。また明日」


 そうして、雪落ゆきおちさんは雨の中を歩いていった。とても寂しそうな後ろ姿だった。

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