トドノネオオワタムシ
鐘雪花
トドノネオオワタムシ
ときどき、自分が生きているのか不安になる。
今日も隣の席の人に大声で探されてしまった。朝からずっと隣でパソコンを叩いていたというのに。まあ、今は地面を踏みしめて歩いている足があるから、死んでるわけではなさそうだけど。
そんなふうに足元ばっかり見て歩くのにも、すっかり慣れちゃった。新しい仕事には全然慣れないのに。あーあ。いいなぁ、点字ブロックは。わたしより社会の役に立ってるんだからさ。
丸と楕円の出っ張りを眺めつつ、最寄駅への道を急ぐ。頬を撫でる風が冷たい。鼻の奥がツンと痛くて涙と鼻水が出てくる……ああ、気温差アレルギーにはツラすぎる季節。北海道に秋が無いなんて、だれが言ったのさ。あるわ、秋くらい。そしてわたしは秋なんて嫌いだ。
職場の最寄駅『豊水すすきの』の階段を、地下へ向かって駆け下りる。人工的な冷たい爆風に煽られ、亀のように首を引っ込めつつ、腕時計を確認した。午後三時半、ちょうど反対方向へ向かう地下鉄が出発する時間。この時間に、わたしは改札へ向かってコンコースを歩いていく。うん、いつも通り。一分の遅れもない。そんな判で押したような生活をするわたしが、だれかの「時計」代わりになっていたら面白いだろうけど……
いや、そんな人いるわけないか。人間そんなに、だれかに注意深く見られているわけじゃないんだから。
大学を卒業後、長い長い春休みを終えて、この秋から仕事に就いた。無事に実家の「家事手伝い」も卒業できたものの、わたしは常に違和感と戦っている。
違和感……それはつまり、今の仕事が自分のやりたい仕事じゃないってこと。
ダメ元で面接の電話をかけたときから、面接のときも、採用の電話をもらったときも、わたしの心の中は違和感でいっぱいだった。違う、これはわたしのやりたい仕事じゃない。今ならまだ間に合う、引き返すなら今のうちだ……そんな言葉が、何度頭の中で響いたかしれない。
それでも今の仕事を選んだのは、もう就活に飽きてしまったから。せっかく受かったんだし、もうここでいいや。そのうち、好きになるかもしれないし。そんな気持ちもあった。そのせいで、こんなに苦労することになるなんて、あのときは思ってなかったんだ。
喉元まで出かかった大きなため息を飲み込み、わたしは改札を抜けてプラットホームへと階段を駆け下りた。決まってそこに立つと決めている一両目二番乗り場の左側に並んで、腕時計を確認。まぁ並ぶといっても、この時間はホームにわたしひとりしか……
……おぉう。
びっくりした……さっきまで、何も付いてなかったのに。ゴミかと思ったら、ゴミじゃなかった……あぁ、ゴミだったらよかったのになぁ……
天を仰げば、あたりを昼間のように明るく照らす蛍光灯が目に眩しい。まるでスポットライトのように、わたしひとりのために輝いている。
いや……正確には、わたしひとりじゃなくて、わたしと一匹だ。
コートの袖口にユキムシ。白いフワフワを身にまとって、まるで「ここは余の住処である」と言わんばかりに鎮座している。どうやら、外を歩いているときに連れてきてしまったらしい。抜かった……下ばっかり向いて歩いていたし、さっき時計を確認したときも時計しか見てなかったから、くっついてることに気がつかなかったんだ。今年は大量発生ってニュースも見てたはずなのに。ああ、もっと注意しておけばよかった。
さて、どうしようかな……こういうとき、むやみやたらと手で払っちゃダメなんだよね。小指の先ほどしかない小さな虫だから、人間の手が当たっただけで即死なんだから。そうなったら最後、大事なコートに潰れたユキムシが……うわぁ、考えただけで最悪。
だから、こういうときは思いきり吹き飛ばしてしまうに限る。そうすれば、ユキムシに手が触れることもなく、潰してしまう危険もない。
まったく、どうしてくっついて来ちゃったかねぇ。わたしじゃなきゃダメな理由でもあったのかい? あそこは繁華街の端っこだけど、ちゃんと街路樹のシラカバが生えているから、こんな人工物にとまることないじゃないの。それじゃ、私は地下鉄に乗って帰るからね……
と、心の中でそこまで話しかけてから、ふとあることに気がついて、わたしは吸った息を止めた。
ちょっと待った。ここはどこだ? そう、地下鉄東豊線『豊水すすきの駅』。つまり……屋内だ。こんなところでユキムシを吹き飛ばしたって、外に逃がしたことにはならないじゃないか。
床に落ちて踏まれるか、わたしじゃないだれかのコートにとまって「振り出しに戻る」か……どちらにしろ、良いことはひとつもない。
コートの袖口に鎮座しているのは、ひとつの命。ユキムシだって人間だって、持っている命の数は同じ。だから、ここでこの命を見捨てたら、わたしは一生、自分自身を軽蔑する、後悔するだろう。ちょっと大袈裟かもしれないけれど、命の問題だ。抱えきれないほど重くて、ちょうどいいくらいじゃないか。
よし、決めた。このユキムシは、わたしが助ける。
改札は通っちゃったから、最寄駅まで一緒に行こう。ちゃんとつかまってるんだよ。
心の中で声をかけると、ユキムシは返事をするように、袖口での位置を微調整していた。
わたしの言いたいことがわかったのか、それともただの偶然か……まあ、どちらにしても飛ぶ気配がないのはいいことだね。どっか行っちゃったら、諦めるしかないもん。そのまま、じっとしててね。
満足のいく場所に落ち着いたらしく、ユキムシは動きを止めた。その様子を眺めていると、駅構内のスピーカーがポンピーンと鳴り響いた。見上げた先、頭上の電光掲示板をオレンジ色の文字列が流れていく。
『福住駅行きは、前の駅を発車しました』
ああ、もうそんな時間。耳をすませば、ゴムタイヤの滑る音がだんだんと大きくなってくるのがわかる。それと同時に、肌を撫でるようなそよ風が吹き始め、ゴムタイヤの摩擦音が耳元で鳴き始めた。
左手奥を見やれば、オレンジ色に光る「福住行」を額に光らせた地下鉄が見えてくる。まるで突風をまとって切り裂くように、それでいて滑らかに車両が目の前に現れ、これでもかと静かに停車した。爽やかな水色のライン、四両編成の東豊線9000形。
停車した地下鉄に合わせて、ピロンピロンと軽やかな音が鳴り、ドアが開く。もちろん、降りる人が優先だ。数人見送って……よし、行きますか。
わたしは袖口のユキムシを確認した。ベスポジを見つけたユキムシは、まるで模様のようにコートに馴染んでいた。わたしはユキムシに小さく頷き、いつもの一両目二番乗り場から地下鉄に乗り込んだ。
これから、十分弱の旅が始まる。
目指すは終点……福住駅だ。
◆◇◆
午後三時半過ぎの地下鉄は、まるで閉店間際のスーパーのように空いている。札幌ドームで何らかのイベントや催し物がないかぎり、福住行きの地下鉄が午後の昼下がりに混み合うことはない。おかげで、今日もいつも通り端の席に座れた。
判で押したような生活、その中でわたしの左の袖口だけが異彩を放っている。はい、そのまま、そのまま。終点福住駅まで、じっとしててね。心の中で袖口のユキムシに言い聞かせる。まるで、腕時計を確認するみたいに。
……そういえば、ユキムシってどんな虫なんだろ。あまりに身近すぎて気にとめたこともなかったな。いい機会だから、ちょっと調べてみよう。
わたしは袖口を気遣いながら、膝に置いた肩掛けカバンの中からスマートフォンを取り出した。普段はしまったままのことがほとんどだけど、気になったことは放っては置けない性格なんだよね。それ、検索っと……お、出てきた。
……へぇ、ユキムシってアブラムシの仲間なんだ。正式名称は「トドノネオオワタムシ」……ええーっ、なんちゅーゴッツイ名前してんだ、こんなちっこいのに。
春にヤチダモで生まれて、夏はトドマツで過ごす。その間に何度か世代交代して、秋の終わりに羽の生えた成虫がヤチダモに帰る。つまり、わたしたちがユキムシって呼んでるのは、トドマツからヤチダモに移動している「トドノネオオワタムシ」の成虫のことなんだ。それで、彼らが飛び始める時期と、札幌で初雪が降る時期が同じだから「ユキムシが飛ぶと初雪が降る」って言われてるんだね。なるほど。
すごいなぁ、毎年見てるのに全然知らなかった。お前さん、旅の途中だったんだね。無事に外に出られるといいんだけど。
袖口のユキムシは少しポジションを移動していた。でも飛び立つ気配はない。まるで、わたしの念じていることがわかっているみたいだ。
スマートフォンをカバンにしまって顔を上げると、電光掲示板が一駅目の『学園前』に到着したと教えてくれていた。緩やかな減速、そしてそのまま停車。鳴り響く扉の開閉音。プラットフォームに学生の姿が山と見えるけれど、みんな『大通』へ向かうようで、こちらの地下鉄に乗る人は少ない。おかげで、わたしの乗っている地下鉄は空いたままだ。
人気のない遊園地のアトラクションのような地下鉄が、少ない乗客を乗せて発車する。その中に、わたしとユキムシがいる。左の袖口のユキムシは、じっとして動かない。わたしも一緒に、端の席で小さくなって気配を消していた。
……何もすることがなくなって、嫌でも今日の仕事を思い出してしまう。今日は酷かったな……いや、今日も、か。
自分のミスで、自分だけが困るなら仕方がないことだと思う。でも、そのミスのせいで自分以外の人が困ることになるのは、本当に申し訳なくて……大丈夫だよって言ってくれる人もいたけど、でも下げた頭は上げられなかった。自分のせいで迷惑をかけたのに、自分じゃ何もできない。謝ることしかできないなんて、それってここにいる意味ないじゃん。
とても丁寧に仕事を教えてくれる人なのに。これじゃまるで恩を仇で返すようなものだよね。ああもう、自分が嫌になる。
だれの役にも、何の役にも立たない、役立たずのわたし。いてもいなくても、何も変わらない。むしろいないほうが、ほかの人の仕事が捗るような気もする。明日の仕事、休もうかな。わたしがいたって、邪魔になるだけかもしれないし……
だれにも見向きもされないユキムシと、そこにいてもいなくても変わらないわたし。指先で触れただけで潰れてしまうユキムシと、社会の歯車になれずに心が潰れそうなわたし。
点字ブロックに向かって「自分よりより社会の役に立ってて羨ましい」と呟いてしまったわたし……
二駅目『豊平公園』到着、発車。三駅目『美園』到着、発車。あと二駅。相変わらず乗客は少ない。わたしは昨日も今日も、こんな地下鉄に乗っている。明日も乗るかどうか……ちょっと弱気になっちゃったけど、きっと乗るんだろうな。だって、もしかしたら何かの役に立つかもしれないし、隣の人に大声で探されないかもしれないんだから。
……ちょっとだけ、期待させてくれたっていいじゃないか。
四駅目『月寒中央』到着、発車。広い座席には、端に座って俯くわたしと、袖口で動かないユキムシだけだ。そういえば、さっきから全然動かなくなっちゃったな。袖口にくっついてるってことは、まだ自分の足でつかまってるってことだけど……うわ、もしかしたら、弱ってきてるかも……! どうしよう……!
そんなわたしの動揺に合わせて、地下鉄が右に左に大きく蛇行する。これは、終点『福住駅』への連結部分……そういえば、いつものアナウンスが流れていたような気がする。
もうすぐ到着だよ! 頑張れ!
心の中で袖口のユキムシを励まし、地下鉄が停車するのを待つ。蛇行を終えて、減速する地下鉄。福住駅は終点であり始発の駅。車窓から見えるのは、この地下鉄に乗って市街地へ向かおうとしている人たちの列。地下鉄は「やれやれ」と言い出しそうなブレーキ音とともに停車し、ピロンピロンと扉を開けて乗客を吐き出す。その中に、勢いよく飛び出すわたしとユキムシがいた。
普段は「健康のため」と言いつつ決して走らない階段を駆け上がり、普段は決して欠かさないSAPICAの残金チェックもせずに改札を抜ける。出口三番へと続くコンコースを激走し、私は地上へ向かって階段を駆け上がった。見上げた先のゴールは、果てしなく遠い。まるで、この世界ではないどこか……天国にでも続いているかのように。
……まあ、それもそのはず。地下鉄東豊線は、札幌にある地下鉄路線の中でも、いちばん地下深くを走行する地下鉄だ。地上に出るまでには、かなりの距離がある。要するに、階段が多いのだ。
踊り場二箇所の長い階段を上がって、右に曲がればまた階段。どこまでも続くエンドレス構造。
それでもわたしは走り続けた。左の袖口に、ユキムシをくっつけたまま。
今日が、終わりの見えない長い階段みたいな日だったとしても、わたしは明日を信じて走り続けるだろう。
だれかの「時計」代わりだっていい。仕事では役に立たないかもしれなくたっていい。この世界にいてもいなくても変わらなくたっていい。今はただ、自分にしかできないことを一生懸命やるだけ。
ユキムシを外に出してあげるために。明日はいい日になるって信じて、走り続けるんだ。
◆◇◆
福住駅の三番出口は、札幌ドームへ向かうための出口。すぐ外に出ることができて、今日はイベントもないから人も少ない。
最後の階段を上り始めたら、すぐ右手にイトーヨーカドーの入口が見えてくる。と思ったら、もう外に出ているから不思議な出口だ。
腹の底に響く自動車のエンジン音、思わず息を止めてしまいそうになる排ガスの臭いに混じって、寒風が頬を刺してくる。開けた道路は国道三十六号線。夕方のラッシュアワーなのか、先ほどの地下鉄の乗客たちとはうってかわって車の密度が高い。
さて、外に出られたけれど、これからどうしようか。ユキムシ、ちゃんとくっついたままだよね……? 急いで走ってきたから、途中で飛ばされちゃったりしてないよね……? わたしは呼吸も荒く、左の袖口を確認した。地下鉄の中で身動きひとつしなくなってしまったユキムシはというと……
なんと、袖口をノソノソと歩き回っていた。まるで「地下鉄? そんなもの乗りましたっけ?」と言わんばかりのアクティブ感。なんともないの? 本当に??
そういえば、さっきスマートフォンでユキムシについて調べたとき「熱に弱い」って書いてあったような気がする。寒い屋外に出られたから、ちょっと元気になったんだね。良かった。とりあえず何か自然物の上に載せたいな……葉っぱとか、ないかな。
人工物だらけの道路でキョロキョロしていたわたしは、もう一度ユキムシの状態を確認しようとして……その姿に釘付けになった。
それまでユキムシは、真っ白いフワフワの身体を揺らして袖口を歩き回っていた。けれどもわたしが視線を落としたとき、ユキムシはピタリと動きを止め、おもむろに羽を広げたのである。見るからに繊細な作りの羽。わたしには、教会のステンドグラスのように見えた。
触れただけで粉々に砕けてしまいそうなその羽で、君は飛び立つというのかい……?
わたしは瞬きも忘れて見入っていた。すると、寒風が止んだ次の瞬間、ユキムシは美しい羽を震わせて飛び立ったのだ!
手足を広げて上昇。かと思うと、そのまま道路の向こうに見える夕日に向かって、まっすぐ飛んで行ってしまった……今までのことなど、何もなかったかのように。
わたしは、道路に立ったままその姿が見えなくなるまで見送っていた。もちろん、ユキムシが振り返ることもなければ、お礼を言うわけでもない。それでもわたしは、寒風吹きすさぶ空の下、排ガスの臭いの中で立ち尽くしていた。止めどなく溢れてくる、不思議な満足感とともに。
ありがとう、ユキムシ。わたしを必要としてくれて、わたしを役に立たせてくれて、ありがとう。
たったこれだけのこと……人に話せば笑われそうなことでも、わたしにとっては今日一日の中でいちばんの幸せな出来事だったかもしれない。だって、そのおかげで、ほんの少しだけ明日も頑張れそうな気がしてきたのだから。
車が行き交う道路の向こう、夕日に向かって飛ぶユキムシは、もう見えない。わたしの不安や苦しみ、悲しみまで持っていってくれたかのように。
わたしは、冷たくなった手を袖口ごとポケットに突っ込み、家路を急いだ。
また明日、いつもより充実した一日を過ごすために。
おわり
トドノネオオワタムシ 鐘雪花 @kaneyukihana
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