言うに事欠き筆を執る 作:俗物
最近、想うことがある。この世は何と生きづらいのだろうかと。それは例えば回転寿司で醤油をぺろぺろしたら四桁万円の賠償を負うらしいし、野球観戦のボールを奪えばネットでさらし者、撮り鉄は刑法違反になれば豚箱行きかもしれない。まあ、いずれも「自己責任」といえばその通りだ。彼等に同情すべき事由は無いし、私も同情などしちゃいない。一方で、こういったことに被害を受けた企業が訴えれば、血も涙もない企業だなんて扱いをされる。それはあまりに可哀そうな話だ。ただあそこのチェーンは昨年とかにおとり広告で消費者庁に怒られただけだってんだ。閑話休題。別にあそこのチェーンについて、ここで恨み言を吐きたいわけじゃあない。ただし、弊学生は大学近辺のあそこで働くのを遠慮してくれないかなと思うだけだ。なぜかって? 見るに堪えない接客をするからである。「仕事に誇りを持て」だなんだって昭和の化石みたいなことは言わんけど、「俺はまだ本気出してないだけ」みたいな面してだらだら働いてる学生を見るとイラっとくるのだ。お前が自分で選んだ道だろって話。ま、かくいう私もコンビニ店員時代はこんな感じだったんだが。
ここで何を言いたいかといえば、全てこの世は鬱屈している人間で溢れているのだということだ。醤油ぺろぺろも「俺はまだ本気出してないだけ」も自分の中で満たされない承認欲求と肯定感を叶えるために生じる行為/雰囲気である。そうそう、昔の九大では「俺は九大生だ!」事件もあった。その事件について軽く説明でもしておこうか。六年くらい前のとある深夜、周船寺のコンビニで、泥酔した若い男がおでんをつんつんして暴れてしまったという事件だ。これだと当時流行っていた(?)迷惑事件だが――案外醤油ぺろぺろの原型かもしれない――、この男は違ったのだ。彼は制止する店員に対してこう叫んだという。
「俺は九大生だぞ!」
ああ、この言葉を何と評価すればよいだろうか。酔っ払いのたわごと? それともそもそも九大生騙り? どちらだっていい。ただ言えることは、この男は自分の持つアイデンティティを「俺は九大生だぞ」という言葉に詰める外なかった、その語彙しか持ち合わせていなかったということだ。本人がわざわざコンビニで暴れるほどに鬱屈していたのかどうかはわからない。いや、本人らにはそこまでの自覚はないだろう。ま、とはいえど「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」ってやつであり、概して俺からは鬱屈した哀れな奴と見なされる。ああ、「九大生」は哀れにも見下されてしまうのだ。もっとも、今もSNSにうごめく俗物たちの方が見下されるべき存在かもしれないが。ああやって、一部の身内できゃっきゃしてるだけの「サークル」なんて見るだけで反吐が出る。
さて、私は曲がりなりにも文芸サークルとやらに所属している。もしかすると、読者諸氏の多くも所属しているのではないのだろうか。それじゃあ、我々は何故筆を執るのだろうか? これはある意味根源的な問いといえるだろう。やれ、夢のため、野望のため、あるいは愛のため、ひいては世界平和だのと言う人もいるのかもしれない。だが、一言で片づけてしまえば、全部自分の自己満足に尽きるのではないか。言い換えれば大路を走る前に筆を執るのだ。
さて、仮に我々文学青少年・中年が自己満足(あえてここでは憐憫やら陶酔やらと呼ばないでおこう)のために書いているのだとする。そして、それを部誌やらチラシの裏やら、どっかのウェブサイトやらに綴るとする。そして、読者に対して「コメントが作者のモチベです」だとか「ご意見待ってます」だのと言う。だが、その癖して「描写不足」だの「作者の自己満足がきつい」なんだって言われた途端に、ぴえんってしちゃって慌てて「アンチ・ヘイト」だのってタグをつける。
これはよくある書き手の一例だろう。ただし、それはどこかのアイドルよりも(主にメンタルが)ヘラヘラしていて面倒くさい連中ってだけだ。自省(あるいは自制)が出来てない癖に権利だけ叫ぶからこうなる。まあ、それが許されるのが民主主義社会ってことだろう。翻って我らが部活にも似たような人間はいないだろうか、書き手はいないだろうか。
自分の書いた文章に愛着を持つことはそりゃ結構だ。結構すぎるからこそ、著作権には人格権なんてものがある。一方で、その愛着がゆえに変なことをしちゃう(例えば他ジャンルへの放火とか押し付け染みた布教とか承認欲求を満たすためだけの宣伝とか)やつもいる。これもまた、おでんつんつんやら醤油ペロペロやらと同様の鬱屈故の行動だ。いずれにしても、鬱屈ゆえの破壊衝動やらなにやらに手を染めちゃうアホもいるってこと。もちろんこうした連中に関して、私がここでお説教をする必要は一ミリもない。私の生きている世界に彼等は存在しないし、彼等の世界に私はいないだろう。だが、そんな両者を繋ぐ媒介がある、それはSNSである。SNSによる拡散系のアカウントなんかによって、私と彼等とは結びつく。言うなれば、私の視界に入り、私は不快を感じうるわけだ。
これは小説においても同じじゃないか? つまりは、小説によって媒介されて、書き手と読み手は繋がる。読み手は小説を通じて書き手を理解する。書き手はその反応を見て、読み手を理解する。いうなれば相互依存関係だ。だからこうしたとき、読み手が程度の低い(と判断する)小説に出会えば書き手を見下してしまう。あるいは見切ってしまう。書き手も書き手で、自分の表現についてこれない読み手を見て諦めることもあるかもしれない。ひどい場合は、「あえて」程度を下げたものを書くかもしれない。そうしてお互いが理解できる範囲の作品ばかりが市場に並んでいくのだ。これは市場原理だし、不可逆的なものかもしれない。だが、もし、どちらかがどこかのタイミングで「上」を目指せるのなら、その縮小再生産の螺旋から抜け出すことも可能かもしれない。もっとも、今の我々に可能かどうか……こんなことを言っている俗物もまた、螺旋の踊り場で酒を飲み、上に向って叫んでいる俗物だ。
さて、こんなことをつらつらと書いてきて、何が言いたいと頭をカンカンにしている、読者諸氏もいるかもしれない。いいだろう、答えよう。俺はただ、先に述べた問いに別解を示したいのである。我々が筆を執るための理由である。それは一義的には「自己満足」だと言った。これは間違いではない。ただ、結局のところ鬱屈をぶちまけるためと言えないだろうか。つまりは、この世に存在しない自分のための物語を書き散らすことである。もちろん、それだと単なる自慰行為に過ぎない。言うならば公開オナニーだ。これについては過去にとある先輩が、自己満足のためと称して部誌にマスターベーションを公開した前例がある。だが、その先輩が偉いのは、それを一つの作品に昇華させたところである。人に文章を公開するとき、書き手はあくまで読み手を想像しなければならないだろう。そうでなければ、部誌に掲載する、あるいは文学賞に投稿する、そんな行為の必要はない。
だから、そういった文章には「ねらい」が存在する。恐らくこの文章にも「ねらい」は存在している。その「ねらい」を叶える為に文字を連ねていく、そうした気の遠くなるような、あるいはひどい回り道のような作業が、「執筆」という作業である。商品としての小説を書くのも、身内に読ませるための小説を書くのも、同じ「執筆」だ。しかし、そこに「読み手」がいなくなった途端に、「ただの」自慰行為になってしまう。自慰行為なら自慰行為だとしても、せめて販売できるくらいのビデオにしてから公開しやがれってことである。逆に言えば、その手続きさえ踏んでいるのなら、鬱屈した想いを解き放ったっていいだろ。
この鬱屈した想い、それは本来であれば何かしらの手段で解き放てるものかもしれねえ。でも、それが出来ないとき、進路、研究、人間関係、ぼんやりとした不安、公式との解釈違い、そして恋煩い。これを言葉で、口で、吐き出せないとき、俺達は筆を執るのだ。だからこそ、俺はキーボードを、ペンを離さずにいたい。そして、それはこの世界のみんながどこかで感じていると信じている。
誇大妄想狂じみてきたから、大通りでも走ってくることにしようか。ああ、もう走ってた。
2023年度・九州大学文藝部・新入生号『タイトルコール』 九大文芸部 @kyudai-bungei
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