ホームレスと幼女

ホームレスと幼女

 冷たい秋風がぴゅうと吹き、落ち葉がカシャカシャと音を立てながら地面を滑っていく。

 男は丸めた毛布を脇に抱えて河川敷を歩いていた。

 年齢は四〇歳と幾つかというところだが、そのみすぼらしい外見のため彼は実際よりも随分と老けて見えた。


 男は内心ホクホクだった。

(こいつは大収穫だ。こんなに綺麗な毛布が手に入るとは、今日はついてるな)

 大方、本格的な寒さに備えて衣替えをする際に新しいものを買う代わりに捨てられたのだろう。

 これから冬が来る。段ボールと新聞紙だけではやはり心許ない。毛布が一枚あるのとないのでは快適度は雲泥の差であった。

 少し埃っぽい匂いがするといえばするが、男の〝家〟の汚さを考えればそんなのは気にするほどのことではなかった。

 しかし、長距離を運ぶとなるとこの重さは地味に堪えるなと男は思った。

 男は思わず「よいしょ」と小さい声を漏らしながら、毛布を抱え直した。


 男はしばらく歩き続け、自分の〝家〟に辿り着いた。

 河に掛かった橋梁きょうりょう下のスペースに、段ボールで工作した壁と屋根の箱がいくつか並んでいた。

 毛布を抱えた男は、そのうちのひとつの出入り口のブルーシートをめくって中を覗いたところで、しばらくそのまま固まってしまった。


 女だ。女がいる。

 正確には少女……いや、幼女と呼ぶべきか。

 歳の頃はおそらく五、六歳程度。

 長い黒髪はボサボサで、冬の入口というこの季節にも関わらずヨレヨレのロンT一枚に裾が擦り切れたジーンズという寒々しい格好だ。

 男が言えた立場ではなかったが、その見た目はあまりにもみすぼらしい。

 そんな幼女が男の〝家〟の中の〝ベッド〟で丸くなって寝ている。

 何が起きているのか理解できず、男はしばらくの間動けなかった。

 近所の子がいたずらで侵入してそのまま寝こけてしまったのか。

 原因が何であれ、このまま家に上がってこの幼女と二人きりで過ごすのは何かとてもまずいことになる気がしていた。

 自分の家なのに入ることができないという状況に混乱している。

 困った男は、とりあえず隣のヤマさんに声を掛けることにした。

「おいヤマさん、ちょっといいか?」

 男と同じような造りをしたヤマさんの家のブルーシート越しに声を掛けた。

「んぇ?」

 という気の抜けた返事の後、ゴソゴソと音がしてヤマさんが前歯が何本か欠けた口をニカッと見せながら現れた。酒臭く顔が赤らんでいる。

「俺の家の中に見知らぬ女の子がいるんだが」

「あぁ? 女ぁ?」

 ヤマさんはただでさえ皺だらけの眉間にさらに皺を寄せて怪訝そうに言った。

 ヤマさんは男の家の中の様子を覗いた。

「……いるな。まさか死んでんじゃねぇよな?」

「ほら見てみろ、息してるぞ。生きてる」

「誰なんだよありゃ」

「知らねえっつったろ?毛布見つけて帰ってきたらここにいたんだよ」

 そんな会話をしていると、音に気付いたのか幼女がぱちりと目を開けた。むくりと起き上がる際に、体を包んでいた新聞紙がガシャガシャと音を立てた。そのまま幼女はきょろきょろと周りを見て、男と目線がぶつかったところで固まってしまった。男はとりあえず話しかけてみた。

「おい、お嬢ちゃん」

「こ、こんにちは」

「はいこんにちは。お嬢ちゃんはなんでここで寝てたんだい?」

「お、おそとさむいから」

「そうだな、その格好じゃ寒いよな。お父さんとお母さんはどうした?」

「にげ、にげてきたの」

「逃げて……家出か?」

 幼女はこくこくと頷いた。

 男は隣で立ちつくしているヤマさんに相談した。

「おいどうするよこの子。家出だとよ」

「家出っつうことは、そのうち捜索願が出て警察が探しだすだろ。そうなった時にここで匿ってたとなりゃ、大変なことになるんじゃねぇか?」

「だよなぁ。ここはサッサと警察に連れて行って保護してもらうのが」

「けいさつ、けいさつにはいかないで。パパとママのところにつれていかれる」

 幼女が切羽詰まった様子で割って入った。

「お嬢ちゃん、お父さんとお母さんのところに帰った方がいいんだよ」

「パパとママのところは、いやだ」

 必死な形相でそう言いながら、幼女がロンTの裾をまくし上げた。

 おいバカ何を、と言ってその行為を止めようとした男は、目の前の光景に息を飲んで動けなくなってしまった。

 幼女の腹や背中には無数の痣や火傷の跡が刻まれていた。

(……これは……虐待か)

 そうなると見た目のみすぼらしさにも納得がいく。それによく見れば靴が見当たらない。裸足で逃げ出してきたというのか。

「まえ、けいさつにいったら、なんにちかおうちじゃないところでくらしたけど、またおうちにもどされた。おうちにもどったら、パパとママはまえよりたくさんいたいことしたの」

「……よく分かんねぇけど、それだけの証拠と前例があるんなら、警察に行けば今度はどこかの施設的なところで生活できるんじゃねぇのか?」

「いやなの、とにかくけいさつはいや」

 そう言うと幼女はぽろぽろと泣き始めてしまった。

 困ってしまった男はヤマさんに向き直った。

「参ったな……どうすりゃいいかな」

「俺だって警察に連れて行くのが一番だと思うけどよ……まぁこの様子じゃなぁ……。落ち着くまで少しの間ここにいさせてやってもいいんじゃねえか?」

「そんなことして後で大事になったらどうすんだよ」

「俺達がパクられたら、ってか? だいたい俺もお前もこんな生活してて失う物なんかねぇんだしよ。そんなの気にしてもしょうがねぇだろ」

「そりゃまあ、そうだけどよ……」

 いくら失うものがないとはいえ『ホームレスが幼女を誘拐・監禁○日間!』などというセンセーショナルな見出しと共に自分の顔写真が新聞紙の一面を飾る未来を想像すると、やはりゾッとするものだ。

 しかし一方で、泣いている幼女をこのまま引きずって警察に突き出すのも心が痛む。

 とりあえずのところは、少しここにいさせてやって、幼女が落ち着いたところでゆっくり説得してみようということになった。


 ここにいてもいいと言うと幼女は泣き止んだが、それからはずっと部屋の隅っこで体育座りをしたまま動かずにいる。

 そして、泣き止んだ代わりに今度は幼女の腹がぐうぐうと鳴き始めたのだった。

 もうすぐ日が落ちる頃だし、晩飯にしなければ。

 そう思った男は、廃棄のコンビニ弁当を袋から取り出した。

 幼女に差し出すと、弁当と男の顔を交互に見て、見開いた目をキラキラと輝かせながら受け取った。

「あ、ありがとうございます」

 しっかり礼を言うとプラスチックの蓋をパキパキと手荒に開けた。

 下手くそながらに割り箸で一生懸命に弁当をかき込む姿を見ているうちに、男は「俺の分も残しとけよ」と言う気がなくなった。

 あまりに必死で食べているのでつい「美味いか?」と声をかけた。

 それに対する返答は、弁当を口いっぱいに頬張りながらだったのでところどころ聞き取りづらかった。要約すると、

「悪いことをしたらお仕置きでご飯抜きになることがあるからお腹が空いていた、いつもはパパとママの残したご飯をこっそり食べてた、綺麗なお弁当を食べられるのが初めてで嬉しい」

 といった趣旨のことを述べていた。

 それを聞いた男は

(俺が食った弁当の残りを与えるようなことをしなくて正解だったな)

 と思った。

 幼女は、ふと何かに気づいたように、弁当を食べる手をぴたりと止めた。

「お、おじさんはごはん、たべないの」

「おじさんか? おじさんは炊き出しがあったからな。温かくて美味いもんをもう食ってるから腹一杯なんだよ。だからそんな弁当は要らないの」

「たきだし?」

「炊き出し、分からねぇか。要するにおじさんはもう晩メシは済んでるから、それは全部お嬢ちゃんが食べていいってこと」

 それを聞くと幼女は少しずつ残りの弁当を食べ始め、やがて完食した。


 その夜は季節外れの寒気の影響で、段ボールとブルーシートでこしらえた橋梁きょうりょう下の家には隙間という隙間から刺すような冷気が入り込んできた。

 家の入口側で段ボールと新聞紙に埋もれて横になる男が一人と、家の奥の方で毛布にくるまって横になる幼女が一人。

 幼女は寝る前に男に「毛布一枚で大丈夫か」と尋ねられた。

 そこで幼女は気を遣って「何もかけるものがないままベランダで夜を過ごしたことが何度もあるから私は新聞紙だけあれば平気」という旨の説明をした。

 幼女なりに具体的なエピソードを盛り込んで説得力を持たせたつもりだったのだが、それを聞いた男は毛布をぐいと幼女に押し付けて、そそくさと新聞紙を被って横になってしまったのだった。

 幼女は暗闇の中で、風を受けて新聞紙が立てるカサカサという音と、その新聞紙の中の男の立てるぐうぐうという音を聞いていた。

 その音が寝息の音ではなく腹の鳴る音であることを、幼女は知っていた。


 それからしばらく男と幼女の奇妙な生活は続いた。

 隣のヤマさんやさらにその隣のシゲさんも協力して、幼女の分の食料や身の回りの生活用具を調達していった。

 お世辞にも綺麗とは言えない、どこかの誰かの着古しの上着を着た幼女はにこにこと大層嬉しそうにした。

 ここでの生活の方がよほどマシだと思えてしまうほど過酷な環境で育ってきたであろうことが容易に想像でき、よくこれまで死なずに済んだものだと男たちが感心をしてしまうほどだった。


 ある日、男は幼女の説得を試みていた。

「いいか? お嬢ちゃんはここが居心地がいいかもしれないけど、こんなところにずっといちゃいけないんだよ」

「ここは、わるいところなの?」

「ああ、そりゃそうだよ。夏は暑いし冬は寒い。その日の食うものだってどうなるか分かりゃしない」

「わたしはここにいるほうが、たのしい」

 幼女は出会った時のようにビクビクしている様子はなく、随分と明るくなっていた。この環境に慣れてきたのだろうか。慣れてもらっても困るのだがと思いつつ男は頭をかいた。

「楽しくなんかないだろ……。お嬢ちゃんはもっと真っ当な人生を送るんだよ。ちゃんとした家に住んでメシ食って寝て、ちゃんと学校に行って、ちゃんと友達と遊んで、ちゃんと仕事に就いて……」

 男が喋る間、幼女は今ひとつぴんと来ていない顔をしていた。

「おじさんは、ちゃんとしてないの?」

「こんな生活してるんだからちゃんとしてはいないな」

「ずっとちゃんとしてないの?」

 男は少し黙った。

「いや……昔はちゃんとしてたんだけどな」

 幼女が黙っているので、男は続けた。

「おじさんな、昔は普通の家に住んで仕事もしてたんだよ。奥さんと娘がいて……ちょうどお嬢ちゃんくらいの歳だったな……。ある日おじさんが運転してる車で事故を起こしてな、奥さんと娘はお空の上に行っちゃったんだよ」

 こんな幼女に身の上話をして何になるというのか。語り出した男は、そんなことを冷静に考えることはできなくなっていた。

「おじさんそれからは何もする気が起きなくて、でも死ぬ勇気もなくて、何もせずにふらふら過ごしてたら、いつの間にか家も仕事もなくなってて、気がついたらここで生活するようになったんだよ」

 滔々とうとうと男が語るのを幼女はじっと見ていた。言っていることはやっぱりよく分からなかったが、幼女の目には目の前の男がとても小さく寂しそうに見えた。

 幼女は純粋に訊いた。

「おじさんは、おくさんとむすめがいなくてさみしいの?」

「そうだな……おじさん、寂しいな」

「じゃああたし、おじさんのむすめになりたい」

 男は苦笑するしかなかった。

「だから、そんなんじゃダメだって言ってるだろ。お嬢ちゃんは真っ当に生きなきゃ」

 幼女は口をむっとしたまま、幼女なりに何か真剣に考えているようだった。

「じゃあまっとうになったら、おじさんのむすめになってあげる。だからおじさんもまっとうになってね」

 それがどういう意味なのかを、言った幼女自身よく分かっていなかったし男もよく分からなかった。

 だが男はその日、幼女と「お互い真っ当になること」を約束した。


 その数日後、男と幼女は近くの警察署に出向いた。

 男はこれまでの経緯を話し、どうか今後この子のことを慎重に取り扱ってほしい、安易に親元に返すのではなく子どもの話をしっかり聞いて然るべき形で保護してあげてほしいとひたすらに頼み込んだ。

 その後、幼女と引き離された後に男は事情聴取を受けた。

 実は暴行の数々は男によるもので、保身のために嘘をついているだけではないかと疑われたが、幼女の家庭環境や過去に虐待による保護の事実があるという裏が取れたようで、何とか冤罪は免れた。


 それから男は警察から区役所のケースワーカーに引き継がれ、生活保護を受けるようになった。

 かつては妻と娘を失ったことからひたすら無気力にさいなまれ、自分には税金で食わせてもらいながら生き永らえる資格なんてないと自分に言い聞かせていた男であったが、あの幼女との約束を果たすべく再び前を向くことにした。


 そして何度目かの冬が来た。

 男は町の小さな工場こうばで働いている。

 生活保護を受けながら求職活動をしている際に、前職の経験を買われて拾われたのだった。

 決して給料が高いわけではないが、自分で稼いで自分で生活ができている。


 ある日、仕事帰りに近所のゴミステーションに衣類ごみとして大きな毛布が括って捨てられているのが目に留まった。

 幼女と出会った日を思い出した男は、その足であの橋梁きょうりょう下に向かった。

 着くとそこにはあの時と変わらず段ボールで作られた家があった。

「ヤマさん、いるか?」

 ブルーシートに向かって声を掛けると、相変わらず前歯が何本か欠けて赤い顔をしたヤマさんが現れた。

「おぉ、なんだお前シャバに出たのか」

「いや別に捕まってたわけじゃねぇんだけどよ」

 男が途中でコンビニに寄って買ったワンカップ酒と弁当の差し入れを受け取り嬉しそうにしているヤマさんが言う。

「そういや、あのちっこい女の子がよ、この間ここを訪ねてきたんだよ。あん時はボロボロの格好してたけど今はきちんと綺麗な服着てたぞ。髪も短くサッパリしてたしよ。そうだ、お前がもし来たら渡してくれって言われて預かった手紙があるんだった」

 そうごちゃごちゃ言いながらヤマさんは奥に引っ込んで何やらガサゴソと探し始めた。

 少ししてから、紙を一枚持ってヤマさんが再び現れた。

 かわいらしい熊のイラストが描かれた小さな便箋が一枚。綺麗に二つ折りにしてある。

 男は手に取って便箋を広げた。鉛筆で書かれたしっかりした字が並んでいる。


『おじさん、お元気ですか? 私は今、児童ようご施設でくらしています。学校にも行けて、友だちもたくさんできて毎日がとても楽しいです。

 私は家にいてひどいことをされるのが嫌で嫌で、あの日両親のすきを見てベランダから飛びおりて走って逃げました。はだしで走るのは痛くて寒くて、お腹も空いてふらふらしてました。そこでだれもいないお家を見つけたので少し休みたいと思って勝手に寝てしまいました。ごめんなさい。

 おじさん、本当はお腹が空いてたのに私にお弁当をくれてありがとう。寒いのに私に毛布をくれてありがとう。こんなに優しくされたのは初めてで、とってもうれしかったです。

 おじさんが、けい察の人に一生けんめい説明してくれたのもうれしかったです。私が今幸せなのはおじさんのおかげです。

 おじさんに言われたように、友だちと遊んだり勉強をがんばったりして、いつか人を助ける仕事をできるまっとうな人になりたいと思います。

 おじさんも元気ですごしてください。またいつかおじさんと会えるといいなと思ってます。

 第二のムスメより』


「何が書いてあったんだよ、ラブレターか?」

「馬鹿か。そんなんじゃねえよ…………あの子、今はちゃんと楽しく暮らせてるみたいだ」

「おお、そうか。そりゃあ良かった。会いに行ってみたらどうだ?」

「どこにいるのか書いてないし、書いてあったとしても行かねえよ」

「そういうもんかねぇ。あ、俺のところには毎日でも会いに来ていいぞ。こうして酒を持って来てくれるとなお良い」


 たった数日寝食を共にしただけの男と幼女。

 彼と彼女は、これからしっかり前を向いてそれぞれの人生を歩んでいく。

 この二人の人生が今後再び交錯する日が来るのか。

 それを知る者はいない。

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