第2話 ありふれた日々

面白きことない人生、どうやって彩るのだろうか。そこら辺に転がる石ころをいくら磨いても、それはただの石ころ。バラや紫陽花のような華やかな素材なら、何かしらの面白さを見出せるかもしれない。だが、私はただの石ころ。何の特徴もない、平凡な存在。偶然の出来事が起こらない限り、私の人生に面白いことなど起こり得ない。


配達のバイトは、イベント性に欠ける。スーパーの品出しよりも退屈かもしれない。だが、少しは収入が良く、何より自由がある。それが唯一の救いだ。弱者男性は、旅でしかイベントを起こせない悲しい存在。私の人生には、つまらなさが永遠にまとわりついている。


そんな私は、今日も気晴らしの旅に出た。特別な出来事もなく、ただ時が過ぎていくだけの人生。配達のバイト、孤独な部屋、そして時折訪れる無目的な旅。それが私の全てだ。他人には理解されない、言葉にできない深い孤独。それが私を支配していた。


私の住む田舎町を通る草津線から山陽本線に乗り換え、姫路方面へ不正乗車をするために向かう。都会に入るごとに、私の不快感は増す。それは何も考えずスマホばかり触っている人間の顔がむかつくからだ。そして、最大の不快感を覚える瞬間が訪れた。今風の女が列車に乗り込んできたのだ。


彼女は、まるで周囲の風景から切り取られたかのような存在感を放っていた。雪のように白い肌、黒い髪と色素の薄い瞳、赤い薔薇のような唇。彼女のスタイルは、モードの最前線を行くような、斬新で都会的な感覚を持っていた。ダークトーンのタンクトップ、デニムのショートスカート、ハイファッションのブーツ。彼女のファッションは、「まるで私を見て」と言わんばかりだった。


彼女の存在は、私の孤独をより深く感じさせた。今風の女を見ると、その存在になれないことへの恨みから、殴りたいという妄想が湧いてくる。あるいは、彼女になりきってK-popスターとしてちやほやされる妄想にふける。どうしてこんな気持ちの悪い妄想に行き着くのだろうか。この妄想を他人に知らしめて、彼らを不快にさせてみたい。だが、私の存在は、そこら辺の気持ちの悪いどうでもいい人間に過ぎない。

だから旅は不快になるからいやだ、でもなにもせずじっとしていることはもっといやだ。そしてすぐに出てくるなぜ生まれたのだろう?



そんな不快な感情の中、私が以前不正乗車をした時に利用した駅に着いたので、そこで急遽下車することにした。金光駅以前訪れたことが在る駅だ。駅は最近改装されてきれいになったようだ。人があまりあるいていない道をぶらぶらと歩く。名物の金光饅頭を購入し歩きながら食べる。どこにでもある味で自分の予想を超えてくることはない。昼時になったので普段はめったに行かないコンビニで何かを買おうと思ったが、急激なインフレで何もかもが高く感じ、結局2Lの水だけ買ってコンビニを出た。コンビニはもう庶民が利用する店ではなくなってきているように感じる。まんじゅうをもう一個買っておなかを満たそうとしたが、もう一回店に入るのは自分の食い意地を露呈することになるのでやめにした。そのかわりにカフェに入ることにした。私が足を踏み入れたのは、若い女性店主が営むカフェだった。古ぼけたものの独特の香りが微かに漂い、退店するには少々遠慮が必要なその種の店だった。カウンターを囲む席に、私と同じ年頃の元気な青年が座っていた。私はコーヒーとカツサンドを注文し、その青年が時折私を視線で追っているのに気づいた。当初は気のせいかと思ったが、店内を見渡すフリをしながら青年を盗み見ると、やはり彼の視線は私に向けられていた。私が注文するためにその青年を呼び出すと、にやつきながらこっちに歩いてきた。それがシンプルに顔面をなぐりたくなるほどうざったらしくて客に対して失礼な態度だった。私は常識というものは好きではないが、客に対しては気を配って接してほしいものだ。店主が「三島君、あちらの客に見ずに持っていって」と指示していたので、この青年の名前は三島というらしい。


「君、ここら辺の人なの?」

三島の突然の質問に私は驚いた。こんなにも早くプライベートな事を聞かれるとは。私には、店に入るときの挨拶、注文するための最低限の言葉、お礼を述べる程度のコミュニケーションしか装備していない。私は他人との会話を避けることに慣れており、こんなにも陽気で軽薄な男に話しかけられると、胃がキリキリと痛む。答えようとしたが、声が出なかった。人前で目立つことを怖れる性格が、発声を妨げてしまった。これは他人から見れば些細なことかもしれないが、自分にとっては言葉にできないほどの苦痛で、そのせいで何度も嘲笑を浴びてきた。


「いや、そうではない。ただの旅行者です。」私は少し間をおいてようやく声を絞り出した。

彼は少し驚いたように眉を上げた。「この町は特に何もないよね?」

「そうですね、特に何も。でも、駅がきれいになってましたね。」

「そうだね、駅はずいぶんと変わったよね。変わらない部分はいまだにこの町と宗教が結びついていることだね。」三島は悠々と言った。


その言葉に私は思わず息をのんだ。いきなりプライベートな話題に触れるだけでなく、宗教というセンシティブな内容も容赦なく話すこの三島という男はやはりどこかねじが飛んでいるようだ。この金光の町は特異な宗教の町として知られている。

「そうなんですか」と私は言葉に詰まり、三島は少し退屈そうな顔を見せた。「で、注文は何?」と彼が聞いてきた。「カツサンドと、ホットコーヒーでお願いします。」

「そうだ、君、その服ユニクロで買ったのかな?俺も同じ種類もってるよ」と三島が言い出した。「あ、はい。そうです。」と私は返した。次に三島は私のそばに置いておいた黒のリュックに触りながら「これ無印のだよね?」と彼は続けた。私はただうなずいた。もう彼に話しかけられるのが煩わしくて、そろそろ限界が近いことを感じていた。


「君には欲望というものがないのかな?宗教に頼らなくても生きていけそうだね。宗教に対してどう思ってる?」と三島が聞いてきた。彼の質問はあまりにも急で、私は頭が追いつかなかった。店の中には私以外に中年の男が一人、雑誌を開きながらコーヒーを飲んでいた。私がこうも三島に絡まれているのに、彼は全く気にも留めずに雑誌を読み進めている。頼むから彼に話題を変えてもらいたい。なぜ私のような普段は目立たない人間に、彼はこんなにも話しかけてくるのだろう。私は反対に彼に問いたい気持ちでいっぱいだった。


私自身、宗教に対しては一応の解釈を持っている。それが彼に対して何かしらの印象を与えているのかもしれない。私にとって、宗教は単なる人間の弱さを逃れるための避難所、自己啓発の最終形態、さらには集団幻覚のようなものだ。だが、そんな私の考えを声に出すことなどできるわけがない。私は困惑と苛立ちを抑えながら、「特に、何も...」とだけ返せた。


その瞬間、三島の顔には満面の笑みが広がった。「ごめん。ごめん。そんなに暗い顔するなよ。」と言い私の元を去っていった。その後ろ姿は、私にとって何とも不快で不可解なものだった。それから私は女店主が持ってきたカツサンドとコーヒーを急いでカツサンドを頬張り、店を後にした。三島が持ってこなくてよかった。足取りは重く、心は混乱していた。その後私は金光教の本山に向かいそこでしばらく立ち尽くしてから、駅に向かった。腹の中のカツサンドが無慈悲にも胃を圧迫する感覚と共に、私は黙って夜の町を歩いた。


私はもう足がボロボロになりながら私は6畳の狭い家に帰ってきた。家に着くとそれはもう疲労困憊で眠くなった。普通の人ならもう寝てしまうだろうだが私はこの疲労困憊の状態で対して見たくもない動画を見つつ旅の振り返りをするのが習慣になっている。いまも胃袋に残るカツサンドの胃もたれが旅によるダメージを知らせる。結局このたびに何の意味があったのであろうか。動画を見ていると、とある人物の過激なコメントが話題になっていた。「行き過ぎた多様性。弱者に配慮する必要なし」という彼の発言には、様々な賛否の声が挙がっていた。次々と様々な有名人がこの問題に対して中立的なコメントを投稿していたが、匿名のユーザーからのコメントは無慈悲だった。「弱者男性は焼却しよう」「すべて自己責任だろう」。こういったコメントを見ると、不快感と同時に、何か行動に移そうという強い意欲が湧き上がってくる。そんな冷たい言葉を目にすると、私の胸は不快感と共に反骨心が湧き上がってくる。


夢の中で、私は再び不快な光景を目の当たりにした。だが、目覚めた時にはすでにその内容を忘れてしまっていた。ただ、その不快感だけが心の片隅に残り、一日の始まりを告げていた。朝の6時、まだ夜の名残が残る室内に、窓から小鳥のさえずりが聞こえてくる。それは、ごく日常的な音、ありふれた風景の一部となっている。彼らは日々の暮らしの一部となっていて、窓の外の景色を彩っている。私は思う。すずめは私をどう捉えているのだろう。私にとっての彼らのように、彼らにとっても私は日常の一部なのだろうか。あるいは、私たちは全く別の存在として認識されているのか。私は彼らともっと親しくなりたい。友達になりたい。その朝、私が目にしたのは一羽のすずめの命が消えた跡だった。見慣れた景色の中に突如として現れたその小さな体は、生命を象徴する赤い血が羽を染め、その鮮やかさが同時に何とも言えぬ悲しみを醸し出していた。そして目に余るのは、死体に群がるアブの大群だった。すずめの羽毛があたかも肉片のように変わり果てている光景は、私の胸を締め付けた。


この小さな生命が静かに消えてゆく場面は、誰が処理をするのかという問いを私の心に投げかけた。それはまるで過酷な人間社会の鏡像であるかのようだった。小さなすずめの運命は、社会の底辺で生きる無力な者たち、そして無情にも社会の厳しさに圧倒される人々を表しているように感じた。もうなんでも悲劇的に結び付けてしまうのが、くせになっている。


人々はみじめな結末から逃れるために必死になっている。そのために、コミュニティに参加するためにお金を投じることさえある。それは宗教であったり、オンラインサロンであったり。お金を払えば一時的に共有体験を得られる音楽ライブに参加する。コミュニティは今や金銭的な投資により手に入るものとなっている。

しかし、これはお金があるときに限られる。お金がなければ何もすることはできない。特に男性にとっては、お金がなければみじめな生活を送り続けるしかない。その行き着く先は孤独死という過酷な現実だろう。私自身、その道を進んでいることが現実的に感じられてきている。アルバイトに何度も応募してはみるが、面接の直前で面倒に感じてしまい、結局は止めてしまう。その結果、貯金はじわじわと減っていく。


しかし、お金だけでは足りない。趣味や生きがいといったものがなければ、生活に楽しみを見つけることは難しい。私自身、その生きがいも見失っている。大好きだったぬいぐるみやかわいい動物たちを見ても癒やされることはなく、逆にイライラしてしまうことすらある。何をしても楽しくない、興味を持つことができない。そんな状況で気が狂わない方がおかしいだろう。


この怒りをなにか表現しないと私は気が済まない。私はどんなに人に受けなくても攻めた作品を作りたいという思いはあった。後期ビートルズみたいにとがったアーティストで私は憧れを持っていた。しかし音楽は致命的に才能もないし、まず手に付けずらいという問題がある。そこで自分が表現として最適だと思ったのは一番簡単そうで、身近に触れている文字だ。あまりに安直だが、とりあえず怒りをぶつけないと私の気が済まない。思想を小説という形で表現することにより、我が心の内を今一度整理してみる必要に迫られている。思想書では自分のまだ洗練しきっていない思想の粗が目立ってしまう。思想のような頑強な建築が求められるものに粗は目立ちやすい。だから小説として思想をちりばめる程度にとどめるのだ。問題はその気力があるかどうかが書いてみないと分からないので、まずは書いてみようと思う。ひたすら飽きないことを願う。これでまたバイトの面接みたいに途中で断念してしまうことが在ればまた絶望が深まるだろう。ただ妄想の世界を小説という形で表現することや、東野圭吾の小説みたいに商業的なものは自分が嫌いなので絶対書かないようにする。とりあえず東野圭吾は小説を書くたび間接的に自分が病気であることを知らしめているようなものだ。自分は思想を小説に込めるという点に重きを置く。この軸は絶対にずれてはいけない。


そこから私は起きている時間の半分くらいを小説につぎ込むほどには自分の性格にはあっていたらしい。ADHDの私にとって何をやるかはかなり重要なことになってくる。やりたいか、やりたくないかで物事を判断し、やりたくない場合には決してやる気がわいてくることはない。お金はこの間にもどんどん減っていっている。もうお金が減っていっても妙な快感がわいてきた。残りの半分は相変わらずみたくもない動画を見てだらだらと過ごした。これをインプットだと自分に言い聞かせて自分の気晴らしを正当化する。そんな自分にも生産性の論理が自分にも染みついているようで嫌になってしまう。私は格差社会に生きる人々の、持たざる者の悲劇的な日常を描くことで、それらの人々の心に寄り添いたい。持たざる者達が途方もない現実から脱出し、少しでも希望を見出す過程を描くことで、自分自身を慰めたい。そして希望というのは革命なしには存在しない。


書けば書くほど小説の熱量が増してきた。もしかしたらこれが才能というものの正体なのかもしれない。しだいにくだらない動画を見ることがなくなってきた。人生にあまりにも面白いことがなかったのでここまで集中することが可能だったのだと思う。そして私は6畳の狭い面白みのない部屋に住んでいる。他に私を誘惑するものがない灰色の壁をした刑務所の一室のような場所である。最初はいやいや書いていたが、音楽を聴きながら書くという方法でこの苦痛が少しやわらげられた。習慣というものは欠陥人間の私に対しても効果的だったらしい。



それから来る日も来る日も私は小説を書き続けた。これは大学受験の時以来の熱狂だ。そして小説を書くというのは薬の役目を果たしてくれて、夢の中には昔の記憶や人物が登場することも減ってきた。このことはまさに生きている時間が充実しているという何よりの兆候だった。お金が減っていても私はなんとかなるという楽観的な考えが以前よりも高まった。そんな単純な人間を軽蔑していたが、実際に自分も所詮そんな単純な人間だったのだ。そしてもっと他人の文学にもきちんと向き合うようになった。ちょっとした行動が私の考えや行動をこんなに変えてしまうとは思わなかった。やっぱり他人の文学を読むことはのどがつまりそうなぐらいに嫌で不快になるものだが、文学を読まなければ自分の世界観を表現することは難しい。苦痛を受け止め、そこで耐え忍びことができれば自分の中ですぐれた芸術として昇華することができるかもしれない。



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明日への逃走 清水 京紀 @kyouka29

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