第二花桜花と山茶花の出会い

「一ヶ月待たせてすみません。色々と忙しかったので」

 美しく微笑んで髪を撫でる花咲はなさきに、桜花おうかは「気にしないでください」という気持ちで真剣な眼差しで首を横に振る。

「いえ、構いません。花神様にも事情がありますからね」

 あれから一ヶ月が経った。

 なずなが桜木家の桜の木に登ったこと。

 これに対する罰を、桜花おうかは一ヶ月ずっと待っていた。

 そしてようやく花咲はなさきから呼び出しがあり、ここ花室はなしつに来ることができた。

「花神様、われはあなたが作った花の世界を汚しました。なので、どんな罰でもわれは受けます、いえ、受けさせてく」

「それは必要ありません」

「え?」

 驚きで何度も瞬きを繰り返す桜花おうか

 しかし、花咲はなさきは元から桜花おうかに罰を与えるつもりはない。

 いや、与えるべきではないと思った。

 なぜなら。

「全てわたくしの説明不足で起きたこと。あなたに罰を与える必要など、一つもありません」

 冷たく強く美しい言葉だが、桜花おうかは全く納得できずにちゃぶ台をドンっと叩いてしまった。

「ですが!」

 心が乱れて落ち着かない桜花おうかの手を、花咲はなさきがそっと優しく包み込むように握る。

「桜木家当主がわたくし花の守り人が与える罰を受けると知ったら、由緒ある名家だけでなく、庶民も不安になり、世界は一瞬で泥に染まって、全ての花が散る」

「あ、そんな・・・」

 花咲はなさきの言うことは正しい。

 花の世界の代表である桜木家当主、桜花おうか花咲はなさきから罰を与えられたら、きっと花の世界は不安で心が乱れ、今まで愛していた花全てを炎で燃やし、争いが起きてしまう。

 だから花咲はなさきは絶対に桜花おうかに罰を与えないと決めている。

 桜花おうかが桜木家当主になった瞬間で、その約束はつながっているのだから。

 だが、桜花おうかは誰よりも責任感が強く、なにもないまま屋敷に帰りたくないため、花咲はなさきにあるお願いをする。

「花神様、では、われの腕に傷をつけてくれませんか?」

「えっ! あなた、なにを言って、それは」

「お願いします! 桜木家の桜の木は、桜世はわれらの大切な宝物なのです。なにもないまま帰りたくありません」

 少女のように泣きながら精一杯お願いをする桜花おうか

 花咲はなさきはそんな桜花おうかの当主になったばかりの頃と同じ姿に似ていると、そっと頭を撫でて一瞬だけ笑った。

「分かりました。右腕を出しなさい」

「はい」

 桜花おうかが着物の裾を左手で握りながら右腕を前に出すと、花咲はなさきが左手の人差し指で一つの線を縦に伸ばして右腕から血と桜の花びらが溢れ出る。

「あ、あああっ!」

 今まで感じたことのない痛みが桜花おうかに激しく襲いかかり、涙が止まらない。

「う、ふう、ああ」

(痛い、痛い。でも、宝物を守るためなら、こんな痛み、大したことじゃない)

 桜木家当主として、桜世おうよの母親として。

 どんなことでも、冷静に対処する。

 それが当主に選ばれるべき人。

 桜花おうかがとても痛そうにしているのを、花咲はなさきがそっと優しく抱きしめて包帯を巻いた。

「これで満足しましたか?」

「・・・はい、とても良く」

「では、もう帰りなさい。あなたはもう一人ではないのですから」

「あっ」

 その「一人ではない」という言葉が今の桜花おうかにとって、過去の自分に言いたかった一言であった。

「そうですね、もう帰ります」

 抱きしめられた腕を丁寧に離して、桜花おうか花咲はなさきにお辞儀をし、襖を開けて屋敷に帰って行った。



 桜木家前当主であり桜花おうかの母親、桜木桜見さくらぎおうみは誰に対しても厳しく、花の世界では一番怖がられていた。

 苦いチョコレート色の細く背中まで長い髪を左肩で三つ編みにし、桜色の瞳。

 桜が描かれている紫色の着物は桜見おうみのためだけに作られた初代当主の特別な物だった。

『この味噌汁は誰が作ったのです?』

 大広間に集めた当時次期当主だった桜花おうかと使用人全員を力強く睨みつける桜見おうみ

 それに恐怖を感じた使用人の一人が恐る恐る手を上げた。

『わ、わたしが、作り、ました』

『お前か』

 ゆっくり美しく姿勢を保ちながらその使用人の目の前に立った桜見おうみがバシッと頬を叩いた。

『あ、ああっ!』

『うるさい! なぜお前のような草花が桜木家の屋敷で働いているのです、なぜ当主のわれがお前のまずい味噌汁を食べないといけないのですか! 早く理由を言え、言わなければお前の命はない!』

『う、うう』

 桜見おうみを一瞬でも怒らせば、必ず一人は命を失う。

 それも毎日続いていると、使用人の数はどんどん減っていき、食事の味が悪くなるのは仕方のないこと。

 だが、桜見おうみは食事に関しては特に厳しく、味付けも盛り方もどれも全て完璧でなければいけない。

 そして今怒られているその使用人は昨日桜木家に来たばかりで名前も草花。

 主な花の名前を宿していない人が花の世界で、一番誇り高い桜木家に来た理由はただ一つ。

 それはお金。

 お金目的で由緒ある名家に働きに来ている人はほとんど庶民ではあるが、使用人になるには必ずテストがある。

 掃除、洗濯、料理、その他。

 簡単に言えば家事がちゃんと一人でできるかで、当主の仕事を邪魔するようなことをしなければ目をつけられることはない。

 しかし、今のように桜見おうみの気を悪くさせてしまったら、お金をもらえないどころか、命を失ってしまう。

『お前のような草花が、われの桜に傷がついたら責任を取ることはできないでしょう!』

『・・・・・・』

『なんとか言ったらどうです!』

『・・・・・・』

『お前、桜木家当主のわれを無視するなど、絶対に許しません。死んで後悔しなさい!』

 そう言って、桜見おうみは背中から小さな刀を取り出し、それをその使用人に向けようとした瞬間、桜見おうみは血と桜の花びらを吐きながら倒れた!

『当主!』

 急いで桜花おうか桜見おうみの体を自分の膝の上に乗せて呼びかける。

『当主! 大丈夫ですか?』

『か、ああ、はあ、は』

 息を吐く度に血と桜の花びらが口から溢れて止まらず、他の使用人が急いで医者を呼んでいる中、その使用人が怪しげに笑いながら桜見おうみの頬をお返しに叩く。

『お前、一体なにを』

『えっはは! はあ、あなたのせいでみんな死んだんですよ。あなたのわがままでわたしたち庶民は生きにくい世界に変わったんですよ。その自覚を死ぬ前に少しでも持ったらどうですか? 桜見!』

 桜木家当主の桜見おうみの名前を呼び捨てにしたことが桜花おうかにとって、自分の人生の中で一番嫌な出来事だった。

『お前、全く自分の立場を分かっていませんね! 当主を、お母様を傷つけたこと、一生をかけて後悔しなさい!』

『桜花・・・』

 生まれて初めて「お母様」と言われた桜見おうみは最後の力を振り絞って立ち上がり、その使用人の花を刺した。

『あ、あああ!』

『ふふはっ』

 その使用人の痛ぶって泣き叫ぶ姿を見て、桜見おうみは満面の笑みで倒れて、桜花おうかはどれが原因なのか。

 吐かれた血と桜の花びらをよく見ると、なんと一センチの十本以上の針が桜見おうみの口から出ていた!

 それを知った桜花おうかがその使用人を無理やり立たせて睨む。

『お前、どうやってお母様の体の中に針を入れたのですか! 今すぐ答えなさい!』

 桜花おうかの力強い怒りの声に、その使用人はなぜか不気味に笑い、答える。

『えははっ、簡単ですよ、切った野菜の中にこっそり入れて、それを知らずに桜見が食べた。まさかこんな簡単なことで倒れるなんてばかですね!』

『ちっ』

(絶対にお母様を死なせない。わたしが結婚をするまでは生きて欲しい。お願い、早く来て!)

 桜見おうみを抱きしめながら早く医者が来ることを願っていた桜花おうか

 そう願い続けた奇跡がやって来て。

『すみません、遅れました!』

 由緒ある名家専用の医者が二人の看護師を連れて走って来て、桜見おうみの状態を確認する。

『大丈夫ですよ。すぐに治りますからね』

 そう言って、医者は丁寧に桜見おうみの状態を少しずつ良くしていき、呼吸が安定した。

『お母様』

『・・・桜花、大丈夫よ。安心しなさない』

『はい、良かった』

 桜見おうみが助かって、桜花おうかは心から安心したのと同時に、まだ生きているその使用人の頬を力強く叩き、他の使用人を

「今すぐ十人ここに来なさい」

 と言って、十人の他の使用人が一瞬で姿勢を良く正して来た。

 そして桜花おうかはその使用人を指さして命令する。

『今からこれを地下に連れて行き、傷をなんでもいいので治してください』

 その言葉を聞いた他の使用人は動揺と戸惑いで瞳を大きく揺らした。

『えっ!』

『桜花様、いいのですか?』

『地下に閉じ込めても、すぐに逃げてしまいますよ』

 他の使用人が不安そうに暗い表情を浮かべるが、桜花おうかはなにも気にしないようにその使用人をじっと見つめる。

『構いません。お前は決められた寿命が来るまでここで生きて、一生懸命休むことなく働き続けなさい。逃げたらお前の花を全てなくします』

 本気で生きてもらうために、桜花おうかが厳しくその使用人を縄で縛りながら他の使用人と一緒に地下に行き、真っ暗な土で埋められた一つの部屋の中に入れて鍵を閉めた。

『ここが今日からお前が働く場所です。お金は出しません』

 その言葉で、その使用人は自分で自分を絶望に落としたことを知り、涙を流しながら一瞬で縄を解いて扉を叩く。

『そんな、出してください! 今すぐ謝ります、ここから出してください!』

 必死に扉を叩いて泣き叫ぶその使用人。

 桜花おうかはそれをなかったこと、見なかったこと、知らなかったことにし、目を逸らした。

 桜木家当主の桜見おうみの命を危険にしたこと。

 

 この出来事は花の世界の歴史にも刻まれたが、一年後、桜見おうみは三十三歳の誕生日を迎えた夜に一人裏庭で咲く小さな桜の木の前で静かに倒れ、命を失った。

 そして、桜花おうかは全く望んでいなかった形で翌日、桜木家当主として、生きることになった。



「桜花、おかえり」

 花室はなしつから帰って来た桜花おうかを、山茶花さざんかが思い切り抱きしめ、桜花おうかは心から嬉しそうに美しく微笑んだ。

「山茶花さん、ただいま。今日は仕事はないのですか?」

「うん、今日は休みだよ。だから三人で外に出よう、ね」

「あっ、それは・・・」

 桜木家当主になってから、桜花おうかは一度も外に出ていない。

 それも十年以上。

 桜花おうかは十九歳で桜世を産んだ。

 最初から「幸せ」だった。

 生まれて初めて恋をした二つ上の山茶花さざんかと結婚して女の子ではなく男の子が生まれた。

 桜木家の当主は女性と決まっている。

 初代もその次も全員女性で一度も男の子が生まれたことがない。

 まさに奇跡の子だと世界中で噂されるほどだった。

 しかし、その奇跡の理由は結婚にあった。

 桜木家当主と結婚するのは必ず由緒ある名家の人と決まっている。

 由緒ある名家の人の血は庶民と全く違って特別で貴重な物。

 だからその血を分け与えるために、今までの桜木家当主たちはその教えを守り、未来に生かし続けてきた。

 だが、桜花おうかはその教えが幼い頃から嫌いで結婚するなら絶対に自分が心から好きになった人としたい。

 そう毎日夢見ていた時、山茶花さざんかが屋敷に入って来たのだ。

 その理由は最悪だったけれど・・・。

「で、どうする? 行く?」

 すごく期待して明るく笑う山茶花さざんかに、桜花おうかは毎回首を横に振って断る。

「申し訳ありません。まだ外が怖いので」

 暗く下に俯く桜花おうかの頭を、山茶花さざんかが丁寧に傷つけることなく撫でてあげた。

「うん、分かってるよ。桜花が本当に『外に出たい』って思えた時に一緒に出よう。それまでは絶対に、無理しないで、ゆっくりでいいからね」

「はい、山茶花さん」

 山茶花さざんかに抱きしめられた温もりを忘れずに桜花おうかは美しく微笑み、広間に行き、仕事に戻る。

「はあっ」

(また断ってしまった。せっかく愛する山茶花さんに誘われたのに、わたしは毎回断って落ち込む。こんなに繰り返されたら、絶対に山茶花さんはわたしをいつか見捨てて別れようと言われるかもしれない。そうなったらわたしは、また一人で一からやり直さなければいけない)

「はあ、どうしてわたしはいつも素直になれないの?」

 ツンデレだから仕方ない。

 可愛いからなんでもいい。

 山茶花さざんかが言いそうなことを、当然桜花おうかは妻として知っている。

 出会った時もそう。



 桜花おうかが十七歳の頃、春季の町では人殺しが何度も繰り返されていた。

 毎日必ず一人が自分と同じ名前の花と一緒に燃やされる。

 当時の桜花おうかは桜木家当主として、毎日それをしているのが誰なのか。

 殺された人の性格や家族構成などを見て探していたが、正体を見つけられず困っている時、一人の少年が桜木家の屋敷に勝手に入って来た。

『へえー、ここが桜木家。初めて見る割には広すぎて、当主がどこにいるのか分からないね』

 恐る恐る母屋の玄関の扉を開けて桜花おうかが少しだけを顔を出した一瞬で少年が気づき、母屋の中に入った!

『お前、ここは桜木家の屋敷です! 勝手に入らないでください!』

 本当は怖いはずなのに、桜花おうかが勇気を出して大声で注意をするも、少年は血のついた着物と体で堂々と明るく笑いながら桜花おうかの手を握る。

『なっ、は』

『君、とても可愛いね』

『は?』

 人殺しの少年に生まれて初めて「可愛い」と言われてなぜか照れた桜花おうか

 けれど、使用人は当主の桜花おうかの安全を一番に考えて桜花おうかを囲もうとしたが、その直前で少年が全員を小さな刀で切って、切って。

 血が流れた・・・。

『はあっ、桜木家の使用人って、こんなに弱いんだね。がっかりだよ、本当に』

『あっ・・・』

 桜木家の使用人は全員力が強く、勝てる人は絶対にいないはずなのに、それを簡単に殺した少年。

 桜花おうかはそんな少年の心からがっかりして顔についた血を雑に手で拭っている姿が、とても心にグサッと突き刺さり、自然と頭を撫でた。

『ん?』

『あの、わたしと結婚してください!』

『え』

 突然の告白に、少年は怪しげに笑って刀をゆっくり桜花おうかの花に当てる。

『ぼくと結婚したいって、それ、本当に言ってるの?』

 生まれて初めての告白を信じてもらえず、桜花おうかは体中が気持ちが悪くなるほどに震えが止まらなくなった。

(こんなに体が震えるということは、怖いわけではない。ただこの少年と結婚をしたくて震えているのよ)

 人殺しでもなんでもいい。

 ずっとそばにいて、守ってくれる人が今目の前にいる。

 だから、絶対にこの機会を逃さない。

 体の震えを深呼吸で何度も繰り返しながらようやく収まった時、桜花おうかが少年の頬に口づけをした。

『わたしが必ず、あなたを幸せにします!』

 生まれて初めての口づけをされた少年は刀を下ろし、桜花おうかの頭を撫でて明るく笑う。

『分かった。じゃあ今日からここに住むよ。ぼくたちが花の世界で一番幸せになるためにね』

『はい、よろしくお願いします』

 満面の笑みで喜ぶ桜花おうか

 明るく笑う山茶花さざんかの裏の秘密。

 二人の出会いは花の世界の歴史の中で一番最悪だったが、それ以上に、桜花おうかは心から好きになった山茶花さざんかと幸せになる方法を探していくのだった。



 三ヶ月後、桜花おうか山茶花さざんかは結婚の儀をするために花室はなしつにやって来た。

『お久しぶりですね、桜花』

『はい、お久しぶりです。花神様』

 優雅にお互いお辞儀をして笑い合う花咲はなさき桜花おうかの姿を見て、山茶花さざんかも元気に笑った。

『花神様、ぼくたちの結婚を今すぐ認めてください。早く帰りたいので』

『は?』

『ちょっと、山茶花さん。その言葉は失礼ですよ、花神様に謝ってください』

『えー、別にいいよ。ぼくは元々嫌われてるんだからさ』

 花の守り人である花咲はなさきの前で姿勢を正さずに幼い子供のように退屈する山茶花さざんか

 それが花咲はなさきにはとても気に食わず、奥の襖から真っ赤なお茶を持ってそれを無理やり山茶花さざんかの口の中へ入れた。

『か、ああ、はあっ。な、なにをし』

『あなたが悪いんですよ。結婚は人生の大きな選択。簡単に認めることは絶対にしませんからね』

 そう言って、花咲はなさきが奥の襖に入った瞬間、桜花おうか山茶花さざんかは屋敷に戻っていた。

『山茶花さん、なぜあのような悪い態度を取ったのです、わたしと結婚をしたくないのですか?』

 花咲はなさきに結婚を認められなかったことが悲しくて大粒の涙を流す桜花おうかを、山茶花さざんかは暗い表情を浮かべて頭を撫でた。

『ごめんね。ぼくはまだ君と結婚する勇気がないんだよ』

『え』

『ぼくは生まれた時から汚れてる。でも君はとても綺麗で可愛い』

『山茶花さん、なにを言って』

『だから、ぼくは君と結婚しない。もう、別れよう』

『あ、そんな・・・』

(わたしは心からあなたを好きになったのにあなたはわたしの気持ちを裏切るの?)

 人を好きになるのは決して簡単ではない。

 もし好きになってしまったら、未来は全て変わり、人との関係も良くも悪くもなってしまう。

 それを覚悟して桜花おうか山茶花さざんかを好きになったのに、他の由緒ある名家の当主の反対を受けても結婚したいと心からそう願ってきたのに。

 山茶花さざんかも同じ気持ちで三ヶ月間桜花おうかのそばにいて笑ってくれた。

 その笑顔も優しさも、全て嘘だとしたら、もう山茶花さざんかをどうすればいいのかが分からない。

 分かっても離れて欲しくない!

 やっと見つけた好きな人が自分から離れてしまうなら、最後にこの言葉だけでも送りたい。

『山茶花さん』

『なに?』

 真剣で厳しい表情を見せる山茶花さざんかの頭を撫でて桜花おうかは美しく微笑んだ。

『わたしは永遠にあなたを愛しています』

 その言葉を伝えた桜花おうかは気を失い、倒れてしまった・・・。


 好きな人に、愛する人に自分の気持ちを素直に伝えることも簡単ではない。

 もし自分が伝えた言葉が相手に間違った捉え方をされてしまったら、相手は自分から離れてもう二度と会うことはないかもしれなくなる。

 しかし、この時倒れた桜花おうかは違った。

 いつか桜見おうみと同じ「運命」になることを誰よりも恐れ、当主になってからは使用人の数を百人から十五人と一気に減らし、その代わりに山茶花さざんか桜花おうかの身の回りの世話を一人でこなしている。

 なに一つ文句を言わずにいつも楽しそうに笑ってして、時には落ち込んでいたが、桜花おうかのためだと思って毎日明るく元気に頑張っていたはずが・・・。

 


 一時間後、目を覚ますと、山茶花さざんかが隣で寝ていた。

『山茶花さん』

『んー、桜花、起きたの? 良かった』

 ゆっくり軽く目を擦りながら起き上がった山茶花さざんか桜花おうかを横に抱えて決心する。

『ぼく、もう弱音は吐かない。絶対に桜花と結婚して一緒に幸せになろう』

 温かく微笑みながらそう伝えた山茶花さざんかの姿が桜花おうかの心を簡単に奪い、もう一度花室はなしつに入って花咲はなさきと話し合う。

『われは本気で山茶花さんを愛しています』

『ぼくも同じです。さっきは態度を悪くしてすみませんでした。でも、ぼくたちは絶対になにがあっても、お互いを信じて花の世界を守ると約束します。お願いし』

『分かりました。もうそれ以上は言わないでください。頭がさらに痛くなってしまいますから』

 一時間前とは全く違う花咲はなさきの優しい声。

 そして、ちゃぶ台の上に一枚の紙を置く。

『この紙にそれぞれ名前を書いてください。必ず丁寧に、一つも乱さずに』

 そう言って、花咲はなさき桜花おうか山茶花さざんかに筆を渡し、それぞれ一文字ずつ言われた通りに書いて花咲はなさきが受け取る。

『はい、これであなたたち二人の結婚を認めます』

『えっ』

『あ』

 ただ名前を書いただけで結婚が認められたことに、桜花おうか山茶花さざんかは少し遅れて満面の笑みで喜ぶ。

『ありがとうございます』

『とても嬉しいです』

『そうですか、それは良かったですね』

 桜花おうか山茶花さざんかの結婚を認めた花咲はなさき

 しかし、あることを恐る恐る瞳を大きく揺らしがなら伝える。

『あなたたちの子供は男の子です・・・』

『ん』

『あっ』

 喜びが一瞬で不安になるはずが、桜花おうか山茶花さざんかはなにも気にせず、花咲はなさきの手をそれぞれ握った。

『それはもうずっと前から覚悟しています』

 美しく笑って見せる桜花おうかを、花咲はなさきは首を横に振った。

『桜花、でも』

『ぼくたちが出会った時から、もう運命は変わってるんですよ。だからなにも怖くないですよ』

 温かく笑い、人殺しをしていたとは思えない山茶花さざんかの優しい言葉。

 花咲はなさきは二人だからこそ、これからの花の世界は新たな「運命」を辿っていくと、この時から信じていた。

『ええ、わたくしはあなたたちを心から信じて、永遠の幸せを願っています』

 二人の間に生まれるのが男の子でも、桜木家の歴史に傷がついても。

 永遠に「幸せ」な家族でいられるなら、全てがなんでもいいのだ。

 二人が屋敷に帰る前に、花咲はなさきが棚から一つの箱を取り出し、まずは桜が描かれている真っ赤な指輪を桜花おうかの左手の薬指にはめる。

『これが、われの』

『ええ、そうですよ』

 続けて山茶花さざんかが描かれている渋い味のある緑色の指輪を山茶花さざんかの左手の薬指にはめた。

『ああ、綺麗だね』

『わたくしが作ったので、当然世界で一番綺麗ですよ』

 そう、結婚指輪は全て守り人が永遠の「幸せ」を約束する二人のために作られた世界でたった一つの特別な物である。

 自分と同じ名前の花が描かれている指輪を花の守り人が左手薬指にはめた瞬間、その指輪は永遠に外すことは絶対にできない。

 一度目の結婚が上手くいかずに離婚して再婚する場合は、一度目にはめた指輪のままと決められている。

 本当に本気で指輪を外したいと思った人は当然何人もいるが、指を切り落とさない限りは外すことは絶対に不可能となる。

 だからどの世界の守り人は結婚をしたいと願う二人を慎重に見極めてよく話し合い、認めて指輪をはめる・・・。

 この世界とは全く違う決まりが守り人が作った世界では普通に存在していたのだ。

『花神様、ありがとうございます。大切にします』

『ええ、そうしてください。わたくしの苦労が詰まっていますから』

『本当に、花の世界に生まれて幸せです』

 山茶花さざんかの何気ない一言が、花咲はなさきの心に愛おしく刺さって満面の笑みを見せた。

『わたくしが作った花の世界を、代表であるあなたたちが必ず守ってください。わたくしは花の世界に入ることはできませんから』

 そう言って、花咲はなさきは二人の背中をそっと押して手を振った。

『あなたたちの幸せが子供たちの未来につながるように、これからも見守っています』

 花咲はなさきが作った世界に感謝してくれた桜花おうか山茶花さざんか

 いつまでも夫婦で、親で、子供の桜世おうよが二人の間で生まれてきてくれたことに花咲はなさきに感謝していくのだった。



 今日の仕事が終わった桜花おうかは裏庭に咲く小さな桜の木を廊下に立ってじっと見つめ、いつもの独り言を呟く。

「お母様、わたしはあなたのような誇り高く美しい存在になれたでしょうか?」

「うん、もうそれ以上になってるよ」

 声が聞こえた横を見ると、いつものように山茶花さざんかが笑顔で桜見おうみの代わりというのか。

 桜花おうかのためなのか。

 それは分からない。

 でも、桜見おうみがここで亡くなった時にもし山茶花さざんかがいてくれたらと、何度も桜花おうかは考えていた。

 山茶花さざんかは一番頼りになる由緒ある名家専用の看護師。

 桜見おうみの状態を見に来た医者よりも知識が豊富で、もっといい治し方があったかもしれない・・・。

 だけど、それはもう過去で時間を止めて戻ることはできない。

 時間という物は便利な時もあれば、不便な時もある。

 それを破ることができたら、今より楽になっていたかもしれない。

 そう、なんでも「いたかもしれない」という妄想をしてしまうのだ。

 いつもと同じ言葉を返されたことで、少しだけ心が楽になった桜花おうかが、自分から山茶花さざんかの手を握り微笑む。

「もう、山茶花さんは本当にわたしの心を簡単に奪いますね」

「そう? ぼくだって君を初めて見た瞬間で好きになったんだから、お互い様だよ」

「うふふっ、そうですね」

 夫婦だけの特別な時間がなによりも愛おしく、桜世おうよと同じように宝物が詰まっていた。

「そろそろ夕食の時間だから、一緒に大広間に行こう」

「はい! 桜世が待っていますからね」

「うん、えっへへ」

 たくさんの反対を受けても、桜花おうか山茶花さざんかと結婚をし、由緒ある名家当主全員を半年かけて座談会で説明したり手紙を出したりして納得させた。

 桜木家当主だからではない。

 人として、自分の愛する人との「幸せ」をみんなに見て欲しいから。

 今こうして、家族三人「幸せ」だと感じられるはずだと信じて・・・。



「お父様」

 翌日、なずなは裏庭の縁側で横になってくつろいでいる山茶花さざんかの隣に座る。

 その姿を見た山茶花さざんかはとても嬉しそうに桜世おうよの頭を撫でた。

「どうしたの? あ、もしかして桜世、ぼくに甘えたいと思って」

「それは違うと思います」

 はっきりそう変わらず無表情で否定したなずなに、山茶花さざんかは期待した気持ちをそっと心にしまって苦笑いを浮かべた。

「あははっ、そ、そうなんだね」

(桜世は記憶を失って、全く笑わなくなったどころか、一度も表情を変えない。いや、変えることができないんだよ、きっと。だったらぼくは父親として)

 なずなが笑えるように、山茶花さざんかが明るく笑いながら桜世おうよの頭をもう一度撫でて、変顔を見せる。

 とてもばからしく、つまらなくも笑ってしまうような全力すぎる変顔。

「桜世、どう? おもしろいよね?」

「・・・・・・」

 自信満々に慣れない変顔を見せる山茶花さざんかなずなには全く「おもしろい」と感じず、ただいつまでもそうし続ける山茶花さざんかの体を気遣って肩を撫でた。

「・・・お父様、そろそろやめないと体を痛めてしまいますよ」

「えっ! あー、そうだね。うん、やめる」

 逆効果で心配させてしまったように思った山茶花さざんかなずなの言う通りにすぐに手を離した。

(笑ってもらえなかった。父親のぼくがこんなに頑張っても、桜世は表情を一瞬でも変えない。一体どうすれば桜世は表情を変えてくれるの? 誰か方法を教えてよー)

 山茶花さざんかが一人悩んで頭を抱えている姿を見たなずなが、小さな桜の木を見つめながら、ある質問をしてみる。

「お父様は今までどんな人生を歩んできたんですか?」

「えっ」

 突然自分の人生を聞かれた山茶花さざんかは嬉しい一方で暗い表情を浮かべてなずなの隣にゆっくり座って同じ桜の木を見つめながら、覚悟を決めて語っていく。

「うーん、そうだね。ぼくは冬季の村で一番小さくてボロボロの貧乏な家で生まれた。家族は両親だけだったけど、ぼくが五歳の頃、二人共病気で死んだ」

「え・・・」

 その「死んだ」という言葉を聞いて、なずな山茶花さざんかが今どんな気持ちなのか。

 瞳を大きく揺らしながら見ると、とても寂しそうに、悲しそうに。

 泣いているのか笑っているのか分からない曖昧な表情でなずなと目を合わせて続ける。

「五歳で家族を失ったぼくは生きるために自分にできる仕事を一生懸命頑張って、頑張って・・・いたんだけど、ある日ぼくは気づいたんだ。『これっていつまで続けないといけないの?』って」

 その言葉を言った瞬間、山茶花さざんかは曖昧な表情から怪しげな笑みに変わり、手を伸ばす。

「ぼくは誰にも好かれずに、愛されずに決められた寿命までただ働いて生きるのが嫌になって、なにか変えたくて。十五歳になった頃にずっと嫌いだった職場の先輩を試しに刀で花を刺したら、思ってた以上に気持ち良くて解放された気がしたんだ」

 手を伸ばした山茶花さざんかの視線の先には雲一つない綺麗に晴れ渡る大空があり、なずなにはそれがどこか自分に似ている気がして心が震え、山茶花さざんかもそんな可愛いなずなのために嘘を吐かずに真剣に全てを語っていく。

「その先輩を殺した後、ぼくは花の世界で一番好きな春季の町に一日かけて歩いて行ったんだ」

「え」

 南の冬季の村から北の春季の町に行く方法はたった一つだけ。

 花の世界は花咲はなさきが作った通り、東西南北に分かれている。

 だが、中心地には暗花くらはなという暗黒の組織があり、一度そこに足を踏み入れたら必ず命を奪われる桜木家の二番目に恐れられている場所だった。

 だからみんなそこを避けて他の町や村に行く。

 北の春季の町へ、東の夏季の村からは徒歩三十分で行くことができ、西の秋季からは汽車で約二日で行くことができる。

 しかし、南の冬季の村からはまず西の秋季の町に行くために、徒歩一時間半かけて移動し、着いたらすぐに汽車に約二日かけて行くしか方法はない。

 北の春季の町に行くなら、早くても二日かかるのに、当時の山茶花さざんかはたった一日、それも徒歩で行けたのは本当に歴史に刻むほどすごいことであった。

「春季の町に着いた後は、なにもすることがなかったから、なんとなく目に入った人たちを花と一緒に最初は切ってたけど、それが何度も続くと面倒だからすぐに燃やした。でもすぐに飽きて最後でいいから桜木家の屋敷に入ったらそこには桜花がいて、ぼくは一瞬で心奪われて体中が震えた」

 山茶花さざんかが桜木家に入ったのは、自分の罪を当主の桜花おうかから罰を与えられるために死ぬ覚悟でいたから。

 けれど、山茶花さざんか桜花おうかと出会って、全てが変わった。

 人の価値を、人の生き方を、花の存在を。

 全てが見たこともない色に染まって、綺麗で美しく、誇りある人に近づくために、桜花おうかを好きになり、結婚をしたい、と思ったが。

「桜花と結婚をする時、ぼくはとても迷ったんだ。本当に桜花と結婚をしていいのか、本当に人殺しのぼくが桜花と幸せになっていいのか。その迷いのせいでぼくは桜花に『別れよう』と言ったけど、桜花は諦めずにぼくと本気で結婚をして、花神様もぼくたちの気持ちをよく考えて認めてくれた」

「・・・花神様? 誰?」

 なずなが首を傾げて独り言を呟くが、山茶花さざんかは全くそれに気づかず、桜花おうかへの気持ちをどんどん満面の笑みで花に手を当てる。

「ああ、ぼくは桜花と結婚して、桜世が生まれてくれて本当に幸せだよ。ああ、ぼくが人殺しをしてきたのも、きっと桜花に出会う運命だったのかもしれないね」

「・・・そう、です、ね」

 堂々と子供の前で自分が人殺しであったことを嬉しそうに語り終わった山茶花さざんかはとても機嫌良く桜世おうよの頭を何度も撫でた。

 首が取れそうなくらいに。

「えへへっ、桜世、ぼくは君に会えてとても幸せだよ。ありがとう」

「・・・はい」

 その桜世おうよへ見せる笑顔に、なずなは一つ聞く。

「今はもう人殺しはしていないんですか?」

 初めて聞かれた言葉だったが、山茶花さざんかは首を横に振って前を向いた。

「もちろん今はしてないし、するつもりはない。あ、でも、桜世がそれを見たいって言うなら今すぐここに誰か連れてきてやり方を教え」

「いえ、結構です。わたしは今のお父様のままが一番なので」

 無表情でも、少しだけ笑ったように見えた山茶花さざんかは少し照れたように一瞬目を逸らす。

「あ、そう、なんだね」

(今のぼくが一番か。それは嬉しいけど、いつかは今よりも変わらないと人は生きていけないから、その言葉は永遠に忘れないように心にしまってるよ)

 どの世界でも、必ず人は変わる。

 変わらなければいけないのだ。

 人生の道を正しく歩むために、進むためには生き者はみんな自然と変わっていくのだから。

 自分と同じように前を向いて風が吹き、桜世おうよの髪がサラサとゆられている姿を見て、山茶花さざんかはあることを質問する。

「どうして桜世はぼくと桜花のことを『お父様とお母様』って呼んだの?」

「それが普通だと思ったからです」

 無表情でもはっきりと嘘がない言葉が、山茶花さざんかにはとても嬉しくて抱きしめた。

「うんうん。そうだね、普通だよ。でも、それは庶民の話で由緒ある名家は違う」

「え? なにがですか?」

「由緒ある名家は家族であっても、当主のことは当主と呼んで他は名前で必ず『様』をつけて呼ぶ」

「じゃあ、わたしは間違っていたんですね」

 抱きしめた腕の中がその一言で桜世おうよの体温が一気に冷えたように感じた山茶花さざんかはすぐに首を横に振って否定する。

「ううん、別に家族なんだから呼び方なんてなんでもいいんだよ。気にしないで」

「・・・はい」

 両親から愛情をもらえなかったなずな

 五歳で家族を失った山茶花さざんか

 二人の気持ちが違っていても借り物でも。

 なずなを「家族」と言った山茶花さざんかの温かい微笑みを見れば、きっとなずなは少しずつ「家族」という永遠に結ばれた絆を忘れずにいられるだろう。

 今は分からなくても、心から感じられれば本物の「家族」に変わると信じて・・・。



「じゃあ、ぼくは今から夕食を作るから。桜世はその間に体を洗って桜花を呼んで来てくれる?」

「はい、分かりました」

「うん。また後でね」

 静かに返事をして今も小さな桜の木を見つめ続けるなずな

 山茶花さざんかは一瞬寂しそうに頭を撫でようとしたが、まだ記憶がないなずなを父親として見守りたいと思い、すぐに台所に行って今日の献立を作り始める。

「ふうー」

 今日は天ぷら。

 春の季節に合った野菜や鶏肉を切って揚げていく。

(天ぷらは桜花も桜世も好きだから、きっと喜ぶ。ああ、夫と父親って、とても嬉しい存在だよー)

 本当に、人殺しをしていた人が由緒ある名家の一番最高位である桜木家の当主、桜花おうかと結婚をし夫になり、桜世おうよが生まれて父親にもなった。

 こんなに誰よりも「幸せ」で毎日を楽しく生きている山茶花さざんか

 左手薬指にはめられている指輪がひらひらと季節は違うが、舞い踊るように美しく心の中で咲き誇っている、はず。

「よし、できた」

 お釜で炊いたご飯に、野菜たっぷりの味噌汁。

 そして揚げたてのきっとおいしい天ぷら。

「えっへへ。さっ、大広間に運ぼう」

 大浴場で体を洗って一人で着替えができたなずな山茶花さざんかの隣に立つ。

「わたしも手伝います」

「え、桜世? いつからいたの?」

「お父様が楽しそうに考えごとをしていた時からだと思います」

「そんな前から! あっ、ごめんね、全く気づかなくて」

「いえ、大丈夫です。お母様を呼びましたので、早く運びましょう」

 そう言って、なずなが皿に綺麗に盛り付けられた今日の献立を静かに台に乗せて大広間に運び、山茶花さざんかも慌てて一緒に運んでいく。

「桜世、ありがとう。助かるよー」

「いえ、わたしは大したことは全くして」

「桜世!」

「あっ」

「はっ」

 大広間で花咲はなさきのように一ミリも乱れることなく姿勢良く正座をしている桜花おうかなずなを力強く睨み、山茶花さざんかが首を横に振って否定する。

「違うんだよ、桜花! 桜世はただぼくのためにお手伝いをしていただけで、無理やりやらせたわけじゃ」

「それがダメなのですよ!」

「え・・・」

 ただの夫婦喧嘩を見せられているように感じたなずなが一歩ずつ後ろに下がるが、桜花おうかは喧嘩に集中しすぎてなずなのことなど全く見ていない。

「山茶花さん、桜世は桜木家次期当主なのですよ! 父親の山茶花さんのお手伝いなど、弟子にさせればいいのに、なぜ桜世にさせたのですか!」

「・・・う、ごめんね」

(桜世はぼくたち二人のために生まれて初めてお手伝いをしてくれた。それがぼくには親子らしいと思ってたのにダメだったかな?)

 山茶花さざんかが深くお昼と同じ暗い表情を浮かべている姿に気づいたなずながすっと手を上げた。

「お母様」

「なんですか?」

「わたしはお母様とお父様に親子らしいことをさせたいんです」

「は?」

「え、桜世?」

 不思議に首を傾げる桜花おうか山茶花さざんか

 今まで一度もそんなことを桜世おうよから聞かなかったのを、なずなは無表情で、静かに話したのが山茶花さざんかは嬉しくて満面の笑みで頷いた。

「うん、そうだよ、そうなんだよ!」

「山茶花さん?」

「桜花は当主、桜世は次期当主。でも、仕事がない時は普通のどこにでもいる家族で、固くなる必要はない」

「だから?」

 じっと自分を見つめる桜花おうかなずなを、山茶花さざんかが思い切り抱きしめて答える。

「だから、今日から親子らしいことをたくさんしようよ! そうしたらきっと、今よりももっと幸せになるから!」

「・・・・・・」

 山茶花さざんかが言った「今よりも」という言葉はなずなには少し違うような気がした。

 なぜなら。

「今の幸せではお父様は満足していないんですね」

「え?」

「桜世」

 そっと山茶花さざんかに抱きしめられた腕を離して立ち上がったなずなの表情は一瞬だけ暗く床に俯いて全ての言葉を否定したいと、自分自身を責めて見える。

「わたしは『幸せ』が分かりませんし、感情もありません。これから先の未来で『幸せ』になるよりも、今を大切にしていくことが、一番の『幸せ』だとわたしはそう思います」

 この世界で生きていた時、なずなは毎日思っていた。

「これから先の未来で幸せになれる保証はおれにはない。だから今を一番大切にして『幸せ』になりたい」

 両親がなずなを「幸せ」にしたことは一度もない。

 ただ自分たちの良いようになずなの体を利用していただけの人間のクズだった。

 それを知らない桜花おうか山茶花さざんかは当然、なずなという見たことも聞いたこともない人間の思っていることなど、分かるはずもない。

 人に「幸せ」にさせられるよりも、自分の力で「幸せ」になる方が、なずなにとって、一番大切なことだとずっと十二年間そう思い続けたのだから・・・。

「お父様、もう食べてもいいですか? お腹が空いたと思いますので」

 夕食が冷めてしまう前になずなは自分の席に座り、山茶花さざんか桜花おうかもすぐに隣に座って頷く。

「いいよ。たくさん食べてね」

「はい、いただきます」

 無言で無表情で山茶花さざんかが作った天ぷらを食べ進めていくなずなの姿に、山茶花さざんかは満面の笑みで嬉しくなる。

「桜世、嬉しいよ」

「なにがですか?」

「ぼくの作ったご飯をちゃんと全部食べてくれることが」

「・・・そう、ですか。それは良かったですね」

「え」

「あっ」

 まるで他人ごとのような冷たい言い方に聞こえた桜花おうか山茶花さざんかだったが、今までの記憶がない今のなずなの気持ちを考えてお互い目を合わせて首を横に振った。

 そして、桜花おうか桜世おうよの記憶が早く戻るように頭を撫でて、手を握る。

「お母様」

「桜世、お前は自分の記憶を全て思い出したいと思っているのですか?」

 そのまっすぐで絶対に嘘なんて許さないという桜花おうかの真剣な瞳が、なずなは目を逸らすことができずに素直に首を横に振った。

「・・・いいえ、わたしは今までの記憶を思い出したいとは思っていません。だってわたしは、か」

「それ以上は言ったらダメだよ」

「え」

 なずなだけに聞こえた謎の声、いや、一ヶ月前に夢に出てきた血のように真っ赤な瞳を持つ桜世おうよそっくりの少年がゆっくりなずなの目の前に立つ。

「あ、あなたは」

「桜世?」

「どうしたのです?」

 独り言を不思議に呟いたなずなを心配して瞳を揺らす桜花おうか山茶花さざんか

 しかし、それが気に食わない少年が右手の人差し指を二人に指して動きを止め、桜世おうよの肩をそっと叩く。

「あなたは一体」

「はあっ、本当にこの二人は過保護だなー」

「え?」

(お母様とお父様を知っている。この少年はなにが目的でおれに近づいているの?)

 理由が全く分からない怪しい状況。

 なずなが自然と後ろに一歩下がり、逃げようとした瞬間を狙って、少年がなずなを力強く抱きしめる。

 永遠に離さないように桜世おうよの右手薬指に見たことのない真っ黒な桜が描かれた灰色の指輪を花咲はなさきの許可なしにはめた!

「な、なにをして」

「さあ、これでぼくたちは未来の扉を開けて闇の『幸せ』を手に入れる!」

「え・・・闇ってなに?」

 突然自分が望んでいた「幸せ」とは全く違う闇の「幸せ」を手に入れることになってしまったなずな

 これが動揺なのか、ショックなのか、絶望なのか。

 分からない、分からない。

(なんでもいいから、一つだけでも感情を取り戻してよ!)

「あ、はあ、あっ」

 自分自身に強く問いかけても「感情」はそう簡単に取り戻すことはできない。

 いや、させてくれない。

 こんな自分を「嫌い」に「憎む」ことすらも叶わない。

 無理やりはめられた指輪を見たなずなは頭の中がグルグルと気持ちが悪くなるほどに回りすぎて次第に意識がなくなりその場で倒れた。

「・・・・・・」

「はあっ、少しやりすぎたなー。でも、君が借りている体はとても弱くて使えない。以前の君と同じようにね。じゃあ、また」

 そう言って、少年は怪しく美しく笑いながら動きを止めた桜花おうか山茶花さざんかを解放し、桜吹雪の中へ消えて行った・・・。



 夢とはなんだろう。

 眠る時に見る夢。

 現実で叶える夢。

 その他にもこの世界には色々な夢がある。

 だけど、全ての夢が叶うわけではない。

 すぐに夢を叶えても、それが長続きするかは別だ。

 みんなが持っている夢はどれも素敵で魅力がある。

 叶えたい気持ちが強くあれば、もしかしたら叶うかもしれない。

 夢が叶った瞬間はとても嬉しくて楽しくて。

 全てが色づいて、その次の夢が叶う希望にもつながる。

 夢を持つことはとても素晴らしいこと。

 希望を持つことはみんなの願いを叶えられる存在になること。

 自分のために、人のために。

 なずなのような・・・の人を助けるそんな愛おしい人がもうすぐ現れる。

 だから絶対に諦めないで。

 ワタシがあなたを・・・に導いて見せるから。



「桜世!」

「お願い、目を覚まして!」

 大粒の涙を流して心から心配して手を握る桜花おうか山茶花さざんか

 その声に少しずつ反応して、なずなはゆっくり目を開けて起き上がる。

「・・・お母様、お父様」

 声をはっきり出して意識が戻ったなずな

 それに対して桜花おうか山茶花さざんかはまた涙を流して精一杯抱きしめた。

「あっ」

「桜世、桜世! 心配したよ、君が急に倒れてぼく、一瞬桜世が死んでしまうか怖くて、うっ」

「え」

「われも、母親なのに、お前を守れなくて、はっ、く、ご、ごめんなさい」

「・・・・・・」

(おれを、心配してくれた? どうして、おれはただの借り物なのに)

 両親とは全く違う自分の存在を失う恐怖。

 なずなにはそれが分からなくて、逆に倒れて申し訳ない気持ちでいっぱいでとっさに距離を取ってしまう。

「えっ」

「桜世?」

「あ・・・えっと」

(心配をしているのはおれじゃなくて、桜世さんの体。だから、なにも期待なんて、ううん、別にそんな感情はないから、立ち上がろう)

 この世界でもなずなは誰にも「期待」したことは一度もない。

 むしろ「期待」したところで実験体から解放されることはなかったため、今もこの先も「期待」せず、自分だけを見て生きようと思った瞬間、体が自然と動いて自分から二人を抱きしめた。

(え、どうして・・・)

 今の自分の行動の意味が分からないなずなと違って、山茶花さざんかは自分の気持ちをどんどん溢れさせていく。

「桜世、本当にごめんね。ぼくは君のために看護師になったのに。君が倒れた時、なにもすることができずにただ目を覚ましてくれることを期待して・・・ぼくは父親失格だ」

「それは違いますよ」

「あっ」

 山茶花さざんかの「父親失格」という言葉をはっきりと静かに否定したなずな

 理由は一つ。

「お父様とお母様は自慢の人です。『失格』なんて言葉、わたしは絶対に聞きたくありませんし、言って欲しくもありません。それは今のわたしだけでなく、今までのわたしも同じ気持ちだと思います」

 桜世おうよがどんな人であったかは分からないけれど、なずな桜花おうか山茶花さざんかのことを桜世おうよもきっと自慢だと思っていることを心からそう願っている。

 両親とは全く違う二人だからなずなにとって、できる限り桜世おうよのことを知って、二人の自慢の子供になりたい。

 桜木家次期当主でも、大切に育ててくれる桜花おうか山茶花さざんかに感謝の気持ちを込めて二人の手を握った。

「お父様、お母様。今までのわたしに戻ることはできませんが、今のわたしが必ず、全ての人の心に寄り添える優しい人になって見せます。まだまだ未熟なわたしをどうか、温かく見守ってください。できる限り頑張りますから」

 無表情でもよく心に伝わってくるなずなの優しくも本気のある言葉。

 これは当然親として子供の成長する姿、行動を心から楽しみに、桜花おうかは美しく微笑んで山茶花さざんかは嬉し涙を流しながらギュっと抱きしめて大広間に三人で行き、食事を始める。

「ごめんね。冷めてしまったけど、味は悪くないから安心して」

「はい、山茶花さんがそういうのなら信じて食べます」

「うん。さっ、桜世も、あっ、食欲がないなら無理して食べなくてもい」

「いえ、食べます。お父様の作る料理は世界で一番おいしいと思いますので」

「え」

(ぼくが作るご飯が世界一おいしいって、そんな嬉しい言葉、今までの桜世から一度も聞いたことがない。でも、今の桜世は自然と言ってくれるから、素直に喜ぼう)

 桜世おうよの記憶が全くないなずなの嬉しいたくさんの言葉。

 表情に出なくても、声の音でその意味がよく伝わって桜花おうか山茶花さざんかを笑顔にする。

 感情がなくても、言葉で表すことができるだけでも、優しい人にきっとすぐになれるだろう。

 今もこうして山茶花さざんかが満面の笑みで桜世おうよの頭を撫でているのを見ていれば・・・。

「えへへっ、ありがとう。明日も世界一おいしいご飯が作れるようにぼく、頑張るよ!」

 家族を失った桜花おうか山茶花さざんかの運命の出会いがこんなにも温かく愛おしい家族の姿になって、花の世界にも安心が増えていく、はず。

 だから信じる力を持ちたい・・・。



「うーん、ああ」

「今日はせっかくの休みなのに、なぜか大変な一日になってしまいましたね」

「そうだね。でも、桜世の今の気持ちを知れてぼくは嬉しかったよ」

 寝室で二人きりの空間で山茶花さざんか桜花おうかの膝を枕にし、下ろした綺麗な髪を撫でながら満面の笑みを見せ、桜花おうかも笑って頭を撫でた。

「うふふっ、わたしはあなたと出会えて結婚して桜世が生まれて、本当に幸せです」

 二人きりの時にだけ見せる可愛らしく純粋な桜花おうかの笑顔。

 それを見る度に山茶花さざんかは夫として、抱きしめたくなる。

「ああ、ぼくも君と出会えて、本当に幸せだよ。ありがとう」

 抱きしめられた温もりがとても心地良くていつまでも触れて欲しいのに、桜花おうかは毎夜同じ暗い表情を浮かべた。

 その理由を、山茶花さざんかは毎夜分かって頭を撫でる。

「桜世に女装をさせてることを気にしてるのはぼくもずっと同じだよ」

「・・・やはりこれだけは守らなければいけないことです。今までの桜木家の当主は女性で、わたしも女性。しかし、桜世は男性。桜世が男性の姿で桜木家の当主になってしまったら、絶対に庶民は、花の世界は混乱と動揺で暴れて花を燃やし、永遠の争いが始まる。庶民は由緒ある名家だけを頼りに生きています。それぞれの季節の町や村にある由緒ある名家の当主は全員わたしと同じように知識が豊富で信頼も強い。特に女性の当主は男性と違って美しさや誇りの高さが確実に高い」

「うん、そうだね。生まれた時から決まってることだから仕方ないよ」

 花の世界の住人はほとんど女性で男性はあまり多いとは言えない。

 花の世界を作った花の守り人、花咲はなさきがどんな気持ちで作ったのか。

 それは花の世界を実際に回って自分の目で確かめなければ分からない。

 そう、一番最初に分かるのは・・・の守り人になるなずなだけだ。

「だからわたしは、桜木家の歴史を、花の世界の歴史を汚すことを一番に恐れて桜世に女装をさせて次期当主にさせた。う、はあっ、絶対に桜世はわたしを恨んでいる、怖がっている。うう、わたし、母親なのに、子供の桜世の人生を決めつけ」

「それは違うよ」

「えっ」

 首を横に振ってはっきり否定した山茶花さざんか

 桜花おうかはなにが違うのか、真剣な眼差しでその続きを聞く。

「理由は?」

「桜世は君を恨んだり怖がったりはしてないよ。むしろ、喜んでいる」

「なにをです?」

「ほら、さっき桜世がぼくたちのことを自慢の人って言った。これを言ったということは女装なんて全く気にしてない、ぼくたちにもっと喜んでもらえるように新しい姿で頑張ってる」

「そう、ですけど。でも・・・」

 なずなの未来に強い不安を抱えて頭を抱える桜花おうかの手を山茶花さざんかが握って、顔を上げてそっと口づけをした。

「山茶花さん」

「えっへへ。やっぱり桜花はとても可愛い」

「もう、恥ずかしいです・・・」

 毎夜こんなふうに桜世おうよなずなのことばかり考えすぎて不安になる桜花おうか

 それを精一杯夫としてそばにいて抱きしめてくれる山茶花さざんか

 夫婦の時間は少ないけれど、桜花おうか山茶花さざんかが「幸せ」をお互い満面の笑みで笑い合えるなら、なずなのこの先の未来はきっと安定した生活を送れるだろう。



 五月三日。ようやくこの日がやってきた。

「お父様、お母様。おはようございます」

 ぐっすり眠っていたなずなを抱き上げて起こした山茶花さざんかから呼び出され、なずなは髪も着物も綺麗にする暇もなく、大広間に来てしまった。

「は、ああ」

 大きなあくびをしてまだ目が半分しか開いていないなずな

 桜花おうかはそんなだらしない姿を見て、自分の席から立ち上がり、珍しく桜花おうかが着物の裾から櫛を取り出し、後ろに座って桜世おうよの髪を綺麗に解いていく。

「お母様、すみません。こんな雑用をさせてしまって・・・」

 申し訳ない気持ちで後ろをふり向こうとしたが、桜花おうかに首を力強く前に向かせられてしまう。

「・・・・・・」

(桜木家当主のお母様に雑用をさせたこと。絶対に花咲様から怒られてしまう気がする)

 母親でも、桜木家当主の桜花おうかに雑用をさせてしまったことを深く後悔して暗く床を俯くように見えたなずな

 桜花おうかは一瞬だけ瞳が大きく揺らいだが、昨日のなずなが言った言葉を美しく微笑みながら思い出し、温かく感じる。

「われもお前と親子らしいこと、髪を綺麗にしてあげることをずっと夢見ていたのです」

「え」

(怒っていない? どうして?)

 桜木家当主に使用人にさせればいい雑用を桜花おうかは喜んで「夢見ていた」と一瞬で綺麗にし、後ろをふり向いた瞬間には抱きしめられた。

「お母様」

「うふふっ、お前の髪はわれと似ていて、とても美しく、かけがえのない存在ですよ」

 そう言って、桜花おうか桜世おうよの頬を撫でて可愛らしく微笑み、なずなはその姿に心奪われて目が離せなくなる。

「あっ・・・美しい」

 つい声に出したなずながすぐに目を離すと、桜花おうかは少し寂しそうに頬を膨らます。

「・・・子供のお前に美しいと言われて、嬉しくないはずがないでしょう。もう」

 なずな桜花おうかの微妙な姿に疑問を持った山茶花さざんか桜世おうよの髪を見てなにかを思い出し、裾から桃色のリボンを取り出した。

 それをそっと優しく桜世おうよの髪を三つ編みにしてから結んであげる。

「はい。桜世、今日も綺麗だね」

「あ、ありがとうございます・・・」

 この世界の時とは違う温かい褒め言葉。

 なずなは一ヶ月経った今でもあまり慣れずに、大広間から見える裏庭の桜の木を見て、あることを決める。

「お父様、お母様」

「なに?」

「なんですか?」

「今日外に出て、久しぶりに桜の木を見たいです」

 瞳を少しだけ輝かせて外に出たいと心からそう思うなずな

 その気持ちはとても分かる。

 だって、なずなはこの一ヶ月ずっと屋敷でのんびりと本を読んだり、絵を描いたりしているだけのなにもない日が続いていたため、久しぶりに外に出たいという気持ちがあるのも当然になる。

「今のわたしは春季の町のことを、花の世界を全く知りません」

「それなら本で勉強したらいいよ」

「そうですよ。外に出ても、なにもいいことなんてありま」

「わたしは自分の目で花の世界を理解したいんです。他の由緒ある名家のこともちゃんと知りたいんです」

 花咲はなさきが作った花の世界の意味。

 作った時の気持ちを理解するために、なずなは心からのまっすぐな瞳で桜花おうか山茶花さざんかを見つめて、山茶花さざんかが頭を撫でて微笑む。

「分かったよ。桜世が好きなようにすればいい。君の人生はまだまだ長くて自由にしないとね。ね、桜花も同じだよね?」

 微笑みながら見てくる山茶花さざんかに、桜花おうかも少しだけ笑って桜世おうよの手を握る。

「そうですね。お前の人生はお前が決めなさい。自由にしても、正しくしても、全てお前が決めること。これは必ず守りなさい」

「・・・わたしの人生」

(桜世さんの体を借りているおれが桜世さんじゃなくて薺のおれの人生を決めてもいいのかな・・・ううん、借りているからこそ、自由に楽しめるようにしないと)

 借り物の人生でも、桜世おうよなずなに渡したこの体を大切に守るためにできる限りの力で生きていく。

 それが桜世おうよの願いだと信じて。

「はい、分かりました」

 なずなが大きな声で返事をし、それに安心した山茶花さざんか桜世おうよの手に、春季の町を描いた春らしい桃色の一枚の銅貨を渡す。

「お父様、これは?」

「これは一万円だよ。無駄遣いはしたらダメだからね」

「えっ」

(これが、一万円? こんなに価値の高い物なんて、子供のおれが持ったらダメな気がする)

 この世界でも一万円を持ったことがないなずな山茶花さざんかにすぐに返そうと手を伸ばしたが、桜花おうかに掴まれて止められてしまった。

「自分にごほうびをあげることも大切です。遠慮は許しません」

「え、でも」

「君の好きな物を買えばいいよ。これはもう君の物なんだから」

「あ」

 そう言われて、なずなは大切に銅貨を花に当てて頷き、自分の席へ戻る。

「ありがとうございます。早く食べて外に出たいです」

「うん、いいよ。食べよう」

「そうですね。いただきましょう」

 山茶花さざんかが作ったいつものシャケの塩焼きに卵焼き、具をあえて少なくした味噌汁と炊き立てのご飯を、三人でおいしく食べて完食した。

「ごちそうさまでした」

「おいしかったです」

「うん。良かった」

 食べ終わった食器を台所に運び、銅貨を持って玄関に行って、扉を開けて後ろをふり向く。

「お父様、お母様。行ってきます」

「うん。楽しんで」

「行ってらっしゃい」

 温かく微笑む桜花おうか山茶花さざんかの姿を見て、なずなは屋敷から出て久しぶりの外の空気を吸う。

「ふうー、は」

(まずは桜の木に行こう。でも、一ヶ月前と同じようなことが起きないといいけど)

 予測不可能な出来事が起きないことを強く願いながら町の中心地に足を運ぶと、休日ということもあってか、人がたくさん賑わい、桜の花びらが舞い踊って全てが美しい。

「わああっ」

(町がこんなにたくさんの人が笑い合える素敵な場所だなんて知らなかった)

 山茶花さざんかがくれた銅貨をなにに使うのか。人混みの中を通り抜けている間に誰かが銅貨を盗み、なずなはその犯人の手をすぐに握った。

「あ、離せ」

「ダメだよ」

「はっ」

「ダメ、絶対に離さない」

「なにを言って・・・いいから離せ!」

「ダメな物はダメだよ」

「くっ。なんでよりにもよってこの人なんだよ」

 必死に抵抗する少年の手を絶対に離そうとしないなずなの本気の眼差し。

 体が土だらけで着物に描かれている花が全く分からないこの少年こそが、なずなと共に「運命」を変える花の世界で一番大切にしたい人であった。


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桜が蝶に変わる瞬間を、世界は「綺麗」と言えるだろうか @seitarou

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