桜が蝶に変わる瞬間を、世界は「綺麗」と言えるだろうか

@seitarou

第1花薺を導いた正体

 春夏秋冬。

 どの世界にも欠かせない大切な存在。

 それは花も同じ。

 春夏秋冬がなければ花は咲く意味を失う。

 暗闇の中でも綺麗に咲き続ける花に人々は魅了され、次第に心奪われていく・・・。


 しかし、その「綺麗」な物を一度も見たことがない人間がただ一人存在してしまったのだ。



 八月三十一日。

 夏休み最終日。

 今もまさに十二年という短い人生に感情を完全に失い、心までも失いかけた悲しい少年が九階建てのマンションの屋上からその傷ついた全てを取り戻すために飛び降りて、最初からやり直そうとしている。

「・・・・・・」

(もう何も感じない、感情もない。こんなおれを誰も好きになってはくれない、愛してもくれない・・・。だからもう、最初からやり直すしか方法がない)

「・・・・・・」

 ずっと下を俯きながら生きてきた彼の名前は緑束薺みどりたばなずな十二歳。

 薄緑色のボサボサの短髪に薺色の瞳。

 彼は研究員の両親がずっと試みていた人体実験の実験体になるためだけに生まれてきたとても信じられない存在だった。

 生まれた時から実験を何度も何度も繰り返して、毎日知らない注射を打たれて知らない薬を飲まされて・・・。

 最初は強く抵抗し逃げ回っていたなずなだったが、それがもう十二年と続けば体はもうすっかり慣れて、痛みも傷も感情がなくなればあとは両親の好きなようにさせるだけ。

 だけど、なずなは自分がこのままでいてしまったら誰も好きになってはくれない、愛してくれない。

 その苦しみと恐怖を知ってしまった時から今自分にできることはそう。

「死んで最初からやり直せばいい」

 そんな簡単なことがどうして今まで頭に浮かばなかったのか。

 あの時もその時も。

 今も後悔しては泣いて叫んで自分を恨んだが、もうそれは過去の話で今からはもうそれは関係ないこと。

 死んだら空に飛び立つように生まれ変わるように。

 失敗したら何度でも最初からやり直して、「幸せ」をこの手で掴む。

 そんななずなの幼く甘い考えがこの世界では永遠に叶うこともないと思っているのはきっと大人、いや、他の人間なら誰もが必ずそう思っているはず。

 しかし、誰もなずなのような人間を止めようともしない、見ようともしない。

 こんな世界を作った人がどんな気持ちでいるのか。

 なずなはそれを一切考えることなく、大きく両手を振りかぶってジャンプをして飛び降りようとした瞬間、体が宙に浮かんで一頭の虹色の蝶がなずなの頬に擦り寄ってきた。

「・・・えっ」

(どうして、蝶がおれを)

 全く理解できないこの状況になずなが口を一口開けたまま不思議に首を傾げていると、宙に浮かんでいた体がゆっくりと地面に降りた。

 そうしたら。

 真っ白なローブに身を包んだ紺色の背中まで太く長い髪と眉毛とまつ毛。その二つははっきりと見えて、それ以外は全く表情が見えない謎の人物がなずなに手を差し伸べてきた。

「怖がることはありません。ワタシはこの世界を作った神像。・・・から選ばれたあなたを迎えにきました」

「え?」

(この人が、この世界を作った人なの?)

 そう。

 この世界を作った神像しんぞうという人こそが、どの世界にも共通する絶対的存在でなければいけなかったのだ。

 しかし、それをなずなが理解できるのかどうかはまだ分からない。

 たとえ分かったとして、その選択をどうするかは全てなずなに託されているのだから。

 なずなが固まってじっと自分を見つめられた神像しんぞうは見えない表情で満面の笑みをしてもう一度自己紹介をする。

「ワタシは神像」

 胸を張ってそうアピールをする神像しんぞうに対して、なずなは一口開いた口でようやく言葉を話す。

「・・・神像って、神様のことですよね?」

 予想外で今までにない嬉しい言葉。

 神像しんぞうはもう何千年とぶりに一瞬言葉を失いかけたが、また同じく次は美しく笑って見せた。

「ほう、あなたが初めてです。ワタシのことを体の『心臓』ではなく、神の方の『神像』と正しく受け取ってくれたのは・・・」

 全く見えない表情をなずなから見られてばかりいる神像しんぞうが差し伸べている手をなずなに握ってもらえるように、あることを告白する。

「あなたはこれから・・・の守り人となってもらいます」

「守り人?」

(どうしておれが・・・)

 自分が・・・に選ばれたことが全く信じられずに体中の震えが止まらないなずなを、神像しんぞうが優しく肩を撫でてくれる。

「大丈夫です。これからあなたは第二の人生を歩んで・・・の守り人となり『幸せ』を一番に実感できる力をあなたに与えると約束しましょう」

 その言葉を聞いて、なずなは一瞬胸が苦しくなった。

「えっ、それって」

(死ねないってこと?)

 最初からやり直すためにまずは死ぬつもりでいたなずなにはその

「第二の人生」

 という言葉がまだこれからも生きていくしないのだと少し勘違いをしてしまい、すぐに神像しんぞうから大きく距離を置いて目を逸らす。

「・・・・・・」

「おや? それほど嫌でしたか、『第二の人生』が?」

 ゆっくり首を傾げて質問しながらすっと一瞬でなずなの目の前に立った神像しんぞう

 しかし、なずなにはその「嫌」という感情がないため、なにが嫌なのかが自分でも分からずにいたけれど、体は自然と震えなくなり、勝手に神像しんぞうに手を伸ばし始めていく。

 そして、言葉も自然と動いて。

「おれがもし・・・の守り人になったとして、本当におれは『幸せ』になれるんですか?」

 疑いながらも手は止まらずに感情がなく輝きもないなずなの瞳に一瞬だけ神像しんぞうの表情がはっきりと映された時、神像しんぞうは変わらず満面の笑みでなずなの手を優しく両手で握ってあげた。

「あっ」

「これで契約は成立ですね」

 そう言って、神像しんぞうはローブの中から紙のリストを取り出し、それになずなの名前を書いていく。

 その間に、頬に擦り寄っていた虹色の蝶が一頭から五十頭に増えて、なずなの体を楽しそうに舞い上がりながら囲む。なにかをチェックした後に一つに固まって、それが左耳に真っ白な蝶型の耳飾りに変わり、神像しんぞうもなにかに頷いた。

「ほう、やはりあの方は正しい目を持っていたようですね」

「え?」

 なずなが不思議そうにじっと見つめていることに気づいた神像しんぞうが独り言を取り消すように風を横に吹かせ、隣に真っ白な百合の花が数え切れないほどに優雅に咲いて描かれている襖が大きくドンっと現れた。

 突然のことで普通なら驚くところだが、感情がないなずなには、ただ無表情で、神像しんぞうと目を合わせた。

「・・・これは」

「これはあなたが・・・の守り人になるための訓練です」

「訓練?」

(おれにできる訓練ってなんだろう?)

 感情もない、心も失いかけている自分にできる訓練はなにがあるのか。

 何度も首を傾げているなずな神像しんぞうがそっと後ろに立って、背中を押していく。

「え・・・なにをするんですか?」

 突然背中を押されて足を止めようとするなずなに構わず、神像しんぞうはその質問に答えながら動きを進める。

「これからする訓練の内容はあなたが全ての感情を取り戻し、人の心に寄り添える人になってもらう。ただその二つだけなので、なにも焦らずに、第二の人生の手前と思って四百年を過ごしてください」

 そう言われながら襖の前に立ってしまったなずな神像しんぞうがいる後ろをふり向こうとするも、いつのまにかその存在が消えていて、もう訓練が始まっているのだと、強制的にすぐに察してしまうのだった。

 今の自分にできること。

 いや、これからの自分にできることはまずこの襖を開けて中に入り・・・の守り人になれるように、第二の人生を送れるように。

 なずなはゆっくりと襖を開けて中に入って行った。



「あはははっ、惜しかった、本当に惜しかった」

「もう戻ってきたのですか?」

「うん、もう用は済んだから、あとはあたしが譲ってあげたあの子に任せるよ」

「本当に、あなたの性格の悪さはこの世界で一番狂っています」

「そう? まっ、このあたしがせっかく譲ってあげたんだから、その分のお返しは必ずしてもらうからね。あたしたち三姉妹の誇りのためにも・・・」



 襖を開けて中に入った薺は全くの別人に変わっていた。

「え・・・これは」

 チョコレート色の背中まで長く直線の髪を右肩で太く大きく三つ編みにし、薄桃色の桜の瞳。

 桃色の桜が描かれている薄桃色の着物。

 薺は今までの人生の中では一番可愛らしい姿に変わり果てたが、信じられずに全く言葉が出てこずに目線を前に移すと、そこには予想外の人がいた。

 それは。

「あなたが緑束薺ですね」

 薺の向かい側で姿勢よく一ミリも乱れることなく正座をするその人。

 黒髪の足まで太く長い髪を後ろで大きく真っ白な百合の花が描かれている薄水色の大きなリボンで三つ編みに結び、右が黒で左が白という左右色が違う瞳。

 真っ白な百合の花が描かれている薄水色の着物・・・。

 一目見ただけではとても「綺麗」な大人びた女性に見えるが、薺にはそれがすぐに気づいてしまうのだった。

(あれ、この人、おれと同じ男、だよね?)

 そう。

 顔の輪郭も骨格も声もじっと見てしまえばそれが女性ではなく薺と同じ男性にはっきりと見えて、簡単に言えばその姿は「女装」となっていた。

「・・・・・・」

 薺の返答がないことを嫌に思ったその人は自分の前髪を雑にかき乱して一瞬だけ薺を睨みつけた後、気持ちを整えるために一度自分でいれたお茶を一口飲み、美しく誇りのある笑みを見せた。

「うふっ、すみません。もう一度聞きます。あなたは、緑束薺、ですよね?」

 その質問に薺はただ自分の名前を答えればいいと心では分かっている。

 だが、それを口に出すことがなぜか自分で自分の首をしめられているように息が苦しくて呼吸が荒くなりそうになったものの、なんとか自分の力でゆっくり深呼吸を三回繰り返して、静かに頷いた。

「・・・はい、そうです」

 ようやくその言葉を聞けたその人はそっと自分の胸に手を当てて美しくもあり、怪しげな微笑みを見せて自己紹介を始める。

「わたくしは花咲。花の世界をこの手で作りあげた花の守り人です。よろしくお願いしますね、薺」

 そう言って、花咲(はなさき)というその人は体を茶色の大きな丸いちゃぶ台から前に出した。

「うふっ」

 そして、実験で痛く苦しみが詰まった傷だらけになった薺の頬をそっと撫でてあげて、満面の笑みで笑いかける。

「うふふ」

 笑いの意味が全く分からずに、薺は全く言葉が出てこない。

「・・・・・・」

(なにがおもしろいんだろう)

 ずっと合っていた二人の瞳がなずなから離されて、花咲はなさきは少し落ち込んでため息を吐き、今度は明るく笑った。

「薺、なにも怖がることはありませんよ。わたくしはあなたが守り人になる訓練を与えるために、花の世界に招いたのですから」

「・・・・・・」

(全く意味が分からない)

 花の世界という全く聞いたことも見たことも存在することすらも知らなかったなずなにとって、花咲はなさきが言う一つ一つの言葉に意味が追いつかない。ただただじっと花咲はなさきに撫でられている自分の実験で傷だらけになった頬の感触がいいのか悪いのかが分からない。

 そして、すぐに距離を置いて近づくなという虹色の蝶たちが血のように真っ赤に染まって花咲はなさきを警戒し、なずなの周りを囲んで守る。

「・・・あっ」

(蝶たちが、おれを守ってくれてる・・・)

 自分の身に危険が迫っていることに誰よりも先に守ってくれるこの蝶たち。

 なずなのこれからの人生でも必ず味方に立ち、なずなを正しい道へと進めるように助けてくれる謎深い存在。

 花咲はなさきは自分がなずなに拒まれた驚きと悲しみで一瞬涙が溢れそうになったが、花の守り人として、それは「綺麗」ではないと、すぐに姿勢をまた正して気持ちを切り替える。次は拒まれないように頭を撫でてあげると、蝶たちはゆっくり引き下がって、左耳の蝶型の耳飾りに戻って行った。

「・・・あ」

 蝶たちが戻ってしまったことで、なずなは自然と声が出て暗く俯いた。

(おれは蝶たちがいないとダメなの?)

 今までも、両親が喜ぶのならと痛みも苦しみも我慢して耐えていた。

 けれど、それができたのは感情があったからで、今のなずなには感情がないため、なにが嬉しいのか悲しいのかが全く分からない。

 ただ暗く俯いた人生がまた待っていることをなんとなくそう暗くなっていたのを、花咲はなさきはまた一口お茶を飲んでから、背中に隠してあった誰の血かも分からない真っ白な百合の花束をちゃぶ台の上に乗せた。

 それを見たなずなは一瞬だけ瞳が揺らいだ。

「・・・え、これは、なんですか?」

 突然のことでこの花束が置かれた意味がどういう物なのか。

 それは花咲はなさきが何百年も昔の人生を語れば今すぐにでも分かることだが、花咲はなさきはこの花束を見て唇を強く噛みしめて、なにか悔しがっている素振りを見せる。

「くっ」

「・・・・・・」

 自分で出しておいて悔しがる花咲はなさき

 なずなは黙って自分の分にもいれてくれた花咲はなさきのお茶を一口飲み、隣に置いてある味もないお団子串を一つ食べてみる。

「・・・ん」

 それが自然と

「おいしい」

 という言葉が溢れたのが、悔しがっていた花咲はなさきにもよく聞こえて、百合の花束を背中に戻して満面の笑みになる。

「ふふふ、気に入ってくれたようですね」

「・・・はい」

「薺、あなたは、自分の花が好きですか?」

「えっ・・・どうして」

「わたくしが作った花の世界に住む住人は自分と同じ名前の花を愛しているので、あなたも自分と同じ名前の薺が好きなら話が進むと思いま」

「好きとか、愛しているとか。そんな言葉をおれが言えると思いますか?」

「あっ」

 何気なく怖がらない程度に話したつもりの花咲はなさきの瞳に映るなずなの姿は当然感情を失っているため、無表情で怒っているようには全く見えなくても、その無表情から伝わる悲しみと悔しさがなんとなく花咲はなさきには昔の自分と深く重なり合い、せめてなにかしてあげようと、髪を何度も撫でてあげてその心に寄り添う。

「・・・・・・」

「ゆっくりで構いません。あなたがいつか人を好きになれるように、愛せるように。これから出会う人たち全員の心に寄り添える、そんな優しい人になってみてください。きっとそれがあなたの第二の人生につながる鍵となるはずですから」

「・・・あ」

(そうだった。自分が好きにも愛さないのに人から先にそれをしてもらうなんて間違ってる。自分から前に進まないとなにも変わらない、変われない。だったら)

 やっと気づいた。

 人から「好きになってもらう」や「愛してもらう」という言葉は決して簡単ではない。

 たとえ言えたとして、それが本当に自分へ向けられているのか、触れてくれるのか。

 それすらも掴めない以上、なずなの「幸せ」は永遠に訪れない。

 だが、今こうして少しでも気づけただけでも、大きな成長になったことを、他人の花咲はなさきでもよく伝わり、美しい微笑みを一瞬見せた後、もう一度正座をして早速本題に移る。

「これから、いえ、今日からあなたは花の世界で桜木桜世として、三百八十八年間生きてもらいます」

「・・・はい?」

 突然の知らない名前に決められた寿命。

 桜木桜世さくらぎおうよという名前を聞いた一瞬、なずなは意味が分からずに首を傾げたけれど、それは一瞬で、ふと自分の姿をもう一度見てあることに気づいてしまった。

 それは。

「・・・もしかして、この体は、その桜木桜世っていう人の物ですか?」

 無表情でもなにかを恐れているように感じ取った花咲はなさきは怪しげな笑みを浮かべながら、静かに頷く。

「ええ、そうですよ。嫌でしたか?」

 その笑みを見ても、なずなはなにも動じず、ただこの体の持ち主、桜木桜世さくらぎおうよが今どこにいるかが気になって、自然と心臓に手を当ててみたらその鼓動は全く響かずに、止まっていた。

「・・・え、どういうこと?」

 なずながこの体の正体が一体どうなっているのかが気になったところで、花咲はなさきは両手を軽く叩く。

「うふっ」

 ちゃぶ台を一瞬ひっくり返して、元に戻った時には、いつのまにか透明な水晶玉がすっと風のように現れてその中に映る物は、なんと、なずな本体だった!

「・・・あっ、そんな」

「ふふふっ、心配をする必要はありません。今のあなたは魂と体が分離されて、体は保健室でしっかり安静を取っているところです」

「・・・え」

「なので、その体の持ち主、桜木桜世の魂は別に保管されていて、体は借り物として大切に扱ってください。決して、傷つけないように深く注意しながら」

「・・・・・・」

(どうしよう、桜世さんの体をおれが借りて今日から三百年以上も生きるなんて、そんなこと、おれにできるのかな?)

 先の見えない暗く光なんて全く感じられないこの状況。

 今日から第二の人生とは違う別の知らない人生を送ることで、なずな花咲はなさきから与えられた訓練で失われた感情全てを取り戻し、いつかそれが自分が望む「幸せ」を願えられるようにする。

 それを決めるのはなずなだけではない。

 生き者はみんな、自分一人の力だけで生きられるほど、強くはないのだから。

「・・・分かりました。やります」

 自分の「幸せ」を見つけるために、なずなは精一杯の真剣な眼差しを見せて、花咲はなさきもそれに安心して、次の説明をしていく。

「その体の持ち主、桜木桜世は由緒ある名家の中でも最高位の人です」

「え」

「花の世界は、東西南北に分かれています。東は夏季、西は秋季、南は冬季。そして北は春季です」

 その言葉を聞いて、なずなは不思議に思った。

(東の夏季と南の冬季に住んでいる人たちは永遠に暑くて寒いってことなのかな? でもそれはなんだか)

「可哀想ではありません」

「あっ」

「わたくしが四つの季節を東西南北に分けたのは、その季節に咲く花たちを永遠に咲かせるためです。決して可哀想だと思わないように」

 自分が作った世界を「可哀想」というこの世界で一番嫌いな言葉をなずなが心の中で言う前に、花咲はなさきは力強く圧をかけ、簡単にそれに負けたなずなはただ返事をするだけ。

「・・・はい」

(守り人は人間の心が読めるのかな? もしそうだったら、おれは心も全てを失ってしまう気がする・・・)

 人間の心の声を守り人は当然読むことができる。

 与えられた力は必ずどんな時でも生かし、全てを止める。

 しかし、人の心は絶対に読むことはできないが、今はそれは関係ないため、花咲はなさきは時間通りに話を続ける。

「花の世界には桜木家を含めて、由緒ある名家が十六あります」

「ん?」

(十六って、すごく多い気がする・・・)

 なにか違和感を持って首を傾げるなずなに、花咲はなさきは押し迫る時間を守るために淡々と続けていく。

「東の夏季は水庭家、陽種家、陰森家、花風家」

「・・・はい」

「西の秋季は秋風家、横道家、土苗家、山草家」

「・・・・・・」

「南の冬季は冬葉家、茎根家、雪白家、花枝家」

「・・・・・・」

「そして北の春季は桜木家、菜花野宮家、白花家、葉山家があります」

 全部で十六の由緒ある名家の名前を聞いたなずなはなにも返す言葉が見つからない。

(一つの季節の中に四つの由緒ある名家が存在している。でもそれって、なにかがおかしい気がする・・・)

 なずなの思っていることが、花咲はなさきもちゃんとよく分かって、その長い歴史が今にあることが悔しくて仕方がなかった。

「はあっ、花の世界がわたくしの心全てを変えました。花の世界を作った四百年前も経った今も、歴史はそこで暮らしている住人だけが変えられる。本当にわたくしは・・・ですね」

「えっ、今なんて?」

 なずなだけに聞こえた信じられない言葉。

 持って生まれた才能があれば、誰も苦労しなかったのに。

 持って育った「幸せ」があれば、誰にも負けない気持ちがあったはずなのに。

 そんな小さなこと、大きなことが誰かの人生を壊す力がある。

 そして今花咲はなさきが言った言葉も、なずなの第二の人生に大きく関わる最大の武器であった。

(この人、なぜか分からないけど、すごく孤独で寂しそう)

 感情を失ったなずなでさえも、今の花咲はなさきが見せる笑顔がその裏ではどんな意味があるのか。

 それを知るのも、まだまだ先のこと。

 今日からなずな桜木桜世さくらぎおうよとして生きることが絶対。

 なにがあっても、なずなは桜でなければいけない。

 蝶に守られている限り、なずなが誰かに傷つけられることは不可能になるだろう。

 きっと。

 なずながずっと黙り込んでいる姿を見た花咲はなさきが一口お茶を飲み、話を戻す。

「すみません、わたくしはまた独り言を言ってしまいましたね。でも、あなたは桜木家の次期当主。絶対に人前では『おれ』とは言ってはいけません。敬語を必ず使うように」

「はい?」

(もしかして、桜世さんも女装しているってこと?)

 できるだけその事実を受け止めたくないけれど、もう一度薺なずな桜世おうよの体と服装を見て、それは完全に花咲はなさきと同じ男であり、服装も完全に女性物だった。

「・・・うっ」

「どうしました?」

 今日から三百年以上女装をしながら生きていく。

 もし今「嫌」という感情があったら、すぐに拒絶できたのに。

 もし今なにか他の感情があったら、違う方法があるかもしれないのに。

(感情がないおれは、本当に幸せになれるのかな・・・)

 瞳の中が真っ暗な夜に染まったことが、花咲はなさきには嫌で仕方なく、なずなを思い切り抱きしめて真っ赤に染まった顔をなずなに向ける。

「好き、好き、好きです」

「え?」

 突然の告白で、なずなの瞳から明るい光が差し込み、大きく揺らぐ。

(これはなに?)

 理由が全く分からず、体が固まって鼓動が激しくて、なにがどうなっているのか。

 こういう時にこそ、感情が必要なのに、欲しいのに。

 今のなずなはただ、花咲はなさきに抱きしめられている腕の中で瞬きを繰り返すだけしかできなかった。

(感情がないって、本当に不便だ)

 五分後、花咲はなさきはゆっくりなずなから離れてまた一口お茶を飲んだ。

「ふうー。何度もすみません、わたくしは少し心が乱れやすい性格なので、どうか気にしないように」

「はい・・・」

(心が乱れるって、おれには絶対にない)

 感情が顔に出て、心にも現れる花咲はなさき

 誰よりも・・・だから強く今まで生きてこられたのだろう。

 なずなと同じように死ぬことができないから。

 押し迫る時間があと十分になった。

「まずい、早く全てを説明しないと、授業に間に合わない」

「・・・授業?」

(なんのこと?)

 守り人なのに、世界を作ったのに。

 学生のような焦りを見せる花咲はなさき

 だが、その姿はいずれなずなも同じように必ずなる。

 そして、焦った花咲はなさきは少し目をぐるぐると回しながら最後の説明をする。

「えっと、そうですね。花の世界の住人には心臓がありません」

「え」

「でも、心臓の代わりに自分と同じ名前の花が心臓の役割を果たしていますので、安心してください」

「・・・はい」

 全く説明の内容が頭に入ってこないなずなを、花咲はなさきは深呼吸を何度か繰り返して、肩を撫でた。

「大丈夫です。あなたは花の世界で最初の幸せを必ず掴めます」

「あ」

 その温かい言葉を聞いて、なずなはゆっくりと顔を上げて左右色が違う瞳と目が合った時、真っ白な光がなずなを包み込んでいく。

「あの」

「わたくしのことは花咲様と呼ぶように」

「はい」

 なずなが大きな声で返事をすると、その光が一瞬で消えると共に花咲はなさき

「わたくしを信じて、愛していますよ」

 と、満面の笑みをその心に刻み、なずなは今日から桜木桜世さくらぎおうよとして、これから出会う全ての人の心に寄り添える優しい人になれることを信じて、借り物の人生が始まるのだった。



「ここが、花の世界」

 目を開けたら、そこは花の守り人、花咲はなさきが作った花の世界、北の春季の町にいた。

 周りを見渡しても、花ばかりで暮らしている住人全員が自分と同じ名前の花が描かれている着物を着ている。

(すごい、みんな花を大切にしていて、愛がある)

 この世界では一度も見たことがない綺麗な景色が自然と花の世界でひらひらと舞い踊っているようだ。

「・・・こんなに綺麗な世界で、おれは今日から暮らすんだ」

 誰も頼れない。

 自分だけを頼りに、歩き出す。

 少しずつ慣れない足で歩いて、遠くを見つめた瞬間、ある物がなずなの心を一瞬で奪い、すぐに走ってその目の前に立つ。

「うわあっ、これって、桜の木だよね。すごく綺麗・・・」

 そう。

 なずなの目の前にあるのは、花の世界で一番大きい桜木家の桜の木だった。

「すごい、すごい。こんなに大きい桜の木、生まれて初めて見た」

 なずなが一人瞳を大きく揺らして何度も周りをぐるっと歩くと、後ろから誰かが抱きついてきた。

「えっ、あ」

(誰だろう?)

 身長と体格はなずなより少し大きく、同じ少年であることは間違いない。

 だけど、なにか花咲はなさきとは違う安心感がある気がして・・・。

「あの!」

 抱きついてきた少年が大きな声でなずなに呼びかける。

「・・・え?」

 なずなはそれにゾッと両親のようにまた知らない薬と知らない注射を打たれる感覚が体中を震わせて、すぐに少年を突き放してしまい、しゃがみ込む。

「・・・・・・」

(おれ、どこにいても、同じ運命になるのかな?)

「・・・・・・」

 これが訓練、借り物の人生でも同じことを繰り返されてしまう気がして、なずなが気持ち悪そうに倒れそうなところを、少年が正面から抱きしめてくれた。

「あっ」

「大丈夫ですか?」

「え」

 人体実験の実験体になるためだけに生まれて、体中が注射の痕や傷だらけに汚れたなずな

 しかし、今は桜木桜世さくらぎおうよの体なので、なにも心配することなく、少年は満面の笑みで優しく受け止めて助けた。

 その姿をはっきりと見た時、心が震えた。

 真っ黒な足まで長く毛先がくるりと曲がっている髪を左耳の位置で一つ結びにし、黄色の菜の花の瞳。

 薄黄色の濃い菜の花が描かれている着物を着る少年が美しくなずなに微笑み、その姿に誰もが一瞬で魅了される特別な存在であった。

「・・・美しい」

「ん?」

「あ」

 自然と口に出たなずなの言葉。

 それを聞いた少年は心から嬉しそうにまた微笑んでなずな桜世おうよの髪を撫でる。

「ふふっ。わたしよりも、あなたの方がとても美しく、誇り高い存在ですよ」

「え、お、わたしが?」

 危うく自分のことを「おれ」と言いそうになったが、なんとか女装であることを忘れずになずなが「わたし」とぎこちなく言うと、少年は一瞬不思議に首を傾げた。

 けれど、少年にはそんなことよりも、なずなといるこの時間を誰よりも愛おしく感じてつい髪だけでなく、頬も撫でてしまう。

「ふふふっ。こんなに美しい方がわたしの目の前にいるなんて、幸せでしかありません」

「はっ」

(おれといるだけで幸せだと感じるこの人、絶対になにか裏がある気がする)

 簡単になずなの存在を「幸せ」と語ったこの少年。

 今はまだ信じることができなくても、この先ずっと一緒にいればなずなはいずれ今も美しく微笑み続ける少年を好きになれる、はず。

 美しい菜の花の瞳を持つ少年にこれ以上心を震わせないようになずなが目を逸らすと、少年はしょんぼりした顔で暗く落ち込み、同時に大切なあることを思い出した。

「あっ!」

「え?」

 突然の大声だが、なずなは無表情でなにも変わらない。

 けれど、少年は焦りと不安で瞳を激しく震わす。

「忘れていました! あの、ここで落とした水仙の花が描かれている黄色の指輪を知りませんか?」

「・・・はい?」

(水仙ってなに?)

 生まれて初めて聞いた花の名前。

 水仙スイセンは冬の花で南の冬季の村で咲く菜の花よりも少し薄い黄色である。

 それを全く知らなかった、いや、知ることもなかったなずなが首を傾げるのも分からなくはない。

 それぞれの季節に咲く花の名前を全て覚えている人など、花の世界ではたった一人だけなのだから。

「・・・・・・」

 花について全く知らないなずなが何度も不思議に瞬きを繰り返す姿に、少年は予想通りだと暗い表情を浮かべた。

「そうですよね、知らないですよね」

「え」

「あなたのような誇り高い人が、わたしのようなただ背だけが取り柄の人のことなど、どうでもい」

「違います」

「あっ」

 人体実験をされた時、なずなは毎日暗い表情を浮かべて明日が来ないことを願っていた。

 そして今、それと同じように人と比べて自分を悪く言う少年を、なずなが生まれて初めて人の頭を撫でて、首を横に振った。

「人と比べることは間違っています。あなたはあなたのいいところがたくさんあるはずです。他人のわたしは全くあなたのことを知らないので偉くは言えませんが、あなたを愛してくれる人のことを思い浮かべてください。きっとあなたが生まれてきてくれたこと、心から喜んでくれたことを信じて、今から二人でその落とし物を探しましょう」

「はっ」

 この世界では一度も言ったことがない言葉をすらすらと文字を書くように語ったなずな

 少年はそれが心から嬉しくて、涙が溢れていく。

「ふ、うう。ありがとうございます。そうですね、わたしは愛されていることを完全に忘れていました。う、ふ、はい、二人で探しましょう。絶対に」

 涙を手で拭い、少年は満面の笑みで桜世おうよの手を握る。

「さあ、夜が来る前に見つけましょう、ね」

「・・・はい」

(この人、笑っているのになにか悲しそう)

 生き者はみんな裏表がある。

 表だけで生きている者など、どの世界にはいないはず。

 そして、花の世界も同じかもしれない。

 この世界でしか生きたことがないなずなは少年の満面の笑みから目を逸らして、一人桜の木の下をゆっくり慎重に歩いて回り、少年も同じように逆方向から探していく。

(この桜の花、おれが着ている着物と全く同じ色で、それから色を取って作られている気がする。分からないけど・・・)

 少年が着る菜の花の着物も、とても特別な作りで庶民がそれと同じような物を着ることは花の世界では絶対に許されない。

 町を歩いている庶民のほとんどは草花で、代表的な花を宿すことは永遠に叶わない。

 それが花の世界での掟だから。

 


 二時間後、夕方になった。

 しかし、指輪はどこにもなく、もう誰かが盗んだのではないかと少年が疑い始める。

「おかしいですよ。こんなに探しても見つからないなんて、きっと、いえ、絶対に誰かが盗みました」

 体中を震わせながら冷や汗をかく少年に、なずながそっと頭を撫でた。

「そう決めつけるのはダメですよ。こんなに探しても見つからないということは、下ではく、上を見ればあるは、ず、あっ」

 そう言って、なずなが上を向いた瞬間、桜の木の枝にずっと探していた指輪が引っかかっていること気づき、少年も上を向いて、全力で喜ぶ。

「あった、ありました!」

「・・・はい、そうですね。でも」

 見つけたのは良かったけれど、その指輪があるのは一番上でこれは登るしかないと、なずなは草履を脱ぎ、覚悟を決める。

「わたしが登って取りますので、あなたは後ろを向いてください」

「えっ!」

 その言葉に驚きと衝撃で、少年は瞳を激しく震わせてゆっくり首を横に振り、桜世おうよの肩を掴む。 

「ダメですよ。あなたは花の世界で一番大切な存在、そんなことをしたらあなたは」

 桜木家の次期当主であることを完全に忘れて、今まで一度も登ることを禁じられた桜の木に、なずなは無表情で少年の頬を撫でて安心させる。

「大丈夫です。わたしよりも、あの指輪を一番に考えてください。生き者は死んだら骨が残る。でも、物はなにがあっても、永遠に残り続ける大切な存在。だから、わたしを信じて、後ろを向いてください。登る姿を男のあなたに見られたくないので」

「あっ」

(本当にいいんですか。あなたは、桜世様は花の世界で一番愛されるべき存在なのに、わたしのせいであなたを汚してしまうなんて、そんなこと・・・)

「くっ」

「ん?」

 少年がとても悔しそうに唇を強く噛む姿になずなは不思議に思ったが、夜になる前に急いで少年を後ろに向かせて登っていく。

「は、はっ、はあ」

(木登りなんて初めてする。でも、この人のために頑張らないと)

「はあ、は、はっ」

 精一杯の力で登り進めて、やっと指輪に手を伸ばして枝から取り、ゆっくり降りて少年の肩をそっと優しく叩く。

「取りました」

「あ、ありがとうございます」

 土も泥もついていない落とし物の指輪を少年が大切に手の中で抱きしめ、なずなも無表情ではあるが、安心したように地面に置いた草履を持って手を振る。

「じゃあ、わたしは帰りますので」

「あ、待ってください」

「え?」

 桜世おうよの着物の裾を少年がそっと握り、誰にも見られない一瞬でおでこに口づけをした。

「えっ、あ、の」

 生まれて初めてのことで、本当なら驚きで顔を真っ赤にできたのかもしれないのに、感情がない以上、それを簡単に取り戻すことは不可能。

 せめて、今の瞬間に合う感情がなにかを知れたら、どんな選択肢があったのだろう。

 一秒でも早く知りたい。

 誰か教えて欲しい。

 そうすればきっと、人を好きに、愛せる自信につながるはずだから。

 なずながじっと固まって瞬きを何度も繰り返す姿に、少年が一歩下がって手を振った。

「急にこんなことをしてすみません。でも、わたしがあなたを永遠に幸せにする人ということを絶対に忘れないでください」

「え、それはどう」

「今日はありがとうございました。また今度お会いしましょう」

「はい・・・」

 少年が元気よく走って帰って行き、なずなも桜木家の屋敷になにも迷うことなく辿り着いてしまった。

「え、ここが、おれの家?」

 そう。

 春季の町の四分の三をしめる桜木家の屋敷は桜の木から徒歩三分近い場所にあり、由緒ある名家の当主とその家族だけが入れる花の世界で一番特別で綺麗な場所だった。

「こんなに大きな屋敷に住んでいるなんて、桜世さんは本当にすごい人だ」

 桜木家の次期当主だから、ここに生まれたから特別な場所にいる。

 体は借り物だけど、心はなずなのまま新しい家族と大切な人たちと笑い合える。

 そんな優しい生活を願いながら、なずなは玄関と思われる扉を開けて中に入り、少しずつ歩いて中央にあった大きな桜の木とは違う小さな桜がいくつも咲き誇って風に揺られる度に舞い踊る姿に心が震えた。

(美しさとは違うとても綺麗な物だ)

 ここ春季の町は名前の通り、春の花が咲き誇る綺麗で癒しがある場所。

 そんな誇り高い町で今日から新たに育つなずなが、赤く燃え上がるような炎の灯りを通って、母屋の玄関を開けて中に入った。

「えっと・・・」

 中はとても広く、百人なんて当然余裕で入れそうな玄関。

 しかし、その奥、リビングらしき物は微かに見える三十メートルくらいの廊下を歩かないと辿り着くのは無理に思える。

(予想以上に広くてなにか申し訳なく感じてしまう。入って良かったのかな?)

「・・・どうし」

「やっと帰ってきましたね、桜世!」

 力強い声で睨みながらなずなの帰りをずっと待っていたのは桜木家当主、桜木桜花さくらぎおうかだ。

 桜世おうよと同じチョコレート色の背中より長い直線の髪を後ろで桜が描かれている赤色の大きなリボンで三つ編みにし、桜色の瞳。

 桜世おうよと色違いの桜が描かれている真っ赤な着物は桜木家当主の証である。

 そして、桜花おうかこそが、桜世おうよの母親でもあった。

「・・・・・・」

(この方が、桜世さんのお母さん。なら、ちゃんと帰ったならあの言葉を言わないと)

「ただい」

「なぜ勝手に外に出たのですか! お前は桜木家次期当主の自覚がないのですか!」

「えっ」

(怒られている? どうして?)

 全く心当たりがないのになぜか怒られているこの状況。

 なずな桜花おうかの母親としての怒りの声を聞き、両親が実験の失敗した時を思い出して体が一瞬でゾッと恐怖に包まれているかのように震えた。

『薺、どうして失敗したのかすぐに言いなさい!』

『お前は実験体なんだ。なにも考えるな!』

『・・・ごめんなさい」

(おれ、なにも悪いことはしていないよ。ただパパとママの言うことをそのまましていたのに怒るなんて、そんなの分からないよ)

 自分たちの失敗を子供のなずなに押し付けて怒った両親が今目の前に立っているような幻が見えたなずな

 その幻で、気持ちが悪くなり、倒れそうになった時、桜花おうかの後ろから一瞬で誰かが走ってなずなを横に抱えた。

「え、誰」

「桜世! 大丈夫、どこか痛いの?」

「あっ」

 心の底から心配されて抱えられたなずなは自然と瞳が大きく揺れる。

(また抱きしめられた? でも今度は大人)

 二度目を助けたのは桜木家当主、桜花おうかの夫であり、桜世おうよの父親、桜木山茶花さくらぎさざんかだ。

 渋い味のある緑色の短髪に山茶花さざんか色の瞳。

 山茶花さざんかが描かれている渋い緑色の着物。

 子供の桜世おうよをすぐに助けるために看護師になった桜世おうよ思いの寂しがり屋だけれど、家族を一番に愛しているとても優しい人。

 だが、桜花おうかにはそんなことよりも、もっと大切なことがある。

 それは。

「なぜ着物と体が土だらけなのですか! なぜ桜木家の、花の世界で一番大切な桜の木に登ったのですか! 理由を言いなさい!」

「あっ・・・」

(あの桜の木って、登ったら、触れたらダメだったんだ。でも、花咲様はそんなこと一言も言っていなかった。どうしよう、知らなかったって言ったら、もっと怒られてしまう。どうすればいいの?)

「・・・・・・」

 桜木家次期当主である桜世おうよが絶対に触れてはいけなかった桜の木を汚したことを、桜花おうかは桜木家当主として当然花の守り人、花咲はなさきから罰を与えられる。

 だからそれが怖くてなずなに今、意味のない怒りをぶつけてしまっているのだ。

「われはお前のために怒っているのですよ、母親として!」

「え」

(おれのために怒っているの?)

 今まで両親がなずなに怒っていたのは全て自分たちのためで、決してなずなのために怒っていたわけではない。

 実験が失敗したのは自分たちのはずなのに、それをなずなのせいにする両親とは違って、桜花おうかは心から桜世おうよの、なずなのこれからの人生のために怒っているのだ。

 それを知ったなずなは瞳が自然と輝きを取り戻し、自分から降りて頭を下げる。

「ごめんなさい。わたしはある少年の落とし物が桜の木の枝に引っかかっていたのを取るために登ったんです。遊び半分で登ったわけではありません。本当にごめんなさい」

 ちゃんと素直に理由を言って心から反省して謝るなずなに、山茶花さざんかがそっと頭を撫でて明るく微笑む。

「そうだったんだね。言ってくれてありがとう」

 その微笑みが両親とは全く違う愛だと感じたなずな桜花おうか山茶花さざんかの手をそれぞれ握る。

「お母様、お父様。ごめんなさい。そして、今日からよろしくお願いします」

「え」

「あっ」

 突然「お母様」と「お父様」という生まれて初めて言われた桜花おうか山茶花さざんか

 一瞬驚きと戸惑いで固まったが、桜花おうかは少しだけ照れて山茶花さざんかは満面の笑みでなずなを抱きしめる。

「桜世、嬉しいよ! ありがとう、ありがとう!」

「え、お父様?」

(ただお父様と言っただけなのに、そんなに嬉しそうに笑うのに、喜びという感情がない今は笑うこともできない。ごめんなさい)

 山茶花さざんかの嬉しさを見て、桜花おうかも母親として桜世おうよの頭をちょっとだけ美しく微笑んで撫でてあげる。

「まあ、謝ってくれたので良しとします」

「・・・ありがとうございます」

(これで良かったのかな? 謝って済むことじゃないのに、桜木家当主のお母様が許してくれるなんて、優しすぎるよ)

 借り物の体で今日から生きていくスタートがこんなにも温かく優しい人たちに恵まれている桜世おうよの存在。

 なずなはまだどこか申し訳なく思ってしまい、無表情でも暗く沈んだ雨のように冷たくて寒い。

 誰かこの温度を上げてくれる人がいればなずなは全ての感情を取り戻し、人を好きに、愛せることができる。

 でもそれはもう始まっていて、後戻りなんて絶対にさせない人ともうすぐ出会う。

 出会いも別れも、見方を変えれば違った運命になる。

 今までの運命よりも、今日からの運命を信じる力を持って、借り物でも花咲はなさきの言った最初の「幸せ」を信じて前を向いて歩く。

 そうすればきっと「第二の人生」を華やかにできるから・・・。

 なずなの姿をじっと笑って見ていた山茶花さざんかが今日一番大切なことを思い出す。

「しまった!」

「なんですか、山茶花さん」

 突然大きな声を出した山茶花さざんかを睨みつける桜花おうか

 けれど、山茶花さざんかはそれに全く気づかず、なずなを縦に高く上げる。

「え、お父様?」

「今日は四月一日。桜世の十二歳の誕生日だよ!」

「なっ! なぜそれを早く言わなかったのですか、山茶花さん!」

「あ、ごめんね。仕事でつい忘れてたよ」

「もう」

「・・・え、今日が誕生日?」

 もう今は夜の十九時四十五分。

 すっかり忘れていた桜花おうか山茶花さざんか

 そして今日が誕生日だと初めて知ったなずな

 桜花おうか山茶花さざんかはとても笑ったり焦ったりして喜んでいるが、なずなはさらに申し訳なく感じていくだけだった。

(どうしよう、桜世さんの誕生日をおれが代わりにお祝いされるなんて、本当に申し訳ないよ)

 一年に一度しかない自分の誕生日を主役の桜世おうよの代わりにお祝いされるのを、なずなはできるだけ避けようとあることを提案する。

「あの、今年の誕生日はなしにしてくれませんか」

 予想外で悲しい言葉を聞いた桜花おうかなずなを睨む。

「お前、なにを言っているのです? 今日はお前の特別な日であり、特別な一年の始まりなのですよ。それをなしにする人など花の世界には絶対に存在しません。お前は黙ってわれらの言うことを聞きなさい」

「でも、わたしは」

 桜花おうかの睨む姿がなずなには「怖い」という感情がないため、ただ瞳を大きく揺らすことしかできずにいたのを、山茶花さざんかがそっと二人を抱きしめて落ち着かせる。

「まあまあ。桜世、桜花は毎年この日を楽しみにしてるんだよ」

「え」

「桜花はね、桜世のことが大好きすぎて仕事よりも桜世のことばかり考えてる」

 満面の笑みで心から楽しそうにする山茶花さざんかに、桜花おうかが少し力を込めて頬を摘む。

「ちょっと、山茶花さん。なにを言っているのですか、われはそんなことは一度もな」

「子供に嘘はよくないよ。母親なら、自分の気持ちを素直に言えるようにならないと、ほら、さっきみたいにさ」

 山茶花さざんかが甘やかすように耳元で囁かれたことが、桜花おうかには恥ずかしく、顔が真っ赤に染まってしまう。

「もう、山茶花さん。そういうことは二人きりの時にしてください。桜世に言える気持ちなど、われにはありません」

 そう言って、桜花おうかが抱きしめられている腕を離して桜世おうよの肩をポンっと叩いた。

「いいですか。今日の主役はあなたです、夕食までに体を綺麗に洗ってきなさい」

 口調は少しだけきつく怖いけれど、桜花おうか桜世おうよへの気持ちは母親として愛の言葉。

 子供の誕生日を一緒に喜び、お祝いする。

 この世界では全く知らなかったことを、なずなはまだなにも受け入れられない、分からなくても。

 いつか知って分かれば、これからの人生の色を華やかにできるはず・・・。

 桜花おうかが返事を不思議に首を傾げている姿に気づいたなずなはすぐに言葉を返す。

「はい」

(結局今日の誕生日は・・・ううん、今日だけじゃない、来年も再来年も、五年後も十年後もおれが誕生日をお祝いされる。桜世さんはその覚悟でおれに体を貸してくれたとしたら、これは精一杯喜んで感謝するしかない。でも、感情がない今のおれには喜ぶことはできないけど)

 なずながさっきと同じように瞳を揺らしている姿に、桜花おうかはすごく心配そうに手を伸ばそうとしたが、もう片方の手でそれを止めて一人奥へ歩いて行った。

 それを見たなずなは自然と手を伸ばす。

「・・・お母様」

 その寂しそうな桜世おうよの手を、山茶花さざんかが美しく微笑んで握った。

「桜世、体はぼくが洗うよ」

 桜花おうかとは全く違う優しく甘い声。

「え、いいんですか?」

 甘えることなんて絶対に両親は許さなかったけれど、桜花おうか山茶花さざんかは全く違う。

 表情は変わらなくても、なずなのほんのちょっとだけ高く同じような甘い声。

 山茶花さざんかはその十倍以上に喜び、満面の笑みでなずなを抱きしめる。

「うん、もちろんいいよ!」

 何度も自分を抱きしめる山茶花さざんかを、なずなは表情に出せないことに申し訳なく思い、目を逸らすも、お礼だけはちゃんと言う。

「ありがとうございます・・・」

「あっ、うん」

 桜花おうかの心配をできるだけ無くすように山茶花さざんか桜世おうよの手を握りながら、大浴場に連れて行く。

「あははっ、着いたよ」

「え、お父様、ここは」

「ここ? 毎日入ってるのに、もしかして忘れた?」

 不思議に首を傾げる山茶花さざんかに、なずなは目を逸らさずに素直に話す。

「はい・・・わたし、今までの記憶がないんです」

「えっ! どういうこと、頭でも打った?」

 すごく慌てて冷や汗をかきながら山茶花さざんか桜世おうよの肩を掴み、なずなはすぐに首を横に振る。

「お父様、わたしはどこも打っていません。ただ記憶を失っているだけです」

 信じて欲しいとはっきりと目を見て伝えるなずなを、山茶花さざんかはゆっくり深呼吸をして頷く。

「分かったよ。でも、体調が悪くなったらすぐに言ってね。君は花の世界で一番大切な存在なんだから」

「・・・はい」

(みんなおれを一番大切な存在と言う。その存在をおれが責任を持って果たせるのか、分からない)

 桜木家の桜の木と同じように、花の世界では、桜世おうよは一番特別な人であり、愛されるべき存在。

 桜木桜世さくらぎおうよという人は、全ての人にとって、色々な意味でその存在を大きく認められていたのだった。

 全く慣れない着物をなずなが自分で脱ごうとしたが、その前に山茶花さざんかが脱がして中に入り、泡で体を洗っていく。

「桜世、痛いところがあったら遠慮なく言ってね」

「・・・はい」

(痛いなんて言葉、久しぶりに聞いた。だけど、もうおれには痛いという感情はないし、感覚もない。感情って、本当に便利な物だった)

「・・・・・・」

 無言で鏡に映る桜世おうよの姿がとても綺麗で、なずなはそれから目を逸らし、目を瞑った。

(もうなにも考えたくない)

 なずなが目を瞑ったことに、山茶花さざんかが心配して肩をポンッと優しく撫でる。

「桜世、記憶がなくなって不安なのはぼくも同じだよ。でも、それ以上に今日は嬉しい」

「え?」

 その言葉で、なずなが目を開けて後ろをふり向くと、山茶花さざんかは笑顔で頭を撫でた。

「生まれて初めて『お父様』って言われてぼくはとても幸せだよ。本当にありがとう」

 何度もお礼を言われて心が山茶花さざんかにふわふわと包まれて、なずなは自然と手を伸ばして山茶花さざんかの頭を撫で返した。

「あの、今までのわたしに戻ることはできませんが、今日からのわたしをどうか見守ってください」

 心からそう願うなずなの気持ちを、山茶花さざんかは一回泡で洗った桜世おうよの体をお湯で流して体を拭き、着替えさせて思い切り抱きしめる。

「うんうん。やっぱり君はぼくたちの特別な子供だよ。生まれてきてくれてありがとう」

「はっ」

 今山茶花さざんかが言った

「生まれてきてくれてありがとう」

 という生まれて初めての言葉が、なずなの心を温かく守り続けるだろう。

 その「嬉しい」という感情を取り戻せればの話だが・・・。

 夕食の準備が整ったリビングと思われる大広間に山茶花さざんかと手をつなぎながらきたなずなは中心にある席へと姿勢を正して座ると、豪華なごちそうが目の前に置かれていく。

「うわあっ、こんな豪華な物、生まれて初めて見ました」

 この世界では一度も見たことがないごちそうをなずなが瞳を大きく開いた姿に、桜花おうかが不思議に首を傾げた。

「桜世、今までと全く同じですが、なにか嫌な物でも入っていましたか?」

 嫌いな物でもあるのかと聞かれたなずなが瞳を大きく揺らして困っているのを、山茶花さざんかができるだけ桜花おうかが傷つかないように苦笑いを浮かべて話す。

「・・・えっと、桜花。実は桜世は今までの記憶を失ってるんだよ」

「は? もう一度言ってください。よく聞こえませんでした」

 強く睨む桜花おうかに、山茶花さざんかは恐る恐るもう一度言う。

「だからその、桜世は今までの記憶を失っ」

「もう一度言ってください」

「えっ!」

 今までの桜世おうよが記憶全てを失ったことを信じたくない桜花おうか

 しかし、山茶花さざんかは諦めずに何度も続ける。

「だから、桜世の記憶はもう今はな」

「もう一度言って」

「お母様、お父様。もうやめてください」

 自分のせいで二人に喧嘩をして欲しくないなずなが静かに口を開き、桜花おうか山茶花さざんかも諦めてその事実を素直に受け止める。

「本当に記憶を失っているのですね、全ての記憶を」

「はい」

「それで、その記憶はいつ戻るのですか?」

「・・・永遠に戻らないと思います」

「え」

「なっ!」

 桜花おうか山茶花さざんかが驚きと悲しみで立ち上がったが、なずなは全く無表情のまま暗く床を見つめる。

(桜世さんの記憶は体を借りている限り、絶対に戻すことはできない。花咲様はなにもそれについては言わなかったけど、多分おれの考えている通りになると思う)

「ごめんなさい」

 花咲はなさきの説明はほとんど抜けていた。

 心臓も大切なことだけど、他にも花の世界の歴史や結婚、家族、由緒ある名家の特徴など。

 全てがごちゃごちゃに混ざり、次の授業の時間に気を取られすぎて、花咲はなさきは四人目の転生人であるなずなを一番大切にしたいと思っていた気持ちが、どこへ飛んで行ってしまったのか。

 それを今更後悔してももう遅い。

 そして、なずなが謝ることはなにもない。

 全ては花咲はなさきの焦りで始まってしまったのだから。

 なずなが無表情で謝る姿を見て、桜花おうか山茶花さざんかは瞳を揺らして悲しくなったけれど、母親として、父親として。

 その見えない傷を少しでも癒せるように抱きしめる。

「あ、お母様、お父様」

「桜世、お前が記憶を戻せなくても、われらは絶対にお前を大切に守ります」

「えっ」

「そうだよ。君はぼくたち二人の大切な宝物なんだからね」

「た、宝物? わたしが?」

 これも生まれて初めて言われた、いや、全てが生まれて初めて言われた特別で愛に満ち溢れている言葉。

 こんなに「幸せ」な出来事がたった一日で起こったと思うことが、感じることができたら良かったのに感情がない今のなずなには抱きしめられているこの温もりさえも、喜べない、嬉しさがない。

 どうしたら感情を取り戻せるのか。

 どうしたら「幸せ」を掴めるのか。

 そんな簡単そうで難しい今がすごく心に響かなくてますます分からなくなる。

(いいのかな、他人のおれがお母様とお父様に抱きしめられて本当に・・・だ)

 夕食が冷めてしまう前に、桜花おうか山茶花さざんかが自分の席に戻り、なずなも自分の席で

「いただきます」

 と言って、三人で食べ始める。

「うーん、おいしいね」

「この卵焼きは山茶花さんの手作りではありませんね。誰が作ったのですか?」

「あー、多分、ぼくの弟子だよ。うん、多分そう」

 ぎこちなく笑う山茶花さざんかを、桜花おうかは悔しそうに頬を少しだけ膨らませた。

「そうですか・・・山茶花さんの手作りが一番おいしいのに、もう」

 可愛らしく山茶花さざんかへの愛をひっそり独り言で表すツンデレの桜花おうか

 そんな桜花おうかの独り言を山茶花さざんかは当然知っているが、二人きり以外の時はあえて、聞こえていないふりを毎回満面の笑みでそう表していた。

 いつまでも少女と少年のような可愛らしくも愛おしい頃を今でも桜花おうか山茶花さざんかはつないでいたのだった。

 そして、なずなは。

(おいしい。久しぶりに家族とご飯を食べた気がする)

 この世界の時はほとんどなずなは一人でスーパーとかコンビニのパンとおにぎりだけを食べていたため、こうして家族で温かいご飯を一緒に食べられるのがすごく心が落ち着く。

「お母様、お父様、ありがとうござます。とてもおいしいです」

 そう言って、なずなが静かに完食した。

 それを見た桜花おうかはひっそり笑って、山茶花さざんかは満面の笑みで頭を撫で、奥へ行き、すぐになにかを背中に隠しながら持ってきた。

「桜世、誕生日おめでとう。ぼくが今日作ったケーキを一緒に食べよう」

「えっ、ケーキ?」

(花の世界は和だと思っていた。でも、和でも洋があるって、この世界と少し似ている気がする)

 この世界を作った神像しんぞう

 花の世界を作った花咲はなさき

 守り人が作った世界はこの世界を作った神像しんぞうとは違って、主に「和」が主役である。

 しかし、お祝いには必ずどの世界にも「ケーキ」が存在し、それを食べることができるのは由緒ある名家の人だけ。

 一見厳しいように見えるが、庶民と由緒ある名家の苦労の差は必ず由緒ある名家が上をしめている。

 なぜなら、生まれた環境が大きく違い、成長すらも色々な事情で激しく分かれてしまっているから・・・。

 桜世おうよの髪と同じ色のチョコレートの甘すぎずにとても食べやすく、いちごがたくさん華やかに飾られているのが山茶花さざんかの得意菓子「ケーキ」である。

 生まれて初めての誕生日ケーキ。

 本当なら「嬉しい」とか「楽しい」という感情があればいいのに、今はどうしてもそうなることはできない。

 けれど、桜花おうか山茶花さざんかに少しでも笑ってもらえるようになずなが精一杯の笑顔を見せようとするが、無理だった。

 だから言葉だけでも。

「ありがとうございます。食べたいです」

 今日の主役として、誕生日ケーキを一番最初に食べたい気持ちを優先して、山茶花さざんかが十二本のろうそくに火をつける。

「じゃあ、桜世。この火を消してくれる?」

「はい。ふうー」

 一度に十二本のろうそくを息で消し、山茶花さざんかがケーキを三等分に切り分け、一番大きい二人分くらいのサイズを皿に乗せ、それをなずなの前に置く。

「さっ、食べてね」

「はい、ありがとうございます。いただきます」

 生まれて初めての誕生日ケーキを、なずなはその味を、始まりの味を忘れないように手を止めずに食べ続け二分で完食した。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」

「うん。こんなに早く食べてくれるなんて、とても嬉しいよ」

「ですが、ケーキを作っていたなら、桜世の誕生日を忘れるはずがないでしょう。山茶花さんはもっと、桜世を大切に、一番に考えるべきだと思いますよ。父親として」

「うっ、そうだね。ごめんね、来年は絶対に忘れないか」

「来年だけでなく、その先の未来でも絶対に忘れないでください」

 美しく微笑んでそう伝える桜花おうかの姿に、山茶花さざんかも満面の笑みで頷く。

「はっ。そうだね、確かに桜花の言う通りだよ。うん、絶対に忘れないよ。だってぼくたちは誰よりも幸せなんだからね」

「あっ」

 また言われた。

 ただそこにいるだけでみんな桜世おうよを、なずなを「幸せ」と笑いながら語るその姿。

 その言葉は決して嘘ではない。

 誰かの存在、生きているだけで誰かをみんな好きになって愛し合う。

 それが家族でも友達でも、恋人でも。

 花の世界でなずなを一番大切に守ってくれる人は他でもない・・・だから。

 ケーキを完食した三人はそれぞれ寝室に戻って行く。

「桜世、おやすみ」

「ゆっくり休みなさい」

「はい、おやすみなさい。お母様、お父様」

 ふわふわの布団で横になったなずなは家族の温かさを生まれて初めて知った。

 自分のために怒ってくれた桜花おうか

 自分のために心配してそばにいてくれた山茶花さざんか

 借り物の人生のスタートがこんなにも温かくも優しいなんて全く想像していなかった。

 この世界にいた時は明日も実験で知らない薬と知らない注射を打たれる日がやってくると全く期待していなかったが、今日からは違う。

 明日も明後日も、大切に守ってくれる優しい桜花おうか山茶花さざんかが待ってくれる。

 そしていつか自分も「優しい人」になれるように明日を心から待ち望み、目を瞑り、夢を見る。

「あれ、ここはどこ?」

 春季の町の中央にある桜の木とは少し違う世界を埋め尽くすような巨大な桜の木の下で一人の少年が明るく笑っている。

 姿は桜世おうよそっくりだが、瞳が血のように真っ赤に染まって恐怖があった。

 それを見たなずなは一歩下がったけれど、少しずつ前に歩き出して手を伸ばし、少年がその手を握り、怪しげに笑う。

「あはははっ、君はぼくと違って夢があるみたいだね」

「え? 夢なんておれにはありません、持ったこともありませんよ」

 期待外れの悲しい言葉に、少年はなずなをそっと抱きしめ、頭を撫でた。

「でも、ぼくは君を尊敬しているんだ。ぼくにはない、君だけの特別な世界を作れると信じているんだ」

「え、それはどういう」

「まあ、今日はここまでにして、また今度会いに来るよ。愛おしい君へ、ぼくの望みを叶えていつまでも待っている」

 そう言って、少年は桜吹雪の中へ消えて行き、目を覚ますと、桜世おうよの首筋にいつのまにか口づけの跡がつけられていた。


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