第5話
それは、前触れもなくやって来ました。
「ロンズ、ちょっと来て」
自分の部屋に篭っていた私に、母がやって来ました。
「フランスが噛んだ」
「はあ!?」
一緒に昼寝していたフランスと従姉妹。ところが、フランスは起き上がった瞬間、突然従姉妹を噛んだのです。
従姉妹の手からは、ドクドクと血が流れていましたが、フランスはさらに従姉妹の手に噛みつきました。
従姉妹が必死に手を引っ込めても、フランスはその手を追いかけてまで噛もうとしたのです。
それは一度や二度ではありませんでした。
こたつで寝ていると、こたつ布団やカーペットの上で大量におしっこを漏らし、それを人間が「あ~!」と声を上げたら、目の前にいる人を噛んだり。
その対策にオムツをしても、しっぽの穴からおしっこやうんこが漏れて、それを片付けようとする人間を噛んだり。
変わってしまったフランスに、私たちは戸惑いました。
フランスは噛む子でした。それは、食べたら危ないものを噛んでいて取り上げようとした時に噛んだり、まだハウスに入りたくないのに、無理やり入れようとする人間に抵抗するために噛んでいました。噛まれるのは勿論嫌でしたが、まだ理屈がわかっていたので、さほど脅威ではありませんでした。
今は、理屈がまるでわからない。うんこやおしっこを取らないわけにはいかないし、そもそも何もしなくても噛んでしまう。
認知症だろうか。このまま、私たちのことがわからないまま、威嚇し続けたまま過ごすのだろうか。怪物にでもなったかのように、私たちはフランスに触ることが怖くなりました。
時折、誰かの声が聞こえてきます。
『犬が噛むなんて、躾がなってないんじゃないの』
そう言われるのが恥ずかしくて、動物病院の先生に相談するのも怖かったです。
いいえ、その前に、フランスの体調不良を相談することだって恐ろしかった。
実はその前に、フランスの首には大きなこぶが出来ていました。前の動物病院で、皮膚のかゆみやフケが止まらず、毎日のように通っていたのに、全く治る気配がなかった頃です。
突然先生が「こぶがある!」と言い始めました。
私は昔からあると思っていたのですが、写真を見ると、一年前にはなかったものでした。
「悪性の腫瘍だったら、この大きさは致命的だ! 今すぐ手術しなければ!」
先生の言葉に、私はパニックになりました。
変化というのはわからないものです。記憶はだんだん改ざんされ、ある日ハッと気付かされる。それが命に関わっているとなると、人間は困惑します。
なんでいままで気づかなかったの、とか、飼い主失格じゃないか、とか。もっと出来ることがあったんじゃないの、とか。いとも簡単に、自分を責めてしまうのです。
もしあの時、私は手術を選んでいたら、フランスはここまで生きていたでしょうか。
ですがあの時、私はパニックになりながら、自身の状況を冷静に把握していました。
長く待たされる連日の通院の疲れ。患者であるフランスに触れようとしない先生。まるで危険な生き物であるように、看護師に口輪をつけられるフランス。そして、一人しかいない私。
どう考えても、ここで「うん」と言って手術するのは、あまりに危険すぎる。そこの動物病院に不信を抱いた私は、「少し考えさせてください」と言って、今の動物病院に移ったのでした。
その事を思い出して、私は、今の状態が冷静では無いことに気づいたのです。
つまり、『認知症』という一択しか思いついてない頭が、今の状況を作っているのではないかと。
その日から、私はインターネットで調べ続けました。
時に、「犬の死期」や「ガン」の情報を見つけては落ち込み、それでもこれじゃないかもしれない、と思って、検索をかけ続けた結果。
私は、ある情報を見つけました。
『椎間板ヘルニアを患う犬は、痛みによって噛んだり、大量のおもらしをすることがある』と。
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