第5話 なにか

 僅かに雨脚が強まった。

 加藤淳也はバイザーをグローブで拭い、辺りを見回した。住宅地での演習など経験したことは無い。普段ならば仕事から戻った主を囲む団欒の明かりが見えるはずの戸建てにも、人の気配は感じられない。居ても皆、息を潜めているのだろう――淳也はそう思った。時たま、恐る恐る窓を開けて外の様子を窺っていた者が、自衛隊の姿を見て慌てて閉ざしてしまう。

 淳也を含むメンバーは黎都大を取り囲むかたちで展開した。その総数は三十名。各五名の小隊に分散し、ジリジリと進む。先陣を切っていた装甲車が、いまは静かに待機している。装甲車によって破壊された正門は、瓦礫と化していた。それを横目に、構内に侵入した。

 リーダーのハンドサインは見落とせない。そのリーダーは、淳也の数メートル先を歩いている。前方に停車している三台の消防車を見た。そのうち一台は後部を大破している。

 淳也は、ほんの一時間前に行われた隊のブリーフィングを思い起こしていた。ホワイトボードを背にして説明する中隊長の目は、据わっていた。

「黎都大学を中心とした一定地域を同心円状に包囲する。そこからは地域住民も出さない。包囲円は五段階とし、各円は小隊長からの指示で待機体勢をとる。最も内側の円は黎都大構内に同時侵入し、構内において《対象》を発見――捕縛する。捕縛不可能と判断した場合は火器使用を許可する」

 さしもの自衛隊員にも、微かなざわめきが起こった。市街地での火器使用など、考えたことも無い事態だ。

 陸上自衛隊三等陸尉・加藤淳也は挙手した。

「対象とはなんですか?相手は武装している可能性があるのですか?」

 中隊長に問いかけたが、顎髭のある中隊長は何も答えなかった。ただ「装甲車を突入させ、隊は完全武装展開となる」と端的に、強い口調で発した。

 それから数十分後には、十数台の装甲車が正門を踏み壊して構内に侵入した。その頃にはまだ姿のあったマスコミもいまは皆無だ。辺りには静けさだけがあった。

 指示通りに散開すると、淳也の小隊もすぐに陣形を立てた。リーダーを頂点に五人で作る三角形だ。足下の水たまりも波立たないほど静かな歩調を維持する。芝になっているあたりは、地面もぐっしょりと水を吸った状態だ。八十九式アサルトライフルを握る手に力が入り、思わず意味も無い苦笑が出た。

――ここは日本だよな…。

 構内は電力を失い、明かりという明かりが消えている。闇の中に《対象》が居るかも知れないと思うと、喉もヒリついた。唾を飲もうとするが唾が出ない。自分たちはいま、〈何を警戒して〉進んでいるのか。そもそも大学構内において〈何が起きたのか判らない〉のだ。それが何故、歴史上初となる治安出動の要件を満たしたというのだろう――。淳也は精一杯の唾液をため、飲もうとした。だが、やはり抑えた空咳が出ただけだった。

 目の前で〈動くな〉のハンドサインが出た。一秒、二秒――。それが〈要注意〉に変わり、二名は右、もう二名は左に〈散開しろ〉のサインが出ると、淳也は小隊長の左手に回り込んだ。リーダーの鈴沖が何に警戒したかは判らないが、全神経が前方に注がれているのは肌で感じた。

――何かが居る!敵か?

 明かりを失った外灯の支柱に身を隠し、前方を見た。洒落たベンチの並ぶ、いかにも大学――といえそうな芝の小径がある。その先には木立があり、建物は淳也達の背後にあるのみで、先には無い。その木立の中から、ゆっくりと現れたものがあった。その場に居た全員に緊張が走った。

――誰だ?学生?

 指示の解除は出ていない。鈴沖は鉄帽に装着したGPNVG-18(複眼暗視装置)を覗いている。その鈴沖の口から声が漏れた。

「なんだ、こいつは……!」

 雨で月の明かりもないが、淳也は微光暗視装置を装着している。それを通し、目をこらした。ゆっくりと近づいてくるシルエットは人間に見える。ただそれは、酷く不安定な歩き方をしていた。よろよろと数歩歩いたかと思えば、立ち止まり、しばらくジッとしてはまたよろけるように歩いた。対象に最も近い鈴沖が何に驚いたのか、淳也には判らない。怪我人ならば救助しなくてはならないが、〈注目〉の後に出されたハンドサインは〈後退〉だった。闇の中の数名がそれに従い、前方に注意したまま下がる。淳也はは声を殺して囁いた。

「後退――ですか?救助は――」

「下がれ、加藤!」

 鈴沖はそう叫んだが、淳也には何が起きたか判らなかった。ただ、近づいてきた人影が鈴沖の叫びと同時に地面に崩れ落ちたのは見えた。次の瞬間、鈴沖は両膝からガクリと崩れ落ちた。銃を構えたまま、自分の下半身を見ている。

「小隊長!」

 夜陰に呻き声が聞こえた。

「…か…とう……逃げ…」

 声は途切れた。

「小隊――!」

 後退を始めていた隊員も気づいた。命令を無視し、駆け寄る者も見えた。そこで淳也は信じられないものを見た。鈴沖の身体を何かが覆っていく。それは、ぐっしょりと水を含んだ芝から〈上がってくる〉ように見えた。動きは素早い。明らかに水ではない。鈴沖もそうだが、全員がすでに雨に濡れている。雨よりもっと〈厚み〉を感じる何かだ。加藤は頭に浮かんだ言葉を呟いた。

「アメーバ?」

 実際になど見たこともない。マンガなどではよく描かれる粘性のある物体を想像した。それが一番近いもののように思えた。呆気にとられている淳也の周囲に隊員たちが集まっていた。鈴沖は苦悶の表情を見せている。粘性のそれは、鈴沖の顔を包んでいた。

 我に返り、淳也は鈴沖の口元に手を伸ばした。触れていいものか判らない。だが、口も包み込まれた鈴沖は明らかに呼吸困難の様相を呈している。銃を落とし、自分の口をかきむしっている。その物体を掴み、剥ぎ取ることは出来ないようで、苦悶は最高潮に達していた。

「小隊長!」

 淳也はグローブの手で〈それ〉に触れてみた。やはり水では無い。意外なほど質感があるが、強く握るとまるで水のように捉えどころも無い。手を引き、自分の手袋を見た。そこには、うごめく〈それ〉が付着していた。

 悲鳴など上げる間もなく、ただ必死に手袋を取り、力一杯放り投げた。その脇で鈴沖が突っ伏すのが見えた。誰かが悲鳴を上げ、後ずさりし、やがて装甲車両がある校舎前に向かって走り出した。

 淳也も走ったが、少し行くと鈴沖を振り返った。

――小隊長を置いてはいけない!

 だが、背後に見えた光景は、意外なものだった。倒れていたはずの鈴沖が立ち上がっていたのだ。落としていた銃も拾い上げていた。全身は脱力しているようにも見えた。

「小隊長!鈴沖小隊長!」

 声を掛けると、鈴沖の銃口がゆっくりと上がるのが見えた。それが淳也に向けられた瞬間、淳也は無意識に消防車の陰に飛び退いた。反射的な動きだった。脳は、鈴沖が撃ってくることなど想像もしていない。だが、淳也の勘は〈避けろ!〉とアラームを鳴らしたのだ。淳也が消防車の陰に転げ込むのと銃声は、ほぼ同時だった。

 車両に穴が開き、ライトは砕け散り、火花が闇に浮かぶ。付近のレンガが削れて飛び散る。淳也は頭を抱えた。狙いは、正確に思えた。

 淳也は叫んだ。

「小隊長!」

 だが三点バースト(一度の引き金で三発発射されるモード)の銃声は止まない。闇の中で雨は降り続く。淳也は何が起きているのか判らず、混乱していた。

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MUD EPOCH~泥の時代 狭霧 @i_am_nobody

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