第3話
迎えた日曜日。
お昼ご飯を食べてから、千代は螢とともに学校の寮を出た。神田から日本橋方面へと向かう。その町並みはいつもよりも輝いて煌びやかに映った。
しんしんと降る雪に街の灯かりが反射しているからだろうか。それとも、耶蘇降誕祭という耶蘇教にとって特別な日がそうさせているのだろうか。いや、違う。
「……ん?」
螢と不意に目が合って、慌ててそらす。
わかっていた。
世界が煌めいて見えるのも、そわそわと落ち着かないのも、思わず飛び跳ねそうなくらい浮き立っているのも、吐いた白い息すらも愛しく感じるのも隣に螢がいるからだった。
「ちーちゃん?」
「あ、いえ……なんでも」
心配そうに顔を覗き込まれて、首を横に振る。
「少し、顔が赤いようだけど」
「さ、寒いからですかね」
「そう? それならいいけど……」
心配そうな表情の螢に誤魔化すように頷き返す。顔が赤いのも、もちろん螢が隣にいるからなのだが、まさか当人に言うわけにもいかない。寒さのせいというのも間違いではないのだが。
螢にいらぬ心配をさせぬよう「さ、行きましょう」といつもよりも元気を心掛けて促し、その後二人で呉服店や小間物屋をゆっくりと巡った。
櫛や簪、結紐やリボンなど気になるものはあったが、
しばし散策し、一休みをしようと近くにあった甘味処に入る。
二人向き合うように席に着き、善哉を注文した。
「ねぇ、一つ聞いてもいい?」
「はい」
「今日はどうして私を誘ってくれたの?」
「えっと、それは」
説明をするのは気恥ずかしいが答えないわけにもいかない。ただ遊ぶためや気分転換に出掛けたわけではないので、きちんと意図が伝わったほうがいいに決まっている。
それにそろそろ良い頃合いかもしれない。この場で感謝を伝えよう。
「幸子ちゃ――
「くりすます……あぁ、耶蘇降誕祭ね」
「西洋では大切な人と過ごす日だと言っていたので、日頃お世話になっている螢さんに感謝を伝えたくて」
「そんな感謝だなんて」
遠慮するように螢が胸の前で両手を小さく振る。
「これ、ほんの気持ちです」
言葉とともに机に純白のハンケチを置いて螢へ差し出す。
昨日、幸子に頼んで一緒に選んでもらった品だ。とはいえ、幸子には「こういうのは千代ちゃんが自分で探して決めないと」と言われたので、最終的に決めたのは千代自身である。そのため、螢が気に入るか不安でたまらなかったのだが、
「いただいていいの?」
「はい。もらってください。もっとたくさんのものを螢さんにはいただきました」
「大げさよ。むしろ、私がちーちゃんに感謝を伝えたいくらいなのに」
ありがとう、と礼を述べて螢は優しく両手で受け取った。小さな子供が宝物を抱きしめるように胸にぎゅっと抱く。
「それじゃあ、これはお返しに」
今度は螢が机の上に綺麗に折りたたまれた群青色のリボンを置く。見覚えがある品だった。
「これって」
「さっき、じっと見ていたでしょう? 気に入ったのかなと思って」
「それはそうですが……いただいてもいいんですか?」
「もちろんよ、受け取って。私もちーちゃんに助けてもらってるってこと、ちゃんとわかってるから、そのお礼」
「ありがとうございます!」
螢が自分のために買ってくれた品。それに千代のことを見てくれて、考えてくれて選んだものだという事実に胸がいっぱいになる。感情があふれ出しそうだった。
「ちーちゃんは同室の
「それはその……はい……」
上級生の螢の負担を少しでも減らそうとしていたことだが、まさか気づいていたとは。
「ちーちゃんの気持ちはとてもうれしい。でも、もっと私を頼ってくれたらいいのにって少し寂しい」
「螢さん……」
「ちーちゃんは器用でなんでもできるけど、もっと人に頼ってもいいのよ?」
くすりと小さく笑う螢の顔にはほんの少し寂しさの色が滲むようだった。
「……はい。心がけます」
「ふふっ、そういうところがちーちゃんの美点よね」
ふわりと笑みを向けられて、千代は照れ隠しで視線をそらした。
とはいえ、ここでだんまりというわけにもいかず、懸命に頭の中で思案して話題を変更する。
「えっと。少し早いですけど、来年もよろしくお願いします」
「ええ。そうね来年も……」
一度、螢の言葉が途切れる。
「そう、ね」
螢は目を伏せて、何か自分に問うように一つ息を吐いた。
「ちーちゃん」
「は、はい」
ゆっくりと開かれた螢の瞳にはいつもの包み込んでくれるような優しさがなかった。決して厳しいというわけではないが真剣な雰囲気なのが伝わってくる。
「ちーちゃんには、やっぱり言っておこうと思って」
突然のことに戸惑いつつも、ただ事ではないと千代は背筋を正した。こくんと首肯して先を促す。
「私ね、来年は学校にいられないの」
「……え?」
言葉の意味を理解するのに時間がかかった。たしかに聞き取ったのに意味として変換されない。
いられない? 螢が学校に?
意味が分からない。螢がいなくなる?
「ど、どうしてですか」
「家の事情でね」
自嘲するように肩をすくめた螢の視線はどこか遠くに向けられていた。虚空につぶやくようにポツリと言う。
「本当は卒業してからという約束だった結婚が少し早くなっちゃった」
「そんな……急に……」
視界がぐるぐると回るようだった。天から奈落に落とされたようだった。
「あと、一年だけなのに」
「私もそう言ったのだけど、相手方がね。もう仕方のないことなのよ」
「そう、ですか……」
「ごめんなさい。こんな時に言うことじゃないわよね。せっかく楽しい時間だったのに」
「いえ……」
喉から言葉を絞り出す。しかし、それだけしか言えなかった。
その後、注文した善哉を二人で静かに食べて、甘味処を後にした。
*
年の暮れは夕暮れも随分と早い。すでに日は沈みかけ、藍色の深い暗い青色が空に占める面積を大きくしていた。
千代と螢は神田の学校へとゆっくりと帰路についていた。足取りは来たときは打って変わってのろりとしていた。
「ちーちゃん、今日はありがとう」
不意に言われて螢へ顔を向ける。来年いなくなることを告げられてから螢の顔がまともに見られなかったので久々に螢と目が合った気がした。
「それと、こんなことになってごめんなさいね」
「いえ、螢さんが悪いわけではありませんから……」
雰囲気を悪くしているのは自分だとわかっていた。まるで不貞腐れた子供のようだと思った。一番辛いのは螢であるはずなのに、その螢が一番現実を受け入れている。
「私、同室がちーちゃんでよかった。後輩がちーちゃんでよかった。今日、一緒にいてくれる人がちーちゃんでよかった」
「螢さん……」
「今日は本当に嬉しかった。今までで一番よ」
「私も……私もです」
「本当?」
「はい」
大きく頷く。螢と一緒にいられた時間はたしかに幸せだった。
螢がふっと相好を崩す。
「嬉しい。こんなことってない。私にとってだけじゃなくて、ちーちゃんにとっても一番だなんて、こんな贅沢なことってない」
笑顔のままくるりと回って、千代に背中を向ける。何かに耐えているような背中はわずかに震えているようにも見えた。数秒ののちに螢が大きく息を吐きだしたのが聞こえた。
「だから、もう一度だけ私から言わせて?」
こちらに振り向き、螢がゆっくりと告げる。
「ありがとう、ちーちゃん」
とびきりの笑顔を見せてくれた。それも千代にだけ向けられた千代が独り占めできる笑顔だ。これが最後でなければ、どれほど心が躍ったことか。螢の笑顔に千代も微笑み返すことができたのか、わからなかった。
*
春になり、螢は女高師を去った。
彼女のいなくなったベッドは新しく同室となった後輩が使っている。
夜になると千代はひっそり柿本人麿(かきのもとのひとまろ)の歌を思い出す。だがそれは誰にも秘密なのであった。
或る耶蘇降誕祭の日に はるはる @haru-haru77
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