第2話
放課後。寮に戻った千代は自分の部屋の扉の前で躊躇していた。
螢は先に帰ってきているだろうか? それとも自分が待つことになるだろうか。普段から考えるとその可能性は五分五分といったところである。
……いつまでも扉の前にいるわけにもいかない。
息を小さく吐き出し、意を決して扉を押した。ぎぃ、と扉が軋む音がいつもより大きく聞こえる。
「おかえりなさい、ちーちゃん」
先に部屋に帰っていたらしい螢が春の陽気のような朗らかな微笑みを向けてくれた。
部屋を見渡すとどうやらまだ螢しか帰ってきていないらしい。(見なくても後輩二人がいるとうるさいのですぐにわかるのだが)幸子だけでなく、天も千代に螢を誘えと言わんばかりの絶好機である。
(いや……)
と、千代は首を小さく横に振る。
あの幸子のことだ。何か理由を付けて足止めをしてくれているのかもしれない。世話焼きな級友に苦笑いを浮かべていると、不思議に思ったのか螢が首をかしげた。
「……どうかしたの?」
「あ、えっと……」
「もしかして体調が優れないの?」
心配そうに眉をひそめながら、ゆっくりと立ち上がった螢がこちらへ歩いて来る。表情が本当に案じているものだったので、千代は慌てて否定した。
「そういうわけではなくて、えっと……」
「なぁに?」
言葉に詰まってしまう千代を急かすことなく、微笑のまま待ってくれる。その綺麗な瞳に吸い込まれそうだった。
呼吸を整えて気持ちも整える。螢は待ってくれるけれど、時間はいつまでも待ってくれない。いつ後輩二人が戻って来てもおかしくないのだ。今を逃せば自分は絶対に誘うことはできないだろう。千代は自分の意気地のなさ、臆病さを自覚していた。
故に覚悟を決めるしかない。
息の吸い方も忘れてしまいそうになりながら、無理矢理に喉の奥から言葉を絞り出す。
「その、今週の日曜日なのですが」
「日曜日?」
「お時間ありますか?」
「え?」
少し驚いたように螢の目が大きくなった。
「すみません、突然ご迷惑でしたよね……」
「待って、違うの。そうじゃないわ」
首を横に振り、螢はそっと千代の右手を両手で包み込むようにしてとった。ふわり、とまるで春の訪れを告げるかのような笑みを見せる。
「嬉しい」
その微笑みにそれまで抱えていた不安や緊張感がまるで雪解けのようになくなっていくようだった。
「ほ、本当ですか?」
「嘘なんて吐かない。本当よ」
くすりと笑んで螢の手のひらがゆっくり離れる。それを残り惜しく眺めていると、「んー」と何かを思い出すような考えるような螢の声が聞こえた。慌てて視線を戻す。
「こうやってちーちゃんが私を誘ってくれるなんて初めてじゃない?」
「そう、でしたかね」
そう答えつつも、その通りだと内心ではわかっていた。
螢とは何度かともに出かけたことがあるが、それらは全て螢から声を掛けられて同伴したものだ。偶然、同室だったから起きた出来事で、別に千代である必要はなかった。しかし、今は、来週の日曜日は違う。
「来週の日曜日。楽しみにしてるわね」
ふふんと上機嫌に鼻歌交じりの螢を見、千代は心の中でお節介な級友に感謝を述べるのだった。
*
次の日。
朝は相変わらずの寒さだというのに心の裡にはほんのりと温かなものが感じられた。それが何であるかは考えずともわかる。その温かなものを授けた張本人である螢と廊下で別れて、千代は自分の教室へと向かった。
教室へやってくると、すでにやって来ていた幸子がほかの生徒とのおしゃべりを中断してすぐさま昨日の成果を聞いてくる。
「千代ちゃん、どうだった?」
「……うん」
弾んでいる心とは裏腹に随分と控えめな肯定になってしまったが、幸子には十分だったらしい。にやり、と笑みを浮かべた。
「よかったね!」
「うん、ありがとう。幸子」
「いいよいいよ。私は何もしてないよ」
誰がどう見ても幸子のおかげだと千代自身ですら思う。幸子がいなければ、約束を取り付けることはおろか、誘うことすらできなかっただろう。それなのに千代の力で成しえたように花を添えてくれるのは幸子のいいところだと千代は思った。
「そうだ。渡したいものがあるから、放課後私に部屋に一度来てくれない?」
「いいけど」
「デートに使えそうな、いいものがあるの」
「いいもの……?」
「けっこう高価なんだからね」
正直、嫌な予感しかしない。丁重にお断りしたい。
とはいえ、幸子に背中を押されたからこそ取り付けられた約束である。幸子にとってはその応援の延長のつもりだろうし、その心遣いを無碍にするわけにもいくまい。
それも万が一にも本当に『いいもの』である可能性だってある。螢と出かける約束したはいいものの、どうやって過ごすかはまだ悩んでいた。もしかすると、その助けになるかもしれない。
「う、うん」
上手く笑顔を作れたのか不安だが、千代は頷くことしかできなかった。
*
「さ、入って入って」
「お邪魔します」
幸子に促され、幸子の部屋に入る。同室の先輩がいたらどうしようかと思ったが部屋には誰の姿もない。先輩も後輩もまだ戻って来ていないようだった。
少し待っていてね、と言うと幸子はベッドの下から
「これ、何……?」
「開けてみて」
怪しげな包み紙を恐る恐る開くと真っ黒な粉末状のものが入っていた。
「炭?」
「半分くらい正解。でも、ただの炭じゃないよ」
「もしかして黒焼き?」
「そ、イモリの黒焼きよ」
「えっ」
イモリの黒焼きは巷で惚れ薬として噂高い代物であった。
耶蘇教は同性婚や同性愛を認めていないのではなかったのか。と考えて首を振る。幸子の心配をしている場合ではない。自分は別に螢と結婚したいわけではないのだ。
「い、いらない」
「だーめ。もうあげたものだから」
「そんな」
包み紙を摘まんだ右手をぐいっと押し戻される。案外、力が強い。
「私だって別に螢さまの飲み物に混ぜろなんて思ってないよ。感謝を伝えるんだよね」
「だったら」
「でも、お守りくらいにはなるかなって」
「幸子ちゃん……」
これほどまでに親身になってくれる友人に胸が熱くなる。螢という先輩だけではなく、幸子という同級生にも恵まれて自分は前世でどれほどの徳を積んでいたのだろう。
「あ、でも」
幸子がいたずらっぽく目を細める。
「気が変わったなら飲み物に混入しても私も怒らないよ?」
「そんなことしないよ!」
「冗談だよ」
「もう……幸子ちゃんって本当に耶蘇教徒なの?」
「失礼な。本当ですよ」
腰に手を当てて怒っているフリをする幸子に思わず笑みがこぼれてしまう。千代につられたように幸子も表情を崩し、しばし二人で小さく笑いあった。
「……ありがとう、幸子ちゃん」
「ううん。友達だもん」
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