或る耶蘇降誕祭の日に
はるはる
第1話
明治二十三年も残すところ十日余りとなった。
師走と呼ばれる故だろうか。東京の街並みを行き交う人や
神田に構えられた西洋建築の二階建ての建物——
まもなく二学年に進級する千代にとって
「——デートに誘ってみたらどうかしら」
隣を歩いていた級友の
あまりに突飛な言葉に千代は思わず足を止める。合わせるように幸子も立ち止まり、こちらに振り向いた。その表情はふふん、と何故か名案を思いついたかのようなしたり顔である。
「何、急に」
「うん? だからデートよ、デート」
「でえと?」
「あ、デートって言うのは」
「いや、それはわかるんだけど……」
デート。つまるところ
意味くらいは千代もわかっている。わからないのは幸子の意図だ。昼食の席を同じにしたときから教室へ戻る今に至るまで難しい顔をして、うんうんと何やら考え事をしていると思ったら、ずっとそんなことを考えていたらしい。
「ほら、もうすぐクリスマスでしょう?」
「なにそれ」
「あ、日本風に言うと
日本風、と日本人である幸子が口にした違和感に苦笑を浮かべるも、すぐに幸子が洗礼を受けていたのを思い出した。耶蘇とはイエスのことである。
「西洋では家族や大切な人と過ごす日なの」
「そうなんだ」
行こ? と幸子に促され千代は隣に並んで再び歩き出した。
「その日は丁度日曜日だし、私は実家に帰省するつもり。でも、千代ちゃんは戻らないんでしょう?」
「それは、まぁ……」
高女師に入学するにあたり、女に学問などいらないと言う父と大喧嘩をした経緯がある。兄は好きなようにしたらいいと許してくれたが半ば家を飛び出した格好だ。故に入学して以降、週末の度に実家へ戻る生徒もいるなか、千代は夏期休暇も年末年始の休暇も寮で過ごした。
「だからね、
「いやいや、螢さんて」
千代は反射的に首を横に振った。
螢さん、とは千代の二つ上の先輩である
千代の――いや、この学校に通う全生徒の憧れの的と言っても過言ではない生徒である。学年の首席であり、尚且つ人当たりが良く、人好きのする笑みを絶やさず湛えており、教諭たちからの信用も厚い。そして何よりも恐ろしく顔が整っていた。
千代は運が良いことに螢と同室である。寮は四人一部屋なので二人きりと言うわけではなく、
故に千代自身も人生の運を全て果たしてしまったのではないかと時たま本気で考えることがままあった。
「螢さまも年末年始は戻られるかもしれないけど、普段はあまり戻られていないみたいだし、今週は寮で過ごされるんでしょう?」
「たぶん」
答えつつも千代は螢が寮に残ることを知っていた。螢は実家に帰省するとき、いつも事前に教えてくれる。それだけでなく頑なに帰省しない千代のために毎度土産を渡してくれていた。
「だったら丁度いいじゃない。せっかくだし、お誘いして一緒にどこかお出かけでもしたら?」
「いやいやいや」
「螢さまとお出かけしたくないの?」
「そういうわけじゃないけど……」
幸子に尋ねられて返答の言葉に詰まる。
千代とて螢と出かけられるのなら出かけたい。それもクリスマスは耶蘇教徒にとって大切な日だと言うではないか。洗礼を受けていなくとも、そのような日に一緒にいられたならばとても嬉しい。だが。
「お休みの日にお誘いをして迷惑じゃないかな」
俯き加減で千代がつぶやくと幸子は呆れたように息を吐き出した。
「あのねぇ……お休みの日だからお誘いするんじゃない。それに迷惑かどうか決めるのは螢さまなんだから、ここで千代ちゃんが考えてもしようがないことでしょう?」
まるで幼子を諭す母親のように正論を言われてしまい何も返せなくなる。たしかに休日でなければお誘いはできないし、螢の気持ちを勝手に想像して案じていても仕方がない。
「……千代ちゃん。螢さまはもう三年生で来年は四年生になるのよ? きっと忙しくてお出かけなんてできないと思う。そして卒業したら、それこそ出かけるどころか会うこともできないかもしれないのよ」
「それは……」
千代も薄々は気が付いていたことだったが、はっきり告げられるとじんわりと染み入るようだった。
師範学校生は学費やその他必要な費用を国から出してもらっているので、その恩に報いらねばならない。世間では欧化政策が急速に進められており、その一環として女子の高等教育も行われているのだが、未だに反対する声や懐疑的な声は多い。千代たちはただの女学生ではないのだ。
「千代ちゃん、螢さまに日頃の感謝を伝えたいって前から言っていたじゃない」
「……うん」
今の自分があるのは螢のおかげだ。
課題の相談はもちろん、将来の不安を話したこともある。千代が感冒(かんぼう)に罹った時はただ看病をしてくれただけでなく、千代の級友を尋ねてノートを借り、その日の授業の板書をノートに写して千代に渡してくれた。螢をきっかけに仲良くなった級友たちもいる。
それに。大変身勝手な我儘で身に余ると自覚しているが、ただの後輩で終わりたくない。少しで良いから螢の記憶に残る、ほんのちょっぴり特別な後輩くらいにはなりたいと思っていた。
「ここを逃したら、もうないかもしれない。それに他の人が先に約束しちゃうかもしれないよ」
その可能性は大いにあった。休日の前日になると約束を取り付けようとする人たちに囲まれている螢をよく見かけていた。あくまでも千代は遠くから見ているだけだが。
「とにかく。今日、寮に戻ったらすぐに誘うこと」
「で、でも」
「観念しなさい。あ、それじゃあ、私が代わりに約束を取り付けてあげようか?」
自分の顔を人差し指で示しながら笑みを浮かべる幸子は本気なのか冗談のつもりなのか読み取れない。いや、幸子ならば何の躊躇もなく行動に移すだろう。この一年間、級友として接してきた経験から、彼女の性格からどのような行動を取るのか、想像するに難くなかった。
「ま、待って、さすがにそれは」
「それなら、自分でする?」
改めて優しい声音で尋ねられる。
考える余地はなかった。
螢が日曜の外出を了承してくれたとしても、断られたとしても、いずれにしても幸子に代わりに誘ってもらうのは違う気がした。どのような結果になるとしても自分で言わなければならないだろう。幸子も含めて三人で出かけるのであればまだしも、千代と螢のことを幸子に頼りきりなのは恰好が悪すぎる。それでは思いは伝わらないだろうし、そんな人間と一緒に出かけたいと思わないだろう。
「……わかった」
ようやく千代が首を縦に振ると、よし、と幸子は機嫌よく笑みを浮かべた。
「寮に戻ったら、すぐに言うんだよ?」
んふふ、と楽しげに念を押してくる幸子に、千代は少し早口になりながら返す。
「わ、わかってるって」
千代が幸子の性格をなんとなく理解しているのと同じように幸子も千代の性格をなんとなく理解しているが故の念押しであった。
「それならいいんだけど」
「……うん」
思わず足を止めてしまっていた千代は「行こ」と再び幸子に促されて教室へと歩き出した。
(お、お誘い……私から……)
まだ放課後でないというのにすでに心臓の音が大きい。指の先がそわそわし、落ち着かない。
午後からの授業が手につかなかったのは言うまでもないことだった。
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