最終話 親友

 翌日、勤務時間中にわたしのバッグが荒らされていた。なにかを盗られたようではなかったが、ずいぶんと荒らされていた。


 警察に言うべきかとも考えたが、スミレのことが浮かんで思いとどまった。


 詳しく調べられたらわたしとスミレとでやってきたことが公になってしまう。それはダメだ。


 ただスミレにこの状況だけは伝えておいたほうが良さそうだ。この前喧嘩別れをしたっきりどちらからも一切連絡していない。わたしは哀しく荒らされた自分のバッグから携帯を取り出した。

そして心からぞっとした。


 携帯のデータが消されている。アドレスが全部。メールが全部。

 パスワードで保護していたのに、どうやったのだろう。時子の言葉が脳裏によみがえった。


『手段はいろいろある』


 ただ盗まれるほうがまだましだった。自分が出会い、積み重ねてきたことを全部否定されたのだ。時子に。


 わたしが暗記していた番号など、実家だけだ。


 保育園のパソコンで、結婚相談所の電話番号を調べた。スミレは休みだった。電話に出た女性に彼女の連絡先を教えてくれるよう頼んだが、それはできないと言われた。


「どうして。相談したいことがあるんです」

「社員の個人情報を教えるわけにはいきません。事務所を通して連絡を取るようにしてください」


「元々友達なんですよわたしたち。アドレスを、その、無くしてしまって」

「お困りなのだとは思いますが、教えられません。うちはどうしてもお客様が感情的になられる場面というものがありますから、そこは特に厳しくさせていただいております。それに早川さまはもう相談所を退会されているはずですが」


「え?」

 何を言っているのだろう。


「だってわたし」

 言いかけてわたしは思いとどまった。電話を切ってしばらくぼおっとしていた。


 仕事の帰りに綿貫さんのマンションを訪ねた。出張先の中国からは、あと数日戻らない。


 郵便受けにメモを残しておいた。誰にも邪魔されずに本人に届くといいのだが。誰にも邪魔されずに。


 自分のアパートに戻り、ベランダでたばこを吸った。こうしていても誰かに見られているようで気分が落ち着かず。タバコを途中でやめて部屋の中に戻った。


 青い毛むくじゃらのぬいぐるみがじっとわたしを見つめていた。

 あの男とゲーセンにいったとき手に入れたもの。


 その青い物体に何も罪はなかったが、一緒の部屋にいることに耐えられず、アパートの横にあるゴミ捨て場に袋に包んで捨てた。


 部屋に戻り、これからのことを考えた。近々わたしの身に何かが起こるかもしれない。世間からわたしがどんなふうに言われようとも、文句の言える立場ではなかったが、残された人々には何とか事実を伝えたい。わたしはこういう酷いことをしましたと正確に知ってもらいたい。美化されようとは思わない。

 怖かったけど、何をすべきかは分かっていた。


 次の日の朝、部屋に飾られた『日の出』をじっと見つめた。いつもよりも少しだけ長めに。


 そして出勤する前にスミレのマンションを訪ねた。呼び鈴を押してドアが開くまでは時間があった。


「おはよう、スミレ」

 わたしは明るく振る舞った。化粧前のスミレは半分開いたドアの向こうで、なんだこいつという顔でわたしを見た。


「久しぶり。何、どうした。こんな時間に」

「ちょっとあずかって欲しいものがあってね。これ」


 わたしはオレンジ色の日記帳をスミレに手渡した。


「これをどうするかはあなたに任せる。ごめんね、時間ないよね。夜に会って話せるかな?」

「話すことなんかわたしにはないよ」


「あなたにも関係あるんだから聞くだけ聞いてよ。ちょっと付きまとわれてんのよ。多分ほら、あの」

 黒い指輪の男のことを話すと、スミレの顔が曇った。


「分かった。明日の夜ならば時間を取れる。あいつはまだうちの会員だから連絡取ってみる」

「刺激しないようにね」


「もちろん」

 頼りになる友。


「スミレ、わたしは首になっちゃったんだね」

「ああ。相談所の会員ね。その通り。あとは朔の好きなようにしな。わたしはもう知らん」


「わたし、秋平さんとくっついちゃうよ?」


「知らんと言っているでしょ。どうせ上手くいかないよ、あんたなんて」

 スミレは面白くなさそうに吐き捨てた。


「ふふ」

「何がおかしい」


「今日も一日、お互いがんばろう」

「言われなくともいっぱいいっぱいやってるよ。じゃあな」


「またね」


 扉はぶっきらぼうに閉じられた。


 スミレはわたしを退会扱いにした。それが何を意味するか。

 秋平さんとわたしが婚約すれば、最後に大きな金額の婚約成立料を男性のほうから支払われる仕組みになっていた。でもわたしが退会してしまった以上その義務はない。

 ただし成立料が惜しいために結婚相談所には婚約に至りませんでしたと報告して、こっそりと結婚してしまった場合、スミレたちは世界の果てまででも追いかけてきて、きっちりともらうものをもらうのが掟だ。


 金銭的に大損になってしまうというのに、スミレはわたしを見逃してくれたのだ。


 わたしは自分の車に戻ってエンジンをかけた。

 


 保育園に向かって車を走らせながら、わたしは遠い昔のことを思い出していた。


 わたしとスミレは高校三年生。場所は北海道旭川。


 ひどい天気だったよね。スミレ。


 女子スラローム競技は二本ずつ滑って合計タイムで競う。一本目が終了した時点で、一位二位は福島県の代表だった。三位以下を一秒も突き放していた。


 一位片桐スミレ。

 二位早川朔。


 タイム差は、〇.〇六秒。差のうちに入らない。

 つまりは二本目で勝ったほうが日本一だ。


 二本目の滑走はタイム順だ。わたしが最後から二番目、しんがりにスミレがリフトに乗り込む。


 わたしたちを照らした光の筋の美しさを、あなたもきっと覚えているでしょう?


 重たい雲の切れ間から一瞬太陽の光が差し込んで、わたしとスミレをライトアップしてくれた。


 観客の誰もがわたしとあなたを見上げた。

 ほら見てごらん。天を目指して二人が征く。


 先を行くわたしは、ただ空を見つめていた。技術的なことはすでに十分考えたので、少しの間だけ頭をからっぽにしたかった。


 後ろのスミレの様子は見なくても分かる。あの子は一秒たりとも隙を作ることなくスキーのことばかりのめり込んで考え続ける。二十四時間。三六五日。そうやってここまで来た選手だ。


 下を見ればほかの競技者が順番に滑り始めていて、きっとスミレはその様子を張りつめた眼差しで穴があくほど観察しているのだろう。


 スキーのエッジがリズミカルに刻む音を意識の端で聞きながら、太陽が雲に隠されていく様子を眺めていた。


 ターンの音が乱れた。ずざざーという耳障りな音の後に、下のほうからため息が耳に届いた。わたしは仕方なしに足元のコースへ目をやった。


 転倒。

 またあの場所だ。


 よそ見していても必要な情報はちゃんと察知していた。あの場所だけで三人が転んでいる。


 ポールの設定が確かに一本目よりもシビアだ。転倒者が出れば出るほど、雪面は滑りづらい形に削られてますます難易度が上がっていく。


 わたしが振り返ると、ほらやっぱり、スミレがリフトから身を乗り出して、今にも落っこちるのではないかという姿勢で問題の箇所を凝視していた。わたしの視線に気づくとスミレはきっと睨んできた。


 わたしのタヌキ顔ではたいした迫力にはならないのだが、それでも彼女ににらみを返した。おかげで良い感じに気合が入った。


 スタート位置にわたしが立ったとき、天候は張り切って荒れ狂っていた。ここまできて中止にはしないけども、視界が悪いと面倒なのは確かだ。


 スタートを許可するブザーが鳴るのをわたしは待った。


 この長くて短い時間。人によってはやたらせわしなく体を動かすけれども、わたしはただ立ち尽くしてバーンを見つめていた。


 ゴール付近にたくさんいる観客の姿は、遠くに何となくでしか見えない。あのなかには北野くんがいるはずだ。それから会津から両親とそれから弟のはじめが、高校最後の大会だということではるばる見に来てくれている。


 そしてあの子たちも見てる。


「ちょっと」

 そのとき後ろから声をかけられた。


 振り返ると、次に滑走を待つスミレがいた。

「何?」

「バックルが外れてるよ、左足」


 足元を確認すると、本当だった。ブーツの金具、しかも一番大事な上から二番目がぷらんと外れていた。


 わたしはしゃがんであわててそれを直した。どうにか間に合った。

 そしてブザーがなった。


 わたしは胸の中の空気を全て押し出すように大きく息をついた。

 それから両の板を高々と舞い上げて、コースへと飛び出した。


 わたしは最初のポールのさばき方がとてもへたくそだ。そこでリズムに乗り損ねると、最後まで消化不良でずるずる行ってしまうことがよくあった。


 でも上手くいった。加速してそこから体重を乗せて傾ける、ターンに入ったその角度がとても良かった。あまりに理想的で、自分で自分のことを(うわ、かっこいい!)と思った。


 あとはただ、自分のイメージを追いかける。完璧な自分の滑りがわたしにははっきり見えていた。命を捧げて、長い時を費やし滑りつづけて、たどり着いた領域。


 ポールが体にかする。足の振動もエッジの音も、実際に体験する前にわたしは感じ取れていた。


 音がだんだんと消えていく。もう視界の悪さなど関係ない。


 風を突き抜けながら、紙ほどの薄さしかない向こうにいる完璧な自分を必死に追って滑った。


 そしてついに抜き去る。


 自分のイメージすらも抜き去って、その向こうの景色をほんの一瞬だけわたしは目にした。最後に渾身の力でストックを突いてゴールに飛び込んだ。


 勝った。

 タイムなど分からない。どうでもいい。


 ただ一つ確かなことは。

 わたしは、わたしに勝ったのだ。


 大きな歓声を浴びていることに気づくまでしばらくかかった。

 思い出したように電光掲示板を見上げて、自分のタイムの横に、トップに立ったことを示す表示があることを確認した。


 これで二位以上が確定。

 

 スミレはまだ滑りだしてはいなかった。

 係員が何かを確認して旗を振っているのが見えた。


 スミレは後にわたしに語った。


 わたしのタイムはスタート地点でも表示されていて、その圧倒的な記録に辺りの者たちはざわめいたという。


「デリカシーのない連中だよね。わたしがこれから滑るって時にさ。でもね朔、あんたのたたき出した数字をまぶしく見上げた、あのときこそがわたしの人生において一番幸福な瞬間だったかもしれない」


 そしてスミレは挑む。

 いい滑りをしていた。彼女はよく体が動いていた。自分のタイムは我ながら素晴らしいものだったが、途中のチェックポイントでまったく差がついていないことに驚いた。


 彼女もまた生涯最高といっていい滑りで、滑り終わった選手たちが溜まっているテントの中から板を脱いだわたしは見惚れていた。


 自分にできることを全て終えてしまったわたしは、スミレに向かってゆっくりと歩きながら彼女を見つめた。


 スミレはわたしのブーツのことを教えてくれた。

 直さずに滑り出していたら、バランスの狂いをすぐに気づいたろう。ベストの滑りはできなかった。


 彼女の行いは星のように正直でシンプルだった。

 それはわたしがあの中学一年の冬にできなかったことだ。


「スミレ、スミレ」


 さっきリフトからコースを見ていた時、二人とも気づいた難所があった。

 わたしは、そういえばあれはどこに行ったんだろうというくらい、いざレースになったら、そんなもの無心で滑りぬけてしまっていた。自分の理想を追いかけるのにいっぱいでそれどころではなかったのだ。


 でも彼女はその場所で慎重になった。ほんのわずか流れが澱んでしまった。


 わたしが「あっ」と小さく声を上げたとき、スミレの体は宙に浮かんでいた。彼女は無理やり体をひねって立て直そうとした。気迫をこめて彼女は何かを叫んだ。


 しかし甲斐なく、ひどい姿勢で雪面に叩き付けられた。


 板が二本とも外れ、ゴーグルも吹っ飛んだ。

 三十メートル近くスミレの体は滑落してようやく止まった。


 わたしが日本一になった瞬間だった。


 わたしを呼ぶ声がした。誰かは分からない。顧問の先生ではなかったような気がする。両親でもはじめでも、北野くんでもなかった。


 わたしは緊張が解けて、けれども状況の変化に精神がまるでついていけずにいた。

 スミレは空を見ていた。静かな眼差しで。


 係員が事務的に彼女に近づいていった。わたしはたくさんの人に囲まれながら、祝福の言葉を浴びながら、スミレのことを見ていた。わたしが倒した一人の女性を見ていた。


 スミレは動けない。自分の左足がどうなってしまったのか、彼女には分かっていた。靭帯と半月板がずたずたになっていた。鍛えぬいてきた宝物のようなスミレの足は、木っ端みじんになってしまっていた。


 彼女はこれっきり二度とスキーはできなくなる。


 重い雲に覆われた空を見飽きたかのように、スミレはたどり着けなかったゴールの方へと顔を向けた。


 わたしと目があった。どう振る舞えばいいのか分からず、わたしはただ彼女を見ていた。

 スミレもわたしを見ていた。


 一生忘れない。

 彼女は笑った。足は激痛に襲われていただろうに。


 そしてつぶやいた。わたしに向けて言葉を送った。遠く離れていたが口の動きでわかった。

 「おめでとう」と。


 これが理由だ。


 彼女がこのときわたしに言ってくれた『おめでとう』こそが、わたしがスミレという人間を信じつづけた理由であり、わたしがどうにか生きることのできた理由だ。


 陽ならば沈みもしよう。月ならば欠けもしよう。でもこの事実はなにがあろうともひとつも変わることなく、天の一番高いところからわたしのことを照らし続ける。同じ形で、たぶん永遠に。


 昨日の夜も日記を書いた。途中まではわたしが巻き込まれたこの奇妙な事柄の、まだ書き残していた部分について書いた。でもそのうちに全然関係ないことを書き連ねだした。誰に向けたものなのかも分からない。思いをまき散らすような文章を長々と書いた。


 きっとその必要があった。


 そして彼女にオレンジ色の日記を渡すのが正しいのだ。




 今日もわたしは働く。ちっちゃな園児たちをつれてお散歩に出かける。おそろいの帽子。緑色の蛙の形をした帽子をかぶり、子供たちはわたしの後を二列になって行進する。


 わたしが歌えば子供たちも歌う。

 わたしが笑えば子供たちも笑う。


 夏の太陽がまぶしく郡山の町を照らす。


 気を抜くと歩道からはみ出してしまいそうになるわんぱくな子供たち。道行くおばあちゃんが手を振った。わたしたちは元気に力いっぱい手を振りかえす。


 いつも子供たちの瞳の奥を覗き込むときには、わたしはそこにずっと未来を見ていた。未来というとても不確かなものが彼らの中にはっきり在ることを確認するたびに、わたしは安らぐことができた。


「ろみお、ぱんだ、めまい、もやし」

 名前を呼びながら、わたしはあなたたちにおまじないをかける。


 寒いのが苦手な子は迷惑に思うかもしれないけども、どうか許してほしい。

 わたしのおまじないはこうだ。


『あなたたちの上に、綺麗な雪がたくさんたくさん降りますように』


 それは愛の言葉。



    〈完〉

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