第2話 甘くて、温かい

『好きだよ』


 何気ない日常の一幕。ありふれた会話の中で、俺は彼女に告白した。

 学校帰り、夕陽差す世界で、彼女はその光以上に頬を朱に染めていた。


 漏れ出た言葉を、俺は飲み込まなかった。

 ただじっと、彼女を見つめ続けた。

 足が止まって。

 後ろから近づいてきていた自転車が、俺の横を颯爽と走り抜けていった。


 セミとカラスと、自動車の音。

 そのすべてが世界からゆっくりと消えていく中、彼女はふらふらと視線をあちこちにさまよわせた。


 その目が、一つの老舗和菓子屋に泊まる。


 一個五百円。当時高校生だった俺たちには、手が伸びない値段をしていたそれに、彼女は救いを得たとばかりに飛びついた。


『あ、ああ!あんなところにいちご大福が!……た、食べない?』


 大根役者を地で行く彼女は、顔を一層リンゴのように赤くしながら、俺から顔をそらすように背中を向けて、けれど俺の袖を申し訳程度につかんで歩き出した。


 普段はからかってくる側だった彼女の照れたふるまいが愛おしくて、告白から逃げられたと気にすることさえなかった。


 ただ、目元を潤ませ、ちらちらとこちらの様子をうかがいながら小さな口で一個五百円、二個で十円引きの九百九十円のいちご大福をついばんでいた彼女がかわいくて。

 さすがは老舗というべきか、彼女は一口それを口にするだけで、告白から逃げた気まずさや恥ずかしさなんかをすべて忘れたように、目をキラキラと輝かせた。


 幸せそうに白い柔肌に口を近づける彼女の色香を、夕陽に輝く瞳のきらめきを、探るように、おずおずと触れてきた彼女のぬくもりを、震える声で、小さく、「うん」とつぶやいた彼女の声を、今でも覚えている。


 恋がかなった幸福感と達成感。和菓子屋の老婆の生温かい視線にさらされる気恥ずかしさ。


 それから、甘ったるくてけれど不思議と甘すぎないいちごの酸味とほんのり甘いあんこの味と匂いと食感を、今でも克明に思い出せる。






 運動不足、酒浸りだった体は、突然の運動にすぐさま悲鳴を上げた。

 一瞬で足が重くなり、肺は限界を叫び、汗がすぐさまにじみ出た。

 けれど、たとえ鉛のように重くなっても、その足が止まることはなかった。


 目指す場所は、ただ一か所。

 そしてくしくも今日は、彼女とあの甘くて酸っぱいひと時を過ごしたあの日だった。


 恋人記念日であり、結婚記念日でもある今日。

 俺はそこへ行かなければならなかった。

 あの日彼女とともに歩む、その始まりとなった場所へ。


 そこは、家から徒歩で十五分ほど。全力で走れば五分とかからない場所にある。商店街の端の和菓子屋だった。


 体が休憩を叫びながら、けれど俺の足は、最後の一歩を踏み出した。


 目を大きく見開いて、呆然とこちらを見つめている、妻のもとへ。


「おつりの十円だよ」


 だいぶ白髪が目立つようになった、けれどシャンと背中を張った見覚えのある老婆が、俺と、それから彼女を見てにやりと笑った。


 頑張りなよ、と口をパクパクと動かして、ぐっと親指を突き出した。

 なんだか、気が抜けてしまった。あの日も店主は、そんな動きをしていた。


 一歩、前へ。

 彼女が――妻が、一歩下がる。


「なん、で、あなたがここに……」


 その手には、ビニール袋。透けて見える中身は、淡い桜色の箱。それが何かは、考えるまでもなかった。


 恐怖はあった。

 彼女が買ったそれは、新しい誰かとともに味わうためのものかもしれないと。

 あの日の思い出さえ、彼女の記憶の中ではすでに過ぎ去った遠き過去になってしまっているのではないかと。


 ハッと手に持った荷物に気が付いた彼女が、慌ててビニール袋を中身ごと鞄の中にねじ込もうとする。


 その頬には、かつてと同じように夕陽のごとき赤色があった。


 言葉が詰まったのは、一瞬のこと。

 吸い込んだ吸気に満ちる甘くも酸っぱいあの香りが、俺を奮い立たせる。


「好きだ。君が好きだ。」


 するりと、口から言葉が出てきた。それから、気づいた。

 自分は、彼女に対してもうずっと思いを伝えていなかったことに。


 好きだった。隣にいてくれるだけで、胸に幸せが満ちた。おずおずと握られた手の熱から、早鐘を打つ鼓動から、彼女も同じように思ってくれているという確信がたまらなく幸せで。

 そんな熱に浮かされて、そんな熱に甘んじて、いつしか俺は、彼女に思いを伝えなくなっていた。


 言葉にしなければ、想いなんて伝わらない。万言を尽くしたって正確な気持ちが伝わるわけでもないのに、彼女はきっと理解してくれるなんて、そんな甘い妄想に浸っていた日々は、もうやめだ。


 この記念日にこの場所で、二個の――三個でも四個でも割引されない、お釣りの十円が必要となる二個の――いちご大福を購入した彼女の心に、まだ自分がいてくれと、そう願いながら。


 俺は言葉を重ねた。俺は思いを重ねた。


「遅いわよ、バカ。もう、三年も経ったのよ」


 突き放すような言葉を口にする彼女は、俺の知らない彼女だった。美しい濡れ羽色の長髪は肩上できれいに切りそろえられ、化粧も俺が知る甘い雰囲気から、理知的な大人のそれに代わっていた。


 カツカツと、見たこともないほど高いヒールを履いた彼女が、手を振り上げ。


 頬を張られ、体に衝撃が走った。


 胸元が、ゆっくりと濡れていく。温かい思いの結晶がシャツを濡らした。


「……遅いわよ、バカッ」


 もう一度、かすれた声で彼女が告げた。


 もう二度と離さないと、もう二度とすれ違わないと、誓った。

 その誓いを、言葉にした。






「……甘い」


「そういえばあなた、甘いものが苦手だったわね」


 夕陽を見つめながら、公園の小さなベンチで並んで、あの日と同じいちご大福を口にした。

 それは記憶の通り甘くてほんのり酸っぱくて、そしてなぜか、少しだけ苦いように感じた。


 いちご大福は、俺と彼女をつなぐ絆の一つだ。

 甘味に目がない彼女と、甘味が苦手な俺が、数少ない意見を同じくする、絆の一つだ。


 そう、絆の、一つなのだ。

 二人で歩む日々が、時間が、積み重なった思いが、俺と彼女を、他の誰も出ない二人の絆となっていく。

 だからだろうか、心が温かく感じられるのは。


 暗い部屋に、新たな明かりが差し込んだように。

 よどんだ空気が吐き出されるように、開け放たれた窓から晩夏の風が屋内を通り抜けていったように。


 止まっていた時間が、日々が、動き出す。


 何一つ変わらない部屋で、けれど時間は進んでいく。

 これから何が待ち受けているのかなんて何一つわかりはしないけれど。

 それでもきっと、これだけは間違いない。


 俺たちはきっと、記念日はいつだって甘くて、けれど程よい酸味のきいた、あの白くて赤い大福を口にするんだ。


 それは今日も、忘れかけた恋の味を思い出させてくれる。

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いちご大福が紡ぐ 雨足怜 @Amaashi

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