お互いの在庫リスク

浅賀ソルト

お互いの在庫リスク

母からスマホに連絡が来た。とにかく塩を買っておいてという内容だった。

「塩? あの塩?」

「いいから買っておいて。多ければ多いほどいい。質問はいいから」

問答無用で買えってことか。多ければ多いほどって、塩なんて買おうと思えばいくらでも買えるから、そのあたりは現実的な量にしておこう。よく分からん。

と思ったらスマホにトレンドが上がっていて、日本が放射能汚染水を海洋放出したとかで、海が汚染されるというニュースが流れてきた。海が汚染されれば塩や魚も危ない。

母が言ってたのはこれか。こんな風にニュースになっているということは既に争奪戦になっているだろう。俺は身支度をしてでかいリュックを背負うと玄関に向かった。

それからキロ単位で塩を買うならリュックじゃないなと気づいた。車輪付きのカートのようなものがいいだろう。

俺は部屋に戻り、リュックを床に置いた。重いものを買ったときのためのカートがどこかにあったはずだ。俺はあまり使わない道具を放り込んでいるクローゼット下のダンボールを引っ張り出した。カートはその段ボールの陰に立ててあった。埃を被っている。

折り畳んであるカートを出すと、手摺りを伸ばし台を広げて調子を見た。まあまあ使えそうだ。荷を括り付けるためのゴムロープも巻き付けてあったが、塩のようなものをゴムで縛っても固定にならないだろう。頑丈なロープの類で縛るしかないはずだ。

しかし塩ってせいぜい1kgとかじゃないのか? 5kgとか10kgとか、米のように売っているところを見たことがない。やはりリュックで買った方が身軽では?

うーん。

俺は何で貰ったのかよく覚えていない紐とロープを両方見つけた。紐はプレゼントを包装するときにような細いもので、ロープは荷運びに使った記憶がある太くて頑丈なものだ。俺はその両方をリュックに入れて財布とスマホを持ち、カートを引きずりつつ一人暮らしのアパートを出た。電話を受け取ってから30分以上が経過していた。塩を確保しろと言われてはいたが、その辺のスーパーで適当に1kgを10個も買えばいいだろうとのんびり思っていた。塩なんて1年で1kgも使わないと思うが、こういうときは過剰に仕入れて喜ばせた方がいい。

アパートは5階なので俺はそこから階段でえっちらと下りて通りに出た。そこからテクテクと近くのスーパーに向かう。スーパーに行くだけなのにカートとか。さすがに変だと思ったが、まとめ買いする人は見かけた気がするから、そこまで変でもないか。

スーパーに行く途中にコンビニがあった。コンビニでも塩って売ってた気がするなと思い、ちょっと入ってみた。

あまり覗いたことのない調味料やスパイスのある棚に向かう。

遠くからでも異常に気がついた。棚の一箇所がぽっかり空いている。そこだけスッパリ商品が消えて棚の白く塗られた地が見えた。普段のコンビニではあまり目にすることのない部分だ。

安物の袋の塩だけでなく、丸い筒に入った高級なヨーロッパの岩塩のようなものまで全部消えていた。隣の砂糖がまったく手付かずなのが不気味だ。

これはスーパーに行っても無駄では?

俺はそう思ったがとりあえずコンビニを出てスーパーに向かった。駆け足になりそうだったが、あまり意味がないと思ったので焦るのは気持ちだけにしておいた。

スーパーの塩が売り切れていたときに、あとはどこに買いに行けばいいのかということを考えていた。

親にとにかく塩を買っておいてと言われたわけだが、この使命を果たすのはかなりの困難である可能性が出てきた。

自分が向かっているのは近所の小さいスーパーだが、車やバイクでの移動圏内にカルフールがある。あそこはでかいからまだ塩も在庫があるだろう。

……いやいや。この状況でのんびりしすぎでは? カルフールにも無い可能性があるぞ。問屋の場所など知らないし、あとは、知り合いで先に買占めていそうな奴に連絡を取って売ってもらうしかないか?

通りを歩いていくとそろそろスーパーかという所で通りに人が5~6人いて、路駐の車に塩の袋を積み込んでいるところだった。全員が若い男である。一人だけ服装で羽振りが良いと分かる男がいて、そいつが「これだけか?」とか「向こうのコンビニは見たか?」などと他のメンバーにボス風を吹かせていた。他の男たちは言い返すでもなく黙々と自分達の買ってきた塩の袋を車の後ろに積んでいる。路上にはアウトドア用のごついバックパックが並んでいて、男たちはその中から塩の袋を取り出していた。空になったバックパックを背負ってある一人の男がまたその場を離れていった。

何かの買占め騒動が起こるたびに街で見かける連中だ。犯罪組織ではなくもっと小物の集団である。でかい組織はこんなちまちましたシノギはしない。

こんな連中が動いているということは自分の初動は遅すぎた。家でリュックがどうとかカートをのんびり引っ張り出している場合ではなかった。

俺は計画を変更した。

その男たちの方へと積極的に近づいていった。他の通行人は彼らに一瞥をくれるだけで関わりにならないように歩いている。その中で俺の動きは目立っていたのだろう。すぐにボスの男が俺に気づいた。

「何じろじろ見てんだ。それ以上近づくな」警告を言い慣れている感じだった。

「親に塩を買ってこいと頼まれたんだ。こんなことになっているとは知らなかった。金を払うから売ってくれないか?」別に降参しているわけではないので両手を上げて喋ったわけではないが、心情的には似たような気分だった。

男は話をすぐに理解した。躊躇もなく「10元だ」と言った。

男たちが仕入れているのは普通の350グラムとか400グラムの袋だ。普段は2元から3元である。

車のまわりにいる他の下っ端の男たちも手を止めてこっちの方を見ている。全員が揃いも揃って冴えない風貌だ。

「2元でどうだ?」

「ふざけんな。帰れ」

「じゃあ5元出そう」

「10元、それ以上はまからねえ」

「4元で5袋買う。全部で20元だ」

「25元だ」

「4袋でいい。それで20元払う」

「……ああ?」

俺の交渉が特殊だったんだろう。ボスの男はめんどくさそうな顔をした。

かなり高速でやりとりしたが、25元と言い出したときに、6袋で25元というのも考えた。しかし、量を増やしての交渉はしたくないと一瞬で考え直した。塩をそんなに仕入れてもしょうがない。おそらくこの品不足は一瞬で解消される。塩のような保存の効く品は一時期店頭から消えてもすぐに復活するだろう。あちこちに大量にあるはずで、独占できるような商品ではない。

俺の目的は、親に言われたから頑張って確保したよという既成事実があればいい。スピードが誠意だ。逆に言うと供給が安定した後日に手に入れても感謝されないだろう。言われてすぐに確保するいうのが大事なのだ。

ボスの男は冴えない風貌で頭も悪そうなのに、数秒で計算をしてきた。相手が一枚上手うわてだった。「親に言われたんだろう? 6袋で30元だ」

「そんなにはいらない。4袋20元でいいが、しょうがないから、最初に言ってた通りに1袋を10元で買うよ」この交渉は結果的には失敗だった。悪くない駆け引きをしたつもりだったが、俺は身の程知らずだった。馬鹿だった。

ボスはしばらく俺の顔を見ていた。実に冴えない顔だ。口元にも眉毛にも小物臭がすごい。この買占めも誰かの命令で動いているんだろう。

横の部下の方を見て顎をクイっと動かした。4人の男たちがゆっくりと俺を囲み始めた。

「いや、気が変わった。お前には何も売らねえ」

俺はぐるっと振り返るとカートを抱えて後ろへ駆け出した。

やる気のない部下たちは俺を追ってはこなかった。ボスの笑い声だけが俺の背中に浴びせられた。

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