第三十二話 怪しむ愛永
ダンテとの校閲を終え、昼休みにしようと応接室を出たところで、
「ダンテ先生、お疲れのところ申し訳ありません。先日のプロットについて詳しくお話を伺いたくて、迷惑でなければ、これから昼食をご一緒にいかがですか。ああ、もちろん経費で落とします」
思わぬ誘いだったが、ダンテは構いませんよと答える。
「部長、わたしは……」
「
部長は、答えを言いきらぬうちに、ダンテと共にエレベータに乗り込んだ。
閉まるエレベータの扉の奥に、笑顔で手を振るダンテが見えた。
さて、どうしたものかとエレベータホールに立ちつくす有江に、
「アリチャンひとり? 一緒にお昼食べに行こうか。ちょうど聞きたいこともあったのよ」
有江は、誘いに乗り、愛永と会社を出た。
愛永は、歩きながら、当たり障りのない天気の話や取材旅行に使うシュラフの話をしている。有江には、愛永がどこか上の空で話しているように感じた。
有江と愛永は、会社からそう遠くもない中華料理店に入る。
有江は五目チャーハン、愛永は上海風焼きそばを注文した。
「聞きたいことって……愛永さんは、最近考えごとが多いような気がしますが、その件ですか」
我慢しきれず、有江から話を切り出した。
「そう、考えていたの、ずっと。どうにも、わからないのよね」
愛永は、遠くを見るように顔を上げた。「野菜たっぷりタンメンもおいしそうね」と壁に貼ってあるメニューを見て言った。
「
「いや、もちろん彼女も怪しいのだけれど、別な人ね。もっと怪しい人がいるのよ」
「怪しい人? 誰でしょう」
有江には、見当もつかない。
愛永は、少しためらってから、名前を口にした。
「常磐道部長」
「そんなことが、あるのですか」
有江は、出てきた五目チャーハンを食べながら愛永に尋ねる。
「そもそも、出版業界のことをまるで知らないあの部長が、引き抜かれるのもおかしいと思わない。人脈の広さから受注が増えたと聞いていたから、昨日、一昨日と調べてみたら、たしかに社史や決算書の企業案件が激増しているのよ。でも、その社史には、神社の『社史』も相当数含まれていたの」
社史っていろいろな社史があるんだねとつぶやいて、愛永は湯気あがる上海焼きそばを頬張った。
「たしかに仕事ぶりはアレですけど、どうして常磐道部長が怪しいと思ったのですか」
「ダンテ先生が打ち合わせから戻ってきて、調世会や
それは、有江も憶えている。
「何かおかしなことを言っていますか」
「部長は、プロットの話をしていたはずなのに『ダンテ先生』が出てくるのは変だよね。ダンテ先生を主人公にするなんて誰も言っていないのに」
「ダンテさんが『神曲』を改稿しているから、当然、この作品もダンテさんが主人公だと思ったのではないですか」
さすがに愛永の考え過ぎだと有江は思った。
「それだけじゃないのよ。常磐道部長と船越川さんって、前からの知り合いだったのではないかとも思ったのよ」
愛永は、焼きそばを食べながら話を続ける。
「船越川さんが来社する日に、部長は、彼女が好きなケーキを用意するように言ったじゃない」
「それも偶然だと思いますよ」
「そうかな。彼女が来社したときのこと思い出してみて。何か不自然な会話はなかった?」
「そうですね……船越川さんが、エレベータから降りてきたとき、わたしより先に部長が声を掛けました」
「それ、給湯室から見てたわ。彼女はエレベータの振動と音に驚かなかったの。部長とは、何を話したの」
「部長から『お越しいただいてありがとうございます』とあいさつして、船越川さんは『押しかけたようで申し訳ありません』と言って自己紹介していました。愛永さんと打ち合わせたとおり、部長には取材協力で来社してもらっていると説明してあったので『押しかけて』は不自然だなとドキリとしました」
「部長は、不自然さに気がつかなかったのね」
「そうです。そのまま『梶沢出版の常磐道です』と自己紹介して、打つ合わせ室を案内して『ケーキを用意させます』と、それだけですね」
「彼女は、なんて言ったの」
「たしか『お構いなく』と普通の返答でした」
「部長と彼女との会話は、それだけだよね」
「そう、ですね。船越川さんが帰るとき、部長は不在にしていましたから、それだけです」
「私も見送りに顔を出したから知ってるわ『部長さんにもよろしくお伝えください』と言って帰ったのよね」
「はい」
「部長は、挨拶したときに名刺を出した?」
「いえ、渡していないと思います」
「そうかあ、部長が『部長』だと、なぜわかったのかな」
愛永は、薄目になって疑っている顔をしている。
「どこかでわたしが話したのかもしれませんし、愛永さんの考え過ぎだと思いますよ」
食事を終え、そうかなあと、なおも気になる愛永と中華料理店を出た。
「常磐道部長が、船越川さんと以前から知り合いだった、つまり、日本宗教調世会とつながっていたと考えると、ひとつのストーリーができるのよ」
会社に戻る間も、愛永は話し続けた。
「調世会は、ダンテ先生の『神曲』にまつわる『地獄の門』を調べたり、先生を調査員に雇ったりして、いかにも先生を軸にしていると思っていたのだけれど、部長が関係者だとすると、そうでもないことがわかるの」
「ダンテさんは、関係ないのですか」
「いや、今はダンテ先生に注目しているということかな。ダンテ先生が現れたのは、いつだった?」
「たしか、今年の一月二十四日の朝です」
いろいろあって、遠い昔のことのようだと有江は思った。
「西藤さんが亡くなったのは二千二十三年六月二日、立科町を調査していたのはその年の二月、東京のアパートに入居したのは二千二十二年六月、調世会に転職したのは二千十八年四月でしょ」
愛永は、手帳のメモを見ながら説明する。
「すべては、ダンテ先生が現れる前に起こっていたことなのよね。アリーは、今のアパートにいつ越してきたの?」
「就職してから探し始めたので二千二十二年の五月です」
なんのことかと不思議に思いながらも有江は答える。
「梶沢出版に入社したのが二千二十二年四月ね」
「そうです」
「常磐道部長が引き抜かれてきたのが二千二十二年三月。ダンテ先生抜きに考えると、誰かが軸になっていることに気がつかない?」
愛永は、ためらうことなくその名前を口にした。
「有江さん、あなたよ。調世会は、ダンテ先生が現れる前から、あなたの周りにいたのね。部長は同じ会社に、西藤さんは同じ街にいたのよ」
「そんなわけないです。第一、理由がありません」
有江は否定するが、愛永はそうは思っていない。
「理由はわかっていないだけで、きっとあるのよ。ダンテ先生が有江さんの前に現れたのも偶然とは思えない。西藤さんが住んでいたアパートにダンテ先生が入居したことでさえも、何かしらの力が働いたと思えるのよね」
梶沢出版ビルに着いた。
「なぜ調世会は有江さんのことを観ていたのか……」
エレベータがガタンと揺れた。
「その理由をずっと考えているの」
愛永は、先にエレベータを降りていった。
編集部に戻ると、有江の机上に「午後もダンテ先生と打ち合わせ 常磐道部長」という総務部からのメモが貼ってあった。
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