第十二話 地獄の門

 朝十時に駅前での待ち合わせとした。


 空は低く、風は冷たい。

 駅前のロータリーでは、風が枯葉を運び、ロータリー中央にある交番の隅で吹き溜まっている。

 土曜日の午前ともなれば、駅前は結構な人数が行き交っている。広場には募金活動をする男女の姿が見られた。

 有江ありえは、ダンテより先に着いたらしい。約束の駅前のベンチには誰も座っていなかった。


 有江が道路を見通せる歩道まで出たとき、ロータリーの向こうから歩いてくるダンテが見えた。ダンテは、白のポロシャツにカーキのズボン、朱色のベストにキャメルのハーフコートを着ている。また、自分で買い足したようだ。

 有江は、身分証明書のないダンテに、不審な行動をせず目立たない服装にするように言っている。警察官から職務質問でも受けようものなら一巻の終わりだ。ダンテも、一巻で終わりとは寂しすぎますと妙な納得の仕方をしている。

 そんなダンテが、交番前を通り過ぎようとしたとき、警察官が表に出てきた。

 有江がまずいと思ったときは、遅かった。

 警察官がダンテを呼び止める。

 ダンテは振り返った。


 そして、ダンテは、警察官とひと言ふた言話し、お辞儀をして交番を離れた。


「有江さん、おはようございます」

「お巡りさんと、な、何を話していたのですか」

「今日は、地獄の門をくぐってきますとお話ししました」

「顔見知りなのですか」

「ええ、下根田しもねだ巡査ですね。『下根田』という名前のせいで『下ネタ』が好きだろうとよく言われるそうですが、そのとおり嫌いではないそうです。二十六歳独身、趣味は映画鑑賞です。最近サブスクの月額料金が値上がりして財布に堪えているそうです。有江さん、どうですか」

「な、何を言っているのですか。ダンテさんが相当危ない立場であることは説明したはずです。気をつけてください。それに、地獄の門はくぐれませんよ」


 電車に乗って上野に向かった。

 途中、二回の乗り換えがあり、およそ一時間かかる。


 有江とダンテはベンチシートに並んで座った。

「昨夜、神曲リノベーション・地獄篇の第一歌をアップしました」

「反応ありましたか」

「一晩中、ページを見ていましたが、何もありませんでしたね」

「そうですよね、すぐにはないですよ。まだ三十三歌ありますから、気長にいきましょう」

「毎日、ページを見続けるのもツラいです」

「いや、見続けなくてもだいじょうぶですから……ずっと気にしていると精神的に参っていまいますから、気をつけてください」

 有江は、SNSの数字に囚われてしまう人たちが、いかに多いのかダンテに話した。

「まさに、私みたいな人間は、気をつけないといけませんね」

 ダンテは、よくわかっている。


 上野に着いた。


「大きいです」

 ダンテは『地獄の門』の前に立った。

「フランスのオーギュスト・ロダンが造ったものですね。本物です」

「ロダンくんといい、鴎外さんといい、ありがたいことです」

「森鴎外は『花子』という作品でロダンのアトリエを舞台に小説を書いてます。物語の中で、書棚に『神曲』があると書いてあったはずです。短い作品なのですが、難しい漢字とフランス語とで読むのに苦労した覚えがあります」

「徐々に私と繋がってきた感じがします。ところで、この門が開くのは、いつなのでしょうか」

「ブロンズの鋳物ですから、残念ながら開きません」

 ダンテは、門の裏を覗き込んだりしている。

「後ろにドアが付いてますが、開きませんか」

「上下に二分割できると聞いたことはありますが、開くとは聞いたことがありませんね」

「残念です。開かなければ、くぐれないはずです。それにしても、装飾が素晴らしい。あっ、右の柱の下にパオロとフランチェスカがいますね。上のふたりもそうでしょうか」

 ダンテは、三十分ほど門の前から動かずに眺めていた。


「残念ながら、時空を超える世界へのゲートではないようですね。しかし、芸術作品の『地獄の門』として見応えがありました。とても感動しましたよ」


 お昼近くなり、人も増えてきた。

 ふたりは、混む前にと近くのレストランで早めのランチをとる。


「ダンテさんは、時空を超越する世界に通じるゲートがあると考えているのですか」

「もちろんですとも」

 ダンテは、自信満々に説明し始めた。

「よく『点の世界では線の世界を、線の世界では面の世界を、面の世界では立体の世界が認識できない。同じように、私たちの世界では時空を超越する世界を認識できない』と言われます」

「聞いたことがあります。点は一次元、面は二次元、立体は三次元、つまり、わたしたちの存在する世界。そして、四次元ですよね」

「しかしです。それぞれの世界が絶えず変化していたら状況は変わります。線の長さが変わる、面の広さが変わる、立体の大きさが変わるとどうなるでしょう」

「線の長さが変化していれば、長さ0のときに点になりますね」

「そうです。点の世界から面の世界がその時だけ認識できるのです。面が線になるとき、立体が面になるときも同じですね。そればかりだけでなく、条件が揃えば、面が点になることも、立体が点になることもあるのです」

「つまり、この世界からダンテさんが通ってきた時空を超越した世界が認識できるときがあるかもしれないということですね」

「その通りです。ただし、ひとつ心配があります」

「何でしょう?」

「この世界から時空を超越する世界が認識できるときの条件、あるいは法則といったものがあるのか、ないのか、わからないのです」

 ダンテは、不安そうに答えた。


 ランチを食べ終え、美術館に入館した。

「私の知らない作品ばかりですが、どれも素晴らしいですね」

 ダンテは、モネの『睡蓮』を特に気にいり、しばらく絵の前から動かなかった。

 静寂が支配する館内で、絵画を鑑賞するダンテは、絵になっていた。

 早歩きで観てまわるが、二時間半かかる。


 動物園にも入園した。

「私がいたイタリアでも、諸国の王が動物園を持っていて、決して珍しいものではなかったのですよ」

 そう話すダンテだったが、パンダは初めてですと興奮していた。


 観終えたときには、周りはすっかり暗くなっていた。

 ダンテたちは、ハンバーガを食べながら駅へと戻る。

「今日は、どうでしたか」

 有江は、ダンテに感想を求めた。

「『地獄の門』は、写真と見るとでは大違いでしたね。今日は、鑑賞するだけになってしまいましたが……見ると一層、この門が無関係なはずはないと思えるのですよね」

 ダンテは、そう言ったきり黙ってしまった。


 愛永まなえと部長へのお土産にと、駅ナカの土産店で、ダンテはパンダのクッキーを買っていた。

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