第23話 誰かが尾鰭をつけたがった話<Ⅲ>


「……頭ぼやぼやなんじゃなかったのか」


 ふっくらした艶やかな唇がいやに劣情を煽り立ててくるが、無視を決め込んだ。


 ……というか、決め込まざるをえなかった。

 

 背泳ぎの達人らしい彼女と違って、僕は泳ぎに自信もないし、さすがに脚がつりそうだったから。


 ひと足お先に、近くにあった手頃な岩に退避させてもらった。

 

 人間のいう長時間なんて数十分ほどだろうし、いざとなれば引っ張り上げてやればいい。

 

「嘘じゃないけど、簡単な質問だったから」 


「そうか。それはいいが、『どんなに長い時間水に浸かってても平気』というのは?」


 岩のなるべく外周のほうに腰を下ろし、重くなった足をさする。


「ここまで言っても、まだわからない? 意外~! 頭よさそうなカオしてるのに」 


「悪かったな。眼鏡を掛けているからといって、全員が賢いわけではないのと同じだ」

 

「お兄さんは眼鏡してないじゃん!」


「ものの喩えだ。せっかく


 海中で立ち泳ぎしているときの感覚を思い出すと、身が竦む。

 

 地球の表面を覆う海という水の塊それ自体が巨大な生きもののようで、水を蹴るのをやめた途端、全身が呑み込まれてしまいそうだった。


「やっぱりアタマいいんじゃん。口説き文句もすらすら出てきそう!」

 

「いや、そっち方面は全然だ。そんなことより、早く答えを。秘密なら秘密と言ってくれればいい。難しいことはなにもないだろう」 


「んー……。かな?」


 含みのある言い方をした彼女は、次の瞬間、ざぱっと音を立て、およそ人間の足では立てられない量の水飛沫を上げた。

 

「な…………っ!?」 


 咄嗟に出してしまった腕のあいだから覗き見たのは、にわかには信じがたい光景だった。


 彼女の脚があるはずの――――ではなく、脚があると思い込んでいた部分は、僕のをしていたんだ。


「信じられない? あたしたちの存在が秘匿かくされてる地域も多いし、実在を信じてる人なんて無垢な子どもか研究者のひとくらいか……」


 彼女は少し声量を落としてなにか喋っていたが、揺らめく幻想的な尾鰭から目が離せない。物憂げなその横顔からも。


「だけど、見間違いでも夢でもない。だよ、あたし。きみは人間と勘違いして助けてくれようとしたんだと思うけど。でも、これに懲りずに、もしまたどこかで海に浮いてる人を見かけたら、声掛けてあげてほしいな。本当に溺れて意識のない人間ヒトかもしれないし、退屈してる人魚かもしれないから!」 

 

「あ、ああ。そう……だな……?」 


「…………あ。さっき訊かれたこと、まだ答えてなかった!」


 彼女は、おそらく眠くないときでも眠たげであろう垂れ目をぱちっと開いた。


「さっき?」

 

「人魚はね~、夜型が多いの。たぶんだけど。あたしもお仕事終わらせてきたところでさ~。疲れすぎて寝付けなくて、やっと寝れたところに、きみが勘違いで声掛けてきたってわけ」 


「そうか。申し訳ないことをしたな…………。長々と時間を取らせてしまって、本当にすまなかった。僕は行くから、ぐっすり眠るといい。ここらの海は、比較的早い時間から混雑するようだから、その前に引き上げたほうがいいとは思うが……」


 案内書の受け売りでそう告げたが、彼女はというと、人騒がせな就寝体勢に戻るどころか、瞳を輝かせて僕のほうを向いた。

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