第22話 誰かが尾鰭をつけたがった話<Ⅱ>


(あれは、どう見てもだ。見間違いであってほしかったが…………)


 水辺まで駆け寄った僕は、大切に履いていた革の靴を脱ぎ捨て、汗で張り付く上衣を強引に剥がした。


 舌革はほんの少し伸びてしまったし、釦はひとつ飛んでしまったが、人命を失うことに比べれば、大した損失ではない。


(目は…………閉じているみたいだな。苦悶を浮かべているといった感じではない。……むしろ、安らかな……。ええい、縁起の悪いことを考えるな!) 


 繰り返しになるが、もう一度。『僕は海に親しんでこなかった』。


 ――――とはいっても、伝説上の存在と思われがちなという知識は持っていた。


 彼らの総数が目撃情報と不釣り合いなほどに多いことも。


 世界各地の伝承に語られる彼らと相見える日を、心のどこかで夢見てすらいたと思う。


(どうか無事でいてくれ…………!)


 しかし、動転しているときに、普段使っていない場所から知識を引き出すことは、困難をきわめる。


 溺れて意識を失った人間が浮かんでいるものと思い込んでしまった僕は、可能な限り身軽な姿で飛び込んだ。


 比較的気温の高い時期だったとはいえ、日光であたためられる前の海は人間の身には冷たく感じられたが、お構いなしに腕を振り、水を蹴る。

 

「……おい! 君!」 


 問題の顔が浮かぶ地点――上で点というのも、どことなく不思議な感じがするが――へは、すぐに到着することができた。


「しっかりしろ! 陸はすぐそこだ! 諦めるな!!」


 まずは、意識の有無を確認するのが最優先だ。


 普段の僕からは考えられないほど声を張って、呼びかけたところ――――。

 

「…………ふわあ……。騒がしいなあ。……ていうか、誰?」 


 なんとも間の抜けた返事が返ってきた。


(時間を認識している? ……ということは、ずっと意識があった? しかも、話し始める前のは……)

 

 紛れもなく、だった。


(…………いや、そんなことはどうでもいい)


 相手は、ある程度長い時間、海水に浸かっていた人間だ。


「君、無事なのか? 身体が冷えたりは? 自分の名前などは言えるか?」


 『無用な心配をかけるな』と説教しかけたのをどうにか押しとどめ、聞くべきことを羅列していった。


「ん~……?」


 恐怖の顔だけ人間は、ゆっくり時間をかけて目を開けたものの、その瞼を頻繁に下ろしている。


 ……まだ眠そうだ。人の気も知らずに、呑気なものだな。

 

「あたしの質問には答えないくせに、立て続けに訊かないでほしいなあ。こっちの質問は別に答えなくていいけど、寝起きで頭ぼやぼやだから、訊きたいことあるなら、ひとつずつにして……」


 水面から両腕を伸ばしたその人物は、伸びとあくびを同時に行い、再び元の姿勢に戻った。ちゃっかり瞼も閉じている。

 

 会話も成立していることだし、案ずることはないのかもしれないが、寝ているあいだに沖まで流されてしまったら、どうするつもりでいたんだ。

 

「寝たばかり? 明け方じゃないか。二度寝ならまだしも」


 水平線の向こうには、太陽が顔を半分ほど覗かせている。


「きみ、あたしの時間感覚がおかしいと思ってない? どんなときも自分が正しいって思い込むの、やめたほうがいいと思うな~。あたしはどんなにだし、名前から経験人数までしっかり言えるよ?」


 怪訝な声を出すと、彼女(口調から女性だと推測した。自然の波に彼女自身の立てる波とが合わさり、身体的特徴での特定は不可能だった)は、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。

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