第12話 報告


「ああ。おかえり、千鶴。は楽しめたかい?」


 診療所の扉にふたりの姿を認めた紫水は、なにより先にそう言いました。


 患者が帰った直後だったのか、はたまた研究に没頭していたのか、診察机の上を片付けているようです。


「……あ。ただいま帰りました。紫水さん」


 彼の声を聞くなり、『大事なひと』とやらの人物像や紫水との関係性などを気にして神経質になっていたのが噓のように、千鶴の心は沈静化していきました。


「わたしに採取のお仕事を任せてくれたのは、そのためでもあったんですね。充実してましたし、楽しかったです。お仕事も、お散歩も」


 元々、誇張なしにすべての人を大切に想っているのではないかと思わせるふしのある彼のこと。

 

 特別な存在がいたからといって、他の人への対応をおざなりにすることはなく、いまも千鶴のことを気にかけています。

  

「ふふ、それはなによりだ。でも、『ただいま』だけでいいのに。かわいいなあ、千鶴は」


「……! え……っと。じゃあ、次からはそうしようと思います……!」


 しかし、紫水に微笑みかけられ、彼女の胸の奥の重低音は、より凄味を増して帰ってきました。


 初対面のときにはすでに彼の容姿がきわめて整っていることには気付いていましたが、ふたりが真正面から向かい合ったのは、まだ数えるほどでした。

 

「ちょっと、私は無視? 朝早くから、眠い目を擦って頑張ってきたんですけど?」


 不満の声を上げる花笠は、上に向けた手のひらを紫水に向けてずいっと差し出しました。


 金銭の要求をしているような仕草に、その場は一気に和やかな雰囲気に包まれました。


「ふふふ、ごめんごめん。そういうわけじゃないさ。でも、花笠の家はここじゃないから、『おかえり』は違う気がしてね。お疲れ様。今日は本当にありがとう。少し仮眠を取っていくかい?」


「いいえ。自分の家のほうがぐっすり眠れるし、いま寝たら仮眠どころじゃ済まなそうだから」


「そうかい。じゃあ、さくっと終わらせてしまおうか」


「そうしましょう。千鶴さんがいろいろ記録してくれてるから、それを見れば、あらかたわかると思うけど。行き違いがあっても困るし、『書いてないけど報告しておきたいこと』もあることだしね」


 千鶴に目配せした花笠は、手入川で遭遇した人魚のことを言っているのでしょう。

 

「書いていない? ということは、別件かい?」


「そう。とりあえず、記録を見てもらっていい? 疑問点と不明な点があれば答えるから、そのあいだに別件についての報告をさせてほしいの」


 ふたりが話を進めるあいだに、千鶴は紙を一枚一枚広げ、抜けがないことを確かめました。


「構わないよ。……千鶴、それを借りてもいいかな?」


「はい、どうぞ」


「ありがとう。それで、報告したいことというのは?」


 揃えられた紙を受け取った紫水の視線は、ふたりの顔を行き来したあと、紙に集中しました。


のよ。が」


 花笠が、重大な機密を共有するかのごとく声を潜めました。


「……へえ。あの川にもいるのか。でも、わざわざ私にそれを伝えたということは、『ただ見かけただけではない』ということかい?」


 しかし、紫水は彼女の報告にも眉ひとつ動かすことはなく、千鶴の綴った報告書に目を通しています。


「ふたりで一緒に見たのかな。それとも、どちらかがひとりで作業しているときに?」


「わたしがひとりでいるときに……。その人魚、『そこから逃げて』って言ってたんです」


 花笠が小さく頷いたので、千鶴も頷き返し、ありのままを彼に伝えます。


「…………『』? なにか心当たりは?」


 そこではじめて、紫水の声が少し強張りました。


「いえ、なにも……。水に浸かってるのも膝までだったし、そう聞こえただけなのかもしれないんですけど、思い出してみると、その人……ような気がしてて…………」

 

 千鶴は記憶の引き出しを片っ端から開けますが、該当者についてはとんと思い出せませんでした。

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