第13話 膝元


「知っている人に似た人魚、か……。今回、ふたりに行ってもらったのは……ああ、このあたりだったね。気分転換になればと思って依頼したんだけれど、怖い思いをさせてしまったようだ。すまないね」


 地図を取り出した紫水は、ある一点に視線を止めると、わずかに眉を動かしました。


「あ、大丈夫です! 不気味だなとは思ったんですけど、怖い感じはしませんでしたし」


「…………。私も実際に見たわけじゃないから、なんとも言えないけど。危害を加えられたわけじゃないのよね? 怪我もないし、不自然な位置に濡れが目立ってたりもしてなかったしで、ちゃんと確認してなかったんだけど……」


 それまで黙って話を聞いていた花笠は、『ごめんなさい』と手を合わせました。


「かなり遠くにいたので、なにもされてません。触れられる距離じゃなかったし、お互いに『なにもできなかった』感じです。わたしが気付かなかったら、その人もなにも言わなかったんじゃないかなって思いますし、悪意は感じませんでした」


 千鶴にしてみれば、警告だけ残して去ってしまったその人魚ですが、人魚の側に立って考えてみると、あれが彼女にできる精一杯だったのかもしれません。


 とすれば、なおのこと、人魚の伝えたかった内容に興味を引かれます。


「近くで見たわけじゃないのか。……だったら、他人の空似じゃないかい? 人魚の知り合いがいるというのなら話は違ってくるけれど、そうじゃないんだろう?」


「人魚の知り合いなんていませんよ。人間の知り合いもいないみたいなものですし。花笠さんに言われるまで、その人が人魚だってことにも気付かなかったくらいで……」


「『実在しているとは思っていなかった』?」


「はい。いまも見間違いだったんじゃないか、って」   

 

「見間違い……か。そう思っていたほうが、千鶴にとってはいいのかもしれないね」


 憂色と慈愛に彩られた紫水の眼差しは、俗世との繋がりが稀薄な少女ただひとりに注がれていました。


「…………話してるところ、悪いんだけど。私、もう帰って大丈夫そう? 大丈夫よね? 報告も終わったし、口挟むの遠慮しちゃうくらい、ふたりだけの世界に入ってたし。あとは千鶴さんに任せちゃっても問題ないんじゃない?」


 いつのまにやら机に突っ伏していた花笠が、のそりと起き上がりました。


 眠気が最高潮に達しているらしく、発言にも棘が目立ちます。


「ああ、ごめんね。帰って、ぐっすり眠るといい」

 

「ありがとう。急いで帰ることにするわ。千鶴さんも疲れただろうから、今日はもう他の仕事頼まないようにしてよね!」


 紫水の返事を聞くやいなや、花笠はゆらりと立ち上がり、ふらふらと入って来た扉へ向かいます。


 日が傾いてきた部屋のなかで彼女の毛先が揺れるさまは、ひときわ幻想的でした。

 

「当たり前じゃないか。それじゃあ、気を付けて。道端で寝てしまわないようにね」


「花笠さん、今日はありがとうございました。お気を付けて!」


 後ろ手に手を振った花笠を思い思いの言葉で見送ると、紫水と千鶴は自然に顔を見合わせました。

 

「……終了時刻は未定だけれど。明日は一日休んでもらうことにするさ。千鶴も、それで大丈夫そうかな?」


「はい! 人魚のことも、もう少し知りたいです。教えてくれますか?」


「彼らに興味があるのかい?」


「うーん……。人魚に興味を持ってるわけじゃないと思うんですけど、さっき会った人魚が言ってたことが気になって……」 


「そうだよねえ。『そこから逃げて』なんて聞こえたら、気にしてしまうだろうさ。誰だって」 


「…………」


 千鶴は急に寒気をおぼえて、すぐそこにあった紫水の腕を掴みました。


 彼女が『ここ』だと思える居場所など、彼の膝元の他にありません。


「おや? 怖くなってしまったのかな」


「…………はい。ごめんなさい。さっきまでは、本当になんともなかったのに……」


「そういうこともあるさ。落ち着くまで、そうしているといい。……大丈夫。から…………」

 

 利き腕が塞がれた紫水は、そのままなにをするでもなく、千鶴が平常心を取り戻すまで、ただ隣に掛けていました。

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