第2話 青年


「……あっ、そうなんですね! 教えてくださって、ありがとうございます」


 『あの橋を渡れたら、遠くの国までひとっ飛びできそう』なんてことを考えていたせいでしょうか。


 波打ち際まで来ていたようで、すぐそばで水飛沫が上がっていました。


 海水が引いていったあとに光るものを見つけた千鶴は、しゃがみ込んで、そうっとそれを拾い上げました。


 


「…………私も、よくここで海を見ながら考え事をするんだけれど」


 千鶴が素直に男のそばまで歩いていくと、彼はぽつりぽつりと話し始めました。


 そこまで大きいわけではないのに、はっきりと聞き取れる不思議な声をしています。


「ぼーっとしていて、波に攫われかけたことが何度もあるんだよね」 


 思い返せば、彼の声は最初から波の音に搔き消されることなく、千鶴の耳にしっかり届いていました。


「とっても綺麗ですから、見惚れちゃいますよね」


「うん、そうなんだ。海はいいよ。ここからは見えないけれど、数多の生命が息づいている。とても神秘的だと思わないかい? まあ、地球の表面積の七割は海らしいから、当然といえば当然だけれど」


 彼は本当に海を愛しているようで、完全に潮が満ちてしまったあとも、黙って海を眺めたり、海にまつわる話をしたり。


 とりわけ海の生きものに詳しい彼のしてくれる、変わった生態を持つ水生生物についての話は、千鶴の関心をおおいに引きました。

 

 『先を急ぐから』と途中で別れてもよかったはずですが、そうしなかったのは、彼と過ごす時間が心地好いものだったからでしょうか。


 あるいは、『話し相手になってくれ』という願いを一度聞き入れたからには、最後まで付き合うべきだと感じていたのかもしれません。


 それとも、彼の話術が優れていたからでしょうか。


 しかし、完全に水平線から離れ、高い位置に昇った太陽を見て、千鶴は思い出しました。

 

 ――――この話が終わったら、わたしを受け入れてくれる人がいる場所を目指さなくちゃ。


 ……でも、それってどこ?


 そんな人、本当にいるのかな。


 先ほどまでのわくわくした気持ちが嘘のように萎んで、完全に振り切ったつもりでいた焦燥感に追いつかれてしまった気分でした。


 未知の世界へ誘ってくれていた彼の話も、ほとんど頭に入ってきません。

 

「…………ああ、すまない。私ばかり話してしまっていたね」


 浮かない表情の千鶴に気付いたのでしょうか。


 彼は話を止め、彼女をじいっと見つめます。


 ずうっと海に注がれていた視線を向けられ、千鶴は落ち着かない気持ちになりました。

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