第2章 夜明けの海辺

第1話 邂逅


 ――――数時間前。


「…………明るくなってきた」


 夜明け前に家を抜け出した千鶴は、気の向くままに歩いていました。


 最低限のものしか持ってきていなかったためか、想定よりも時間をかけずに遠くまで来られた気がします。


「ここ、どこなんだろう? もう違う国に入ってるのかな」


 小さな体躯を持つ彼女の感覚でそうだというだけですから、実際には、あの村からそう離れたところまで来てはいないのでしょう。


 周囲に目をやると、見慣れない景色が徐々にその姿を現してきて、千鶴の歩幅は少しだけ小さくなりました。


「……大丈夫。怖くない」 


 初めて踏みしめる地に不安はありましたが、彼女にとってのこの数年間というのは、一寸先も見えない暗闇の中をひたすら走り続けてきたようなものでした。


 その心細さに比べたら、どうということはありません。


 空が明るくなるにつれ、心も前を向いてきた千鶴ですが、普段の癖で俯いたまま歩を進めます。


「人がいない時間でよかった」


 彼女が歩いている道は決して広くはないものの、きちんと舗装されていました。


 時折現れる脇道を気にしつつ、そのまま真っ直ぐ進んでいくと、道幅が広がってきました。


 呼応するように、木々の生い茂る匂いとは違う香りが漂いはじめます。


「あれ、この匂い……。前にもどこかで……?」


 どこからか立ち上るその香りは、懐かしく感じられました。


 しかし、いつなんのときに嗅いだものなのか、千鶴はさっぱり思い出せません。


 香りに導かれるようにさらに歩を進めると、今度は海岸に行き当たりました。


 山育ちの千鶴にとっては、初めての海です。


「うわあ……!」


 水平線の向こうから顔を出した太陽の光が海面に大きな橋を架けているかのような光景は筆舌に尽くしがたく、千鶴は思わず駆け寄っていました。




「お嬢さん。もうじき潮が満ちるから、そこにいては危ないよ」 


 書物の情報や人の説明から想像していたよりも美しい実物にしばし目を奪われていると、後方から声を掛けられました。


「え?」 

 

 驚いて振り向くと、一人の男が立っています。


「そう、そこの君だ。もっと波打ち際から離れた位置に移動したほうがいい。嫌でなければ、私の隣に来て、話し相手になってほしいな。この時間、あんまり人がいなくて寂しいんだよねえ」


 いつからそこにいたのでしょう。


 涼しげな風貌の青年は、小さく手招きをしていました。

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