第5話 居場所


「ありがとうございます。でも、今日こそは閉館前に声掛けてくださいね!」


 千鶴は恒例となった念押しをしました。


 管理人の彼は、貸出・返却口の机の上に難しい書物の山を作り、なにやら難しい研究をしているようで、日ごとにその山は形を変えています。


 まだ目を通していない書物を左に置き、すでに目を通した書物は右に避け、繰り返し確認する必要のあるものについては手に取りやすい位置に。

 

 彼が図書館の奥で調べものをする千鶴を呼びに来るのは、決まって閉館時間を少し過ぎた頃でした。

 

「ああ、そうするつもりだが……。こちらはこちらで大事な仕事だからな。というか本業か。……ああ。本業だったな、そういえば。まあ、そんなことはどうでもいい。だ。声を掛けるまで、存分に励むといい」


 彼の集中力が高いのも事実でしょうが、閉館時間を延長しているのが彼女のためであることは明白でした。


「……はい!」


 千鶴は、彼の計らいに感謝してもう一度頭を下げ、館内のいちばん奥へ向かいます。


 それから、左隅に鞄を置き、昨日途中まで読んでいた書物を取りに行きがてら、目に付いた数冊と一緒に席に着きました。


「今日も頑張ろう」

 

 管理人の言ったとおり、広さや蔵書の数に鑑みると、お世辞にも充実しているとはいえない施設でしたが、誰にも見咎められず行動できる範囲で最も情報収集に適した場所といえば、ここ以外にはありません。


 しかし、彼女は仕方なしにここに来ているわけでもありませんでした。


 ……というのも、通っている学校の生徒、ならびにその親のなかには、彼女の成長速度が大幅に遅れるという奇妙な症状を未知の病ではないかと考える者も少なからずいました。


 そして、それが伝染しない保証もないと怯えて彼女を遠巻きにし、心無い言葉の数々を浴びせる者もいました。


 決して口には出しませんが、教師たちも彼らと同じ気持ちなのでしょう。見て見ぬふりを続けます。


 さらに悪いことには、つい先日、親友の飛鳥が山をいくつも越えた遠くの町へ越して行ったので、いよいよ学校に千鶴の居場所はなくなってしまったのでした。


 かといって、家に帰れば、腫れ物を触るかのように接しながらも、時折、得体の知れないものを見るような目で様子を窺ってくる両親と、息の詰まる時間を過ごさなくてはなりません。


 十一歳のときに与えられた念願の自室に閉じ籠っていても、暗い雰囲気が家全体を包み込んでいるように感じられます。


 以前であれば、このようなことはありませんでした。


 千鶴の記憶に残るのは、生活の苦しいときや両親が喧嘩をしているときも、食卓を囲めば、みんなが笑顔になるような平和で明るい家族――――…………。


 家にいると、そんな日常のささやかな幸福の影ばかり追ってしまうのが嫌で、なるべく帰宅時間を遅らせたかったのです。

 

 いまや、図書館だけが彼女の安らげる場所でした。

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