誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

第1章 悪夢のはじまり

第1話 誕生日


「お誕生日、おめでとう」


「おめでとう」


「ありがとう!」

 

 とある山あいの村の一軒家に、弾んで今にも踊り出しそうな声が響きます。


 今日はこの家の一人娘の誕生日。


 十歳になる少女は、優しい両親の愛情を一身に受け、大病を患うこともなく健やかに成長し、今日のこの日を迎えました。




「さぁ、いただきましょう」


「美味しそうだね。いただきます」


「いただきます!」


 湯気の立つ鍋を囲んで、食事が始まりました。


 いつもより少し豪勢な献立は、この日のために特別に用意され、張り切って作られたものであることが窺えます。


 少女は早速、そのうちの一品に箸を付けました。汁物です。


 ひとくち啜り、出汁の中に少々違う風味が混ざっているように感じた彼女はお椀の中を覗いてみると、見慣れない肉が二切れ。


 口に運ぶとすぐにとろけたそれは、やはり初めて食べるものでした。


 臭みというほどではありませんが、かすかに磯の香りに似たものが舌に残る、なんとも不思議な味わいがします。


 ――――『きっと、稀少で高価な獣でも狩れたんだ。売りに出す前に少量切り分けておいて、祝いの席に出してくれたんだろう。お父さん、お母さん、ありがとう。わたし、将来はきっと、ふたりに裕福な暮らしをさせてあげるからね』――――


 彼女は両親への感謝で胸がいっぱいになり、食事が終わる頃には、不思議な味のした肉のことをすっかり忘れてしまっていました。




「ねぇねぇ、お母さん? お父さん?」


 眠りに就く前、少女は眠い目を擦り、両隣の父母を交互に見つめます。


「なんだい、千鶴」


 ――――少女の名前は『千鶴』と言いました。


「なぁに? 甘えんぼさん?」


「今日はお祝いしてくれて、ありがとう」


 大好きな両親の注目が自分に向いているのが少しくすぐったくて、千鶴は最低限の感謝しか伝えることができませんでした。


「あらあら、どういたしまして。でも、ありがとうを言うのはお母さんたちのほうよ。ねぇ、あなた?」


「ああ、本当にそう思うよ。千鶴、私たちの間に生まれてきてくれて、ありがとう」


 しかし、それでも両親は相好を崩し、両側から彼女を抱き締めるのでした。


 愛娘が優しい子に育ってくれていることが嬉しくて仕方ないのでしょう。


「…………わたし、潰れちゃうよ」


 くぐもった声が、大人ふたりの間から聞こえます。


 九歳と十歳では文字通り桁が違いますから、そのようなことで喜ぶのは子どもっぽくて恥ずかしいと考えたのでしょうか。


「おお、それは困る。ごめんな」


「ふふ、ごめんなさい。ゆっくり休んでね、千鶴」


 千鶴が声を上げると、ふたりは彼女を離してくれましたが、四本の腕のぬくもりは消えません。


「おやすみなさい……」


 千鶴は、いつものように眠りに落ちていきます。




 さて、純粋な少女が、だということを知る機会は失われました。


 ――――思えば、それがすべての始まりだったのです。

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