コミュ障と会話とところてん

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

会話とは、ところてんである。


 会話ってところてんだな、と、私は思う。

 ところてん突きでところてんをにょろーんと突くように、口から言葉を吐く。

 相手がところてんを食べて、ところてんが戻ってくる。

 その繰り返し、繰り返し。


 


 私ははっきり言って、会話が苦手だ。超苦手だ。

「今日は風が強いですね~」

「そうですね~、風が強すぎて髪の毛がヤバいです~」

 程度ならイケる。なんとかイケる。

 けれど、自分のことや自分の意見が必要になってくると、私は煮える。


 文字にすれば何とかなるんだけどなぁ、とぶぅぶぅと唇を突き出してブーイング。

 世界に放った「ぶぅ」は、ブーメランのように自分に返ってきて、刺さる。

 どうして文字にはできるのに、口からところてんを吐けないのだ?

 どうして……どうして?


 ネットの海のすみっこで、物書きを続けること約二年。

 様々なモノを書いてきたわけだが、それらが一発で決まったことは、一度もない。

 あーでもない、こーでもない、と、書いては消して、書いては消して。

 そうして、人様に見せられる文章を作っている。


 そう。

 書いては消して、書いては消して、を繰り返せば、私は人様に見せられる文章を書けるのだ。

 だから、リアルタイムコミュニケーションが下手くそであれ、まぁとりあえずはなんとかなる。人間社会の中でも生きてはいける。

 その安心感(というにはどうにもぐらつきやすく、熱を与えればすぐ液体に変わる貧弱な拠り所であるが)に、溺れていた。

 書けばちゃんと物言えるんだからそれでいいと、自分をぬるま湯につけていた。

 

 そりゃあ、口で言えなくても言葉で表現できればそれはそれでいいのかもしれないが、世間の流れは「書いて、読んで、直して、発する」という複数工程を許してくれるほどゆったりとなんてしていない。

 だいたい、昨今は「タイパ」がどうとか言われているくらい、時間の足がウサイン・ボルトなのだ。

 書いて、読んで……なんてしていたら、遅い、遅すぎる。

 もっと即時性のあるコミュニケーション能力を鍛えなくてはならぬのだ!


 この、「お前何歳だよ! 小学生かよ!」と突っ込まれそうなことに気づいたのは、とある面接を受けたことがきっかけだった。

 その面接を受けていなかったら、私はまだ煮えて、溶けて、溺れていたと思う。


 その面接のときに何が起きたかと言うと、まー何にも喋れなかった。

 いや、喋ったさ、喋ったとも。支離滅裂な、自分ですら「おいお前何言ってんだ~?」と思うくらい、訳の分からないことならば喋ったさ。

 ああ、あの時の様子が動画で記録されているのなら、全国の大学のキャリアサポートセンターに「絶対に落ちる例です」って言って配布した方が未来のためではないか。

 と、まぁ、そんなことを思うくらいにひどかった。


 振り返って、私がどうして失敗をしたのかを考える。

 考えて、考えて、頭の中にあるものを書いて、書いて、書き殴った。

 そうして私は、ひとつの問題点に辿り着いた。

 それは『読点打ちすぎ』問題である。


 私の話は、キャッチボールできるものではなかった。

 自分のターンが来た時、語る一文が不必要に長かった。句点を打たずに読点を打ちまくっていた。

 ところてん突きにながーいながーいところてんを、強引に手でグイグイ押し込んでいた。

 ところてん突きに入るサイズにすればいいものを、でろーんと長いまま、強引に押し込んでいた。

 いいや、押し込みたくて押し込んだわけではない。

 私には、ところてんの切り方がわからなかったのだ。

 わからないまま、とにかく突く。そんなことをしているから、句点を打つ頃には「あれ、自分なに話してたんだっけ?」と、自分でも話を見失うダメっぷり。

 

 強引に突き出したところてんは、グズグズに崩れて、もう誰も食べたくない汚さ。

 言葉を大暴投して、言葉は無限の彼方に飛んでいって、ポーン、コロコロ。

 まぁ、家族やら大親友やら超優しい人だったら拾いに行ってくれたりすることもあるのだろうが、私が大失敗した面接のような時には、受け手に大暴投を走って取りに行く義理なんてないわけで。

 あの時は本当に、どうしようもない空気になった。

 あの時間で共有できたのは、私のクズさ加減だけって感じだった。

 嗚呼、思い出すだけで、頭も心も痛くなる……。


 もう二度と、あんなことになりたくない!

 自分が恥をかきたくないというのもある。けれど、面接であったり会話というものは、誰かの時間を提供してもらって成り立つものだ。だからこそ、人の時間を無駄にしたくない、とも思っている。

 

 と、いうことで、変わりたいから変わることにした。

 変わるために、学ぶことにした。

 改善策を求めて私はYouTubeに入り浸った。


 私は本を読むのが好きだし、毎月、どんなに執筆やら私生活が忙しかろうが、最低でも一冊は読んでいる。

 本屋も大好き。あそこはテーマパークだと思っている。マジで。

 だがしかし。読書好き、積読はスカイツリーな方々にはご理解いただけるのではないかと思うのだが、『欲しい本ぜんぶ買ったら破産する』!

 それに、『欲しい本ぜんぶ買えても置く場所がない』!

 そんなわけで、何でもかんでも読めるわけじゃない。


 そんなとき、役に立つのがYouTubeだ。

 あそこには情報が溢れている。まぁ、溢れるくらい手軽に投稿できる場であるがゆえに、それが正しいものであるのかジャッジする力が必要とされるものではある。

 だが、とりあえず〝得る〟という点において、めちゃくちゃ気軽にアクセス出来て、役に立つ。


 現代社会サイコー。


 さて。

 会話、それすなわち、心と心を言葉で繋ぐコミュニケーション。

 だが、そもそもの話、私は人に心を開くのが苦手である。

 なぜかといえば、否定されながら育ったからだ、と、私は思っている。

 心を開いたら傷つけられると学んで育った。

 だから、開かない。

 が、開かない、開けないから、繋がれない。

 

 そんな私が会話上手になるためには、まず、自分と向き合う必要があると考えた。

 だから、自己啓発系のチャンネルやら、否定され育ちに関することを語っているようなチャンネルなどに入り浸った。

 途中で日プ(PRODUCE 101 JAPAN)にハマって、ひたすらチッケムをみたりとかしていたけれど、日プが終わったらちゃんと戻った。

 突然の日プ登場であるが、実はこれがめちゃくちゃポジティブな影響を私に与えてくれていた。

 トレーナー陣の言葉が、めちゃくちゃ沁みたのだ。

 お豆腐メンタルさんは、日プを観た方がいいと思う。

 マジで。

 視聴者は無関係だと思うべからず。

 視聴者のお豆腐メンタルの水を切って揚げて強くしてくれる言葉たちが、あそこには溢れている。

 そういう言葉はチッケムではなく、本編とかハイライトに散りばめられておりますが故、気になる方は何本か動画を漁ってみてほしい。


 おっと、日プから話を戻そう。

 

 一度に得られる情報は限られている。

 そして、不思議なことに、情報はその人に適したタイミングでやってくる。

 

 面接大失態事件から半年ぐらい経った頃、私はある動画に出会った。そこには、同世代の〝夢を追う人〟が出ていた。

 その夢を追う人が、なんだか私に似て見えた。

 それは自己理解に関する相談をする、という動画だったのだが、その人がその人の問題点――といっても、私の問題点にそっくり――について相談相手にボロクソに言われるたびに、私の心はズキズキした。

 全然他人事じゃない!

 五感が痛い!

 言葉の矢は、その相談者だけではなく、私の心にもまっすぐに飛んできた。

 

 その瞬間。

 近くにある画面の向こう。遠い遠いどこかから、手元の皿にちゅるん、と、美味しそうなところてんが降ってきた。

 と、私は思った。

 

 私には、ところてんを突いた人(動画で相談にこたえていた人)に、ところてんを返すことができない。

 コメントを残すという手段はあるけれど、それはリアルタイムではないし。確実に届くものではなくて、単なるお気持ち表明だし。

 と、そんなことを考えてしまったから、その動画に対してのアクションはグッドボタンを押すくらいしかできていない。

 

 だが、私がここで変わったら。

 そうしたら、ところてんではない何かを渡せるような気がした。

 よし、やってやるぞ!


 ところてんが降ってきた、と感じてから私は、美味しいところてんの切り方について学ぶため、動画の内容よりも会話の流れを気にしながら見聞きするようになった。

 そうして考えを巡らせたことについても、酢醤油少々語っておこう。


 私は言葉が行き来するさまを見て、聞きまくった。

 すると、ある時。

 私のように読点を打ちまくる人に出会えた。

 その動画の中では、話し言葉に読点が増えすぎる前に、話を聞く側が、話を区切ることがあった。

 情報整理と、確認のためだ。

 これはいい。上手く投げられなかったけれど、なんとかキャッチできたボールみたいだ。

 しかし、これは受け手の捕球能力が高くなくてはならない。

 つまり、相手の捕球能力に頼りきった行為。相手に捕球能力や愛がなければ、無理なこと。万人に期待できることではない。いや、そもそも期待することですらない。


 では、どうしたらいいのか。

 

 私が目指すべきは、相手がボールを受け捕る時に、不必要に動かなくていいように配慮した、受け取れる重さ・大きさの言葉を投げることだ。

 

 別に、ビュン、と速くて、ドストライクである必要はない。

 元々のスキルが底辺のくせに、いきなりスピードとかコースを極めようとするな。

 ぽわわ~んと弧を描いて、少し移動しないと捕れない位置でもいいから、とにかく相手が捕れるところに投げられれば、それでいいのだ。


 話がところてんからボールにすり替わってしまった。

 ところてんに戻そう。

 

 会話はところてん、ところてんなのだ。

 会話をする時には、イメージするのだ! むかしながらの、ところてんを!

 ところてん突きに入れて突いてつくる、ところてんを!

 会話は、ところてんだ!

 ちゅるるんキラキラところてんなのだ!

 ところてん突きに入れられる長さで、必ず句点を打つ。

 手で押し込まないといけないほどにながーいところてんは、作るべからず。

 そのことを意識して、言葉を並べる。

 そうして、相手のお皿を意識して、相手が受け取れるところに、相手が受け取ってくれると信じて、突くのだ。


 相手だ。会話には相手がいるのだ。

 一気にたくさんところてんを突いたら食べきれない。

 自分だってそうだろう? 一気に大盛りところてんは拷問だろう?

 わんこそばだって、椀にちょこんと蕎麦があるから、ちゅるんと食べられるのだ。

 椀にモリモリ蕎麦があったら、テンポよくなんか食べられない。

 ちゅるん、と食べられるくらいの量に切れ。

 そうして話に区切りをつけて、自分にも「今ここまで話したぞ」と言い聞かせながら、話すのだ!

 そうすればきっと、〝今はこれを話したぞ、だから次は……〟と、話を見失うことなく、少しずつ階段を上っていける。


 そして、もうひとつ。

 ところてんを美味しく食べるために必要なもの。それは、調味料だ。

 だがしかし。そりゃあ味があった方が美味しいが、ぶっちゃけ無くても食べられる。

 だから、酢醤油黒蜜その他もろもろ味付けは、ところてんを美味しく食べてもらえる量で突けるようになってから身につければそれでヨシッ!

 話し上手でもないのに、話に小細工しようとするな。

 切れ、切れ、切れ!

 美味しい量に、とにかく切れ!


 焦るな、コミュ障。

 ところてんを美味しく突けるように努力すれば、その先にはきっと、輝く未来が待っている!


 と、まぁ、頭で考えてそうすることにしたところで、人はすぐには変われない。

 すべきことを見つけた今も、私のコミュニケーション能力は超低空飛行を続けている。

 けれど、時々ふわっと飛び上がって、誰かのお皿に少しは美味しそうなところてんを突けるようになったんじゃないかな、っていう、ちっさい自信はある。

 だからこれからは、そのちっさい自信を大きく育てて、目の前の誰かに美味しいところてんを渡して、楽しい気分になってもらうことを目指していこうと思っている。


 そして、あの私が自分のダメさを認識するきっかけとなったあの面接官の方と再び会う機会を得ることが出来たら。もしも再び縁のはしが繋がったら。

 その時、〝わ、あの時の中身を全部突き出して、新しい人になってる?〟と、衝撃を覚えてもらえるようになりたい。

 そんな夢を、胸に抱いている。

 


 

 変わりたいと思ったから。変わると心に決めたから。

 震える足を前に出し、閉じようとする唇の緊張に寄り添う。

 私はまっすぐ前を見て、誰かのお皿に狙いを定めて――今日も、言葉を突く。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コミュ障と会話とところてん 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ