第二【灼照魔鬼】
――【
俺たちはやや軽装だったが、構わず入山した。この山では偶に行方不明者は出るものの、事件性のあるものが多く、遭難は少ない。俺の知り合いの馬鹿は、度々この山に来ては大学終わりにここで青姦をするカップルを探している。二回くらいは見れたぞと要らない報告を受けた記憶がある。
山の中は、意外と明るい。俺も初めて来たわけではないし、恐らく時鷹もそうだ。雅さんは山などへは行かなそうだが、道順が分かるからと先導した。山頂へと続く道の他に、ハイキングコースのような山の中をぐるっと周る道がある。大学生の青姦が見られるのもこの道の周辺だそうだ。俺たちはそっちに進んだ。
同じ光景を幾度と見た。山の中腹を右往左往してまた同じ場所へ出る。それを何度も繰り返した。それを始めた地点に五度目に辿り着いたとき、雅さんが面倒臭そうに言った。
「次で目的地に着くみたい」
やはり俺には何故判るのか分からなかったが、彼女は確かにそれを事実として告げた。ここまで彼女の神託に従って進んできたわけだ。今更疑うのもナンセンスだし、もし間違っていたら帰れば良いだけだ。
その瞬間、目が眩んだ。開いたときには、俺たちの前に上半身裸の見知らぬ男が立っていた。それは美しい光だった。アガリビトとか何とか呼ばれているものの正体は、きっとこの存在だ。否、彼はきっとそれ以上の何かだ。筋肉は隆々としているが、骨格は西欧人のようには大きくない。袴を履いている。俺たちと同じ日本人のようには見えるが、同じ人間のようだと思うには美しすぎる。身長は時鷹より少し低いから、百七十センチ程だろうか。こちらを射抜くその目は、薄暗い木々の中で金色に光っているように見えた。人間の形をした人外だ。
「ほう、貴様らは正気の世界に留まるのか。面白い。いや、それ以上に希望だ。貴様らがアガリビトと呼んでいるこの山にいる者共は、所謂アガリビトではない。俺に当てられて人間を辞めた者共だ。俺は申し訳ないとは思わない。奴らは究極の幸福の中にいるのだから」
その男は赤茶混じりの黒髪を舁き上げて、そう言った。
「誰だよ、お前」
時鷹が勇気のある一言を言った。いや、当然の疑問ではあるのだが、凡そ人外に類する存在――我々の理性を冒瀆する存在――を前にして出てくる言葉ではない。
「ああ、名前か。便宜上······」
厨二病か。厨二病の人外か。
「ホムラくんだ」
雅さんが言った。知り合いだったのだろうか。人外と知り合いなどということがあるのか。それを聞いた男は彼女の顔を覗き込むと、少し穏やかに笑って「おお、雅か······若江の」と言った。なんだ、こいつは。腹が立つ。元彼かなんかのつもりか。
「今回は別のを名乗ろうと思ったが、雅がいるのならホムラで良い。あれだ、火炎の炎と書くやつだ」
そう一人で盛り上がっているのを、時鷹は白けた目で見やって、鼻で笑った。
「なんだ、姉ちゃんの知り合いか。どうせ、碌でもない奴だ。それで、俺らに何の用なんだ」
この時鷹とかいう男の適応力は一体どうなっているのだ。それとも、これは俺を驚かすためのドッキリか何かなのか。
「まじでなんなんだよ! 新手のドッキリか、それとも雅さんの知り合いのイケメン厨二病男か!」
俺は自分を駄々っ子のようだと思った。雅さんは少し俯いて右目を閉じていた。
「雅と、その弟は判る。だが貴様は誰だ。俺は一応名乗ったぞ。まぁ良い。貴様も俺に当てられなかったのだから、話に参加する資格はある。要件だが、貴様らは今、正しい順路にいる。その先にいるのはアガリビトもどき共ではない」
話の途中で、ふと気になった様子で雅さんが視線を上げた。半笑いで。
「なんで上裸なの?」
今それを訊くのか。若江家の奴はどいつもこいつも空気が読めないのか。俺は
「この正しい順路の先で路地裏の鼠のような邪悪を行っている外道から送られてきた惨めな刺客を打ち払うのに、邪魔だったのだ。そしてその外道は、俺の人々を食らった! 俺の人々は魂に力があるからだ。奴はそれを養分としてぶくぶくと肥った陰気で卑屈な吸血鬼だ。
俺は奴に報復しに来たのだが、俺だけでは正しい順路を通っても辿り着かない。人間の一行でなければ奴のもとへ辿り着かないようになっている。用件はそれだ。俺をこの先に連れて行け」
時鷹は「勝手にしなよ」と言って、一人で歩き始めた。俺はそれで良いのかと問いたくなったが、これは非日常だ。紛うことなき非日常であり、そして現実だ。数瞬前までは戸惑いが勝ってしまったが、冷静に考えればこれは至上の娯楽となった。
この瞬間から、俺にとってお化けや妖怪は日常の中の、或いはその隣、その裏面、その隙間に悠然と存在する非日常となった。
「
雅さんはそう言うと、煙草を吸い始めた。この山も普通と同じく禁煙であるはず――だからこそ駐車場に灰皿があったのだろう――だが、問い詰めるのも面倒なので、いっそのこと一緒に吸おうと煙草を取り出した。後ろを振り返った時鷹の顔と、
斯くして、俺たちは先へと進んだ。すると今までは元の場所に戻る構造になっていたはずの道が、樹々に呑み込まれるように先へと続いていた。
「てかさ、アガリビト······もどきは
それだ。その時鷹の問いこそが、俺たちをここまで連れてきた。
「実際に誰かが見る前に、あの外道に喰われているだろうから俺のせいではない。恐らくはそういう話を好む人間――俺たちの世界に近い人間を集めるために外道が何らかの方法で噂を流したのだろう。幽霊に関しては、俺の人々が奴に喰われた後に残した······残穢だ」
そう答えた
「着くよ」
雅さんが、静かに、冷酷に告げた。
そこには木のない広場のような空間があった。中央には寂れどもじっとりとした妖艶さを漂わせる祠が佇んでいる。祠には神棚にあるような扉がある。そして夜空には星々が――待て。いつ夜になった。俺たちは昼に来て、多少時間は経ったが少し前まで日は出ていた。夕焼け空なら解る。納得できる。気付けば辺りには動物が肉を喰らうような音がぐちゃっぐちゃっと響き始めた。獣臭はしない。熊の気配なら分かる。一度北海道で羆と遭遇してから、月輪熊であっても分かるようになった。
何かの気配がする。俺も雅さんも、時鷹すらも息を呑んでその方向を見ている。気配は祠の中だ。扉が少しずつ開いている。
扉の奥から、辺りにどんどんと臭気が立ち込めた。不愉快だ。精液のような臭いと腐った肉のような臭いが混じって吐き気を催す。身動きは取れなかった。それこそ、その場で蹲るか立ち尽くすか以外に俺たちには選択肢がなかった。流れ出てきた不潔で粘着質の泥は、触手を発達させ、それを纏いながら次第に人型を成していく。しかし、腕と脚のあるべきところには名状し難い泥の触手が溶け落ちながらその形を保っている。腐敗臭が強まり、遂に俺は嘔吐した。胃袋の中身が全てなくなるくらいに吐いた。ふと二人のほうを見ると、時鷹はぶつぶつと何言かを呟いている。よく聴けば、素数を数えているようだ。雅さんは立ち上がって、真っ直ぐにその猥褻なる狂気の泥の塊を睨んでいた。それは唾棄すべき全裸の肥った男だった。その身長は雅さんよりも小さく、土色の腹は不潔にぶよぶよと膨らんでいて、局部に至るにつれて汚らしい体毛が集中していた。その先には異臭を放つ男根のようなものが惨めに小さく勃起していて、尿道口からは見るに堪えない悍ましい液体が垂れている。肥った男は汚い中年男のような陰湿な声で「女ぁ、女ぁ……」と鳴いている。豚のようなやり方で笑いながら、口からは涎を溢し、目は血走っている。それが少しずつ雅さんのほうへと近づく。卑小な動物の鳴き声のようだった男の言葉が、段々と人間の声に似てくる。
「俺はなぁ、ぐふぃッ! 俺はぁ女が好きなんだ。女、女、女。俺は尻と胸のでかい女が好きでなぁ」
もう雅さんから二メートルもない。
「尻と胸がでかいってこたぁよ~、あれだなぁ? 交尾したいってことだろう? 俺の子を産むんだよぉ。えへぅ、まぁ、産む前に俺が喰っちまうけどなぁッ!」
その男が雅さんの射程に入った。彼女は男の頭部に右廻し蹴りを喰らわせると、そのまま左で前蹴りを放った。男が無様に転がる。そして、立ち上がるとその陰茎を手で扱いて「女に触れた」と言うと先程まで触手の渦だった手脚がはっきりと現れ、身体はどんどんと大きくなっていく。
「今だなぁ、今使うんだ」
訳の分からない言葉を吐き捨てると、その猟奇的な泥の男は二メートル程の巨体となり、陰茎はますます太く大きくなり吐き気を催す邪悪な臭気を強化した。口元には大きな牙が上下に生えていて、淀んだ卑陋な呼気を漂わせる。血走っていた目は静まり、猥りがわしい笑みを湛えている。
「
そう吐き捨てた雅さんを見ると、右脚を抑えて蹲っている。さっきの蹴りのときに何かをされたのだろうか。時鷹が彼女に向かって動き出す。彼女の隣に跪くと、彼女のポケットからライターを取り出して抑えている手を退かして脚を炙った。
「
お前の冷静さも多少気色が悪い。しかし、恐怖と嫌悪の夥しい波の中で、俺たちは溺れていた。まるで普段通りだと、そういう風に振る舞いたかったのかもしれない。
肥った男は嗤う。そして、何かを叫んだ。叫んだはずだった。しかし、声は響かず彼の口は焦げたように黒ずんで、煙が立っている。
「黙れ、外道! おのれに名乗る権利などない! 何かを祈ったり、慈悲を乞うたりすることも許さないッ!」
それは
「すまん、遅くなった。この領域に入るときに弾かれてしまってな。場所は特定したから入り口の結界を無理矢理壊して入った」
彼は左腕に火炎を纏っている。そこから煙は出ていない。肥った男に対して半身を切って、右手を腰に当てている。その立ち姿は間違いなく英雄のそれであり、神のそれだ。日本刀や拳銃に見られるような機能美。存在の上位性を周囲に焼き付けるような美しさ。彼は、夏の日差しよりもずっと明るく、そして熱い。眩い光だ。
「おのれ、俺の人々を喰らっておいて、のうのうと生きていられるとでも? 不安ではなかったのか? いつかおのれを喰い殺す者が、こうして眼前に立つことが」
啖呵を切りながら、彼は雅さんの脚に触れた。するとどうやら具合が良くなったようで、時鷹が安堵の表情を浮かべた。
「タイジョウエン、貴様も人間を喰らうこともあるだろう」
肥った男は言った。
「なんだ、治したのか。俺はおのれとは違って同意なく喰ったり、喰らう前にわざわざ凌辱したりなどせん。一緒にするな、卑劣な外道が」
怒っている。彼が憤怒の色を見せることが、ここまで心臓を締め付けるとは。怖い。これは畏れだ。生まれて初めて、人ならざるものへの畏怖を感じた。きゅっと締まった心臓がばくばくと鳴る。冷や汗が止まらない。肥った男も、彼の目に射竦められて何も言えずにいる。彼が男に近づく。身長差はかなりあるが、彼の背中は雄大に見えた。力だ。圧倒的な力の差がある。
俺の背後から、何かが歩いてきた。牛のような身体で、人間の顔を持っている。今更、その程度に恐怖はない。それはとぼとぼと俺たちの前に来ると、一言告げた。
「若君の大前に申し奉る。若江雅の未来視は消え、若江時鷹と酒寄慧は力を得る。その力は必ずしも良きものと限りなし。これから凶星が瞬く。いあいあ、いあいあ」
それが終わると、その怪物は血を吐き悶え、耳を劈く悲鳴を上げて動かなくなった。これは
件が死んだのを見た
「
次いで、彼はそう言った。文字すら脳に刻まれるが如く、俺はそれを認識した。彼の左腕の炎が瞬時に大きくなり、やがてその中から一振りの刀のような物が現れた。彼がそれを袴の帯に差すと、炎は消えた。柄は赤黒く、鞘は葡萄茶色。彼が与える印象を具体化したような美しい打刀だ。
「下衆、おのれの四肢を今から削ぎ落とす」
怯えていた男はその刀を見て安堵したような顔になり、不敵な笑いを浮かべる。
「貴様もそれがなければ俺には勝てないということか。なんと卑小な。貴様には血と肉が足りないのだ。女を抱け。嫌がる女の服を無理に剥いで――」
言い終わるより先に、
「大丈夫か。先程は脚だけに気を取られたが、他に何もされなかったか? 雅、まだ未来は見えるか?」
雅さんは右目を閉じながら「大丈夫。脚だけだよ」と言って、少し経ってから続けた。動揺しているようだった。
「未来は、見えない。見えない……。どうしたらいい? 私、きみに貰ったのに……私、どうしよう。ごめんなさい」
彼女は泣き始めてしまった。あの肥った男を前にしたときよりも、脚を負傷したときよりも、ずっとずっと深く絶望している。彼女にとって、未来視は生きる手段として大きな重量を占めていたのだろう。先が見えてしまう絶望よりも、何も見えない不安のほうが、彼女を苦しめているのだろう。俺の祈りが正しくて良かったと、最低だと分かっていても思ってしまった。
「雅、俺も予言する。あそこで立ち尽くしてずっと何もしていないあの小僧は、お前の力になる。だから、大丈夫だ。……おい、貴様」
俺のほうを見る。
「貴様はこの子を護れ」
ありがとう。そう思った。拝命した。命じてくれてありがとう。俺の不確かで腹を括り切れていなかった想いを、肯定された気がした。俺で良いのか。俺が彼女を支えたいと思って良いのか。ずっと不安だった。きっと彼は全てを見透かしているのだろう。俺の想いも、彼女の本音も。
肥った男は藻掻きながら、残った腕で逃げようとしていた。
両手の爪を全て剥がし終わると、それを呑み込み、無言のまま彼は男の睾丸を素手で引きちぎった。もはや血液なのかも分からない何かが流れ出て、男は更に叫ぶ。その声は上空を飛び抜けたカラスさえ落とし、聞くに堪えない。俺はやっと歩き出し、耳を覆っている二人のほうへと近づいた。俺は雅さんを抱き締めた。頭を撫でて、俺の身体で彼女を包んだ。そうすると、彼女は寝てしまったようだ。
「慧、よく聞いていられんな」
耳を塞いだままの時鷹が、呆れた顔でそう言った。俺が発語しようとすると、彼は片手を退ける。
「これから雅さんは見えない未来を覚悟して生きなくちゃいけない。それに比べれば、俺が聞いているこの騒音も、俺にとっては些事に過ぎない」
そう教えると、彼は笑った。
「姉ちゃんを頼むぜ」
昼下がりだった。全てが終わった後に、携帯電話で日時を確認する。日付は変わっていない。あの夜は幻覚か、あの領域だけの時間だったのか。兎に角、山を下りる頃には、太陽が燦々と俺たちを照らしていた。雅さんは寝ていたのではなく、気絶していたようで、意識を戻すまでに一苦労した。最初はふらふらと歩いていたが、駐車場に戻ったときにはいつも通り「あー、煙草吸いてー」と言っていた。
来たときと同じように、俺と彼女だけが灰皿の近くにいて、時鷹は少し離れて俺たちを見ていた。
「なんか
「当たり前じゃないですか。俺は貴女が好きです。雅さんが良ければ、俺と付き合ってくれませんか」
俺は煙草を片手に、でも真っ直ぐ彼女の目を見てそう言った。前回は好意を伝えることしかできなかった。あのとき、彼女は俺を振ったのだろうか。俺は「付き合ってください」とは言わなかったし、彼女もそれに言及しなかった。彼女はあのとき、俺の曖昧さを優しく包んでくれたのだろう。
「いいよ。よろしくね、慧」
彼女は笑った。今まで誰も笑ったことがないくらい鮮やかに。
――【蛇の足】――
彼女の車の中、時鷹は珍しく眠っていた。彼女はアイスを片手にハンドルを握って。
「あのうるせー中だったし、私、意識朦朧としたけど、慧が言った台詞は覚えてるからね」
彼女は悪戯っぽく笑った。俺も、笑っていた。
世隣魔転 夜依伯英 @Albion_U_N_Owen
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