世隣魔転

夜依伯英

第一【禱験異界】

――【禱験異界とうげんいかい】――


 カップラーメンにお湯を注ぐ。人によっては、それは日常の光景だろう。俺はこの食べ物があまり好きではないから、これはちょっとした非日常だった。日常の中に非日常を見つけるのが好きだ。いつもと違うちょっとしたことに、大きな冒険が潜んでいるかもしれないから。

 俺はお化けだの妖怪だのを好いてはいなかった。それは非日常ですらなく、俺の生活に於いてはただの非現実だったからだ。あの日、彼と一緒にあれを見るまでは。



 その日も大学の講義をサボって、コンビニで酒と煙草を買うとネカフェに入った。出席数はまだ大丈夫だろう。まだ。それにしても、サボるという言葉はフランス語の 'sabotage' に由来するが、そのサボタージュという語には労働争議での同盟怠業や、雇用主を弱らせる為の破壊活動という意味もある。個人で講義に行っていないだけの俺は、それより幾分か偉いに違いない。

 そもそも、俺は趣味で大学に行っているのだ。高校生のときも、別に良い大学に行って良い企業に就いて······などと考えなかったし、今俺が通う大学は立派なFランだ。本当はボーダーフリーではないようだが、そんなイメージのところ。俺はそうした社会的な活動に享楽を幻想しない。家系ラーメンを食べるほうがよっぽど幸福だと思う。幸せになりたいのなら、良い大学に行くより家系ラーメンを「硬め・多め・濃いめ」で食べるほうが絶対に早くて確実だ。それが俺の宗教だ。

 俺はネカフェで一人、漫画を読んだりダーツをしたりすることが好きだ。社会から切り離されているような、心地の良い孤独感。友達がいないわけではないし、友達といる時間がしんどいわけでもない。遊びに誘われれば大抵は行くし、一般的に一人が好きだと言う人よりも俺はそうした社交を楽しめると信じている。

 三島由紀夫は、戦争で国家と共に死ねなかったことで、今までの絶対的な価値観を破壊され、日本人という集団への帰属を熱望した。俺はそういった淋しさを、理解はできるけどきっとずっと感じることはないのだろう。死が身近にあるとか、ないとか、そういうことではない。生温い社会でも、そうでない社会でも、俺は社会との精神的な繋がりや帰属を意志しない。そもそも、人間とは生物の一種に過ぎない。生物も無生物も、等しくビッグバン以来の法則的な流れの中で動いていだけだ。それを悲しいとは思わない。それは美しさだ。宇宙を全とするならば、一は全であり、全は一である。もしヤハウェのような性質を持つ神が存在するとしたら、これは神の祝福であり、全てのものにとっても幸福なのだ。

 俺はお化けがいたら良いなと思う。でも、お化けを見たことはない。所詮はフィクションに過ぎない。俺の人生に関わってこない。お化けがいたら良いな。そこには夢がある。神の祝福よりも面白い世界がある。今はお化けとか妖怪、それよりもきっとそれを信じているという蒙昧な人々を嫌っている。そういう話を、すぐに変なスピリチュアルにすり替える人々が嫌いだ。たとえば信仰上の出典すらよく明らかにならない呪文を唱えて幸せになろうとするとか、献金をすれば天国に行けるとか。お化けとか妖怪という話は、きっと素朴な物だったのだろうと思う。日本昔ばなしみたいに、素朴で綺麗な話だ。粒子だとか原子だとか、原子が結合した分子だとかの動きという無味乾燥な幸福の中で、人間が見出した幸せと不幸は、それはそれで美しい気もする。前者の幸福のほうが、俺は体感できるから好きだけれど、きっと後者も好きになれる。

 俺は科学を、観測可能範囲の現実世界に対して法則性を見出し、場合によっては役立てる方法を見つける人類の行為としてくらいしか認識していないし、それは法則性であって真理ではないと考えているが、同時に、科学が真理へと向かうものであってほしいという祈りもある。粒子の流れとしての宇宙という世界観の真理性を祈っている。科学的にどれほど偶然があり得るのかという点はさておき、偶然でも必然でも、人類が科学という道具を駆使して真理に到達してほしい、俺たちは、、真理に到達するのであってほしい。俺たち人類の進んでいる道は、黄金の真理でなくても、ドス黒い真理であっても真理へと続いていてほしいのである。

 お化けや妖怪などの非現実の実在への祈りも、科学の真理性への祈りも、どちらも同じ美しい祈り。



 一銭にもならない思考にも飽きてきて、なんとなく携帯を見る。メールが一件入っていた。送り主は、若江わかえ時鷹ときたかだ。いつ見ても小難しい名前だと思う。先祖は公家か何かなのか。たとえそうなら、なんとなく癪に障る。送られてきた文章はこうだ。

『今暇だろう? 肝試し行こうぜ』

 俺は『昼間に肝試しに行く馬鹿がどこにいるんだ』と打って、最後に『どこ集合?』と付け加えて送った。


 時鷹は高等遊民と自称して、大学入学を延期させて遊び歩いている男だ。実家が太いのかバイトもせず、こうして俺を誘い出しては下らないことをする。

 彼も、享楽を知る人間だ。ある日「俺は神に愛されている」と言い出して、気分が良いからと俺に焼き肉を奢った。三日後には金を返せと言われたが、俺がメールを返さずに二日ほど経つと『俺が悪かったから、許してくれ』と喚いていた。普通の人なら、きっと許さないと思う。酷く緩慢に、許さないということをする。

 しかし、俺は彼の言う「神からの愛」を知っている。俺はその形式で得たことはないが、それは享楽だ。通常の快楽とは質的に異なる感覚。俺は、世界が俺と共に流れていると感じる。この宇宙の物質の全てが、俺を含んで働いている。俺や、隣の家の名前も知らない女や、大学の胡散臭い准教授、俺が持っている携帯電話、煙草、その辺の道に咲いている花、まだ季節ではないが蜻蛉、そういった全てが一つの集合として、この宇宙に帰属し、我々人間が物理法則として見出したようなルールに基づいて動いている。

 そうした感覚を、一般の幸福とは質的に異なる幸福だと、享楽だと知っている。それが、彼にとっては「神に愛されている」ということなのだろう。俺はその具体的感覚を知らない。しかし、その感覚の種類を知っている。だから、俺は彼が好きだ。彼がどうだかは知らないが、勝手に同志のようなものだと思っている。


 待ち合わせ場所の喫茶店に五分遅れて着く。当然、彼はまだ来ていない。注文した珈琲が出てきた頃、彼は悪びれもせずにやってきて「やあ」と言った。彼も珈琲を注文したが、出てくる頃には俺の方は冷めていそうだ。

「今日は冷める前に来たな」

 俺がそう言っても、彼は気にしない。早かったのだから奢れとまで言う。奢るわけがないだろうと返すと、「だよねぇ」と笑った。

「それで、今日はなんだ」

「だから、肝試しだって。メールの内容も忘れるようになったか?」

 俺は睨んだ。彼はペットボトルの水をがぶがぶと飲むと、続けた。此奴がツラの良くない男だったら、殴っていたところだ。

「兎に角、お前の大学の近くになんか山があるだろ。あの山をある決まった道順で登るとアガリビトが見られるらしい」

 アガリビトとは、山の怪の類で、もともとは人間だが捨てられたとか山に魅入られたとかで野生に返った奴のことだ。常に裸らしい。ただの変質者なのではないかと、俺は思っているが、どうやら遭遇するとアガリビトになってしまうらしい。ではどうして発見例が報告されているのだろうか。

「あ、中途半端なアガリビトだとアガらないらしいから」

 見透かしたように彼は言う。

「それに、お前はどっちかというとアガリビト側だろ。人間より。いや、まあ、俺もか。もし本当なら、中途半端でも俺たちはアガるかもな」

「おー、そうか。で、失敗して他の道順になるとどうなるんだ······ん、あ、普通に登山するだけか」

「いいや、アガリビト目的で登って失敗した奴らはみんな、揃いも揃って幽霊を見たって言ってるんだ。そもそもあの山にはアガリビト云々とか幽霊が出るとかの怪談はない。最近になって急に広まった噂だが、登った奴らが見たと言った幽霊の話は、元の噂には少しも含まれていないんだ。俺が話を聞いた奴らは、それぞれに関係はない。俺の後輩の女の子とその彼氏くん、俺の弟の同級生、それから友達の兄貴と彼女さんだ。ああ、弟の同級生だけは、登った友達が他にもいるらしくて、それぞれが別々に登った後でどうだったかを開示し合っていたら、どちらも幽霊を見たと言って驚いたって言ってた。まあこれは、どっちかが合わせただけの可能性もある」

「でも、その二人のどっちかが合わせただけ······にしては関係ない他の人らも見ている、というわけだな」

 この怖い物知らずは、この不気味な捻じれの正体を明かそうとしているのだ。本当に山で見られるのはどちらなのか。何故アガリビトなんて話が出たのか。幽霊だけでも良かったはずだ。実際にアガリビトを見たという話は、この感じだときっと殆どないのだろう。それなのに、どうしてかアガリビトの話だけが広まって、幽霊の話だけは誰も拡散しないのだ。

 彼は、基本的に嘘をつかない。俺は幽霊とかお化けとか呼ばれるものは信じないし、アガリビトも当然信じない。それでも、彼がここまでの虚言を吐くとは思えない。少なくとも、見たと言っている人たちがいるということは真実なのだろう。


 非現実が非日常へと変わろうとしていた。普通、人間は変化を恐れるものだ。非現実は非現実のままであってほしいと願うものだ。

 俺が偶に、宗教的なものや、オカルトや、スピリチュアルが在ってほしいと言うのは、ある種の祈りだ。現実の無機質さを、粒子の流れとしての宇宙を一般より著しく感じている自覚がある。それ故に、そうでないものを祈っているのである。そうだ、これは祈りなのだ。世界が斯くありますように。美しさを。非日常を。

 アガリビトは、その美しさを感じたのだろうか。

 人間の意識など妄想である。所詮は、物質の働き、脳の処理の結果でしかない。それ以上のものではないはずなのに、それ以上のものに感じる。ただの生殖行動に、愛を感じる。人間とは、そういう生き物だ。そうであってほしい。俺は祈る。それは確かに美しいものであるはずだ。


 俺たちは、どちらも自動車免許を持っていない。自閉症の二次障害でパニック発作を起こしやすいから、免許は取れなかった。彼が免許を持たない理由を訊いたことはないが、もしかしたら単に車に興味がないのかもしれない。バスと電車があれば、この地で日常生活で不便はしない。

「姉ちゃんに頼むか」

 彼がいつもの提案をし、携帯を持って席を立った。俺たちが日常生活圏外へ遊びに行くとき、大抵は彼のお姉さん、みやびさんに運転を任せる。彼女は俺たちと一緒に遊ぶこともあれば、迎えの時間までどこかをふらふらとしに行くこともある。俺は彼女が好きだ。


 一度だけ、想いを伝えたことがある。いつもどこか遠くを見ている彼女が、そのときだけは俺の目を見て、悲しそうな顔をして言った。

けい、ありがとう」

 その声は柔く優しすぎた。全てを失ったように大泣きした俺を、包み込むように抱き締めてくれて、それが温かくてつらかった。

 経緯いきさつを話したときの時鷹の反応は簡素なもので、「ドンマイ。頑張れ」だけだった。今から何を頑張れと言うのか。頑張れという言葉は、せめて告白する前に言うものではないのか。それでも、俺は彼の淡白さをありがたく思った。同情されても、慰められても、ただ惨めな気持ちになるだけなのは間違いない。

「そういや、慧、お前さ、姉ちゃんに振られてたよな」

 こうして何度もからかってくるのだけは少し腹が立つが、そんなに気にするような大きな悲劇でないと伝えてくれている気がする。


 少しして、雅さんが迎えに来た。彼女はこれから山に向かうというのに白い無地のTシャツにホットパンツという格好で来て、髪は以前よりずっと伸び、夏の日差しがその黒を輝かせていた。

「今日は私もついていく」

 俺たちが車に乗り込むと、有無を言わせぬ態度でそう言い放つ。

 彼女は未来が見える人だ。「未来が見える」という意識への現れ方をしているが、恐らくは五感が鋭く、その上賢いために鋭い先見の明を発揮するのだと、俺は理解していた。


 以前、彼女の運転で初日の出を見に行こうという話になり、近場の高台になっている場所を目指した。俺は助手席に乗り、時鷹は後部座席でチェスをしていた。度々車が揺れるので、彼は盤面が崩れないように苦心していた。そんなことなら自動車の中でチェスなどやるな。彼のことだから、きっと頭の中でもチェスくらいはできる。それを指摘すると、彼は拗ねた子どものように言い返す。

「いや、だってチェスって駒が格好良いんだよ。将棋もそうだけど、物体としてそこにあるのが俺は好きなんだ。他の人は知らんけどさ」

 俺たちの会話を遮って、雅さんが言う。右目を閉じている。何かを思い出そうとして片目を閉じるのに似ていた。

「ちょっと道変える。事故る」

 俺はそれまで彼女の能力について懐疑的だったし、正直精神疾患の類だと思っていた。俺自身も精神疾患、精神障害を持つこともあり、当時は「あの人風邪じゃないか」くらいの軽さで、他者に対して心中で精神疾患を持っているのではと見做すことは多々あった。俺は十七歳だった。

 その日、俺たちが辿るはずだった道路で交通事故が起きた。大型トラック二台の衝突に、ちょうど俺たちが乗っていたような乗用車が巻き込まれて、乗用車に乗っていた三人が死傷したと、地元テレビ局のニュース番組でやっていた。

 俺は、彼女には何らかの方法で大きな事件や事故、トラブルを予測する力が確かにあるのだと確信した。何故なら、そのような事故の回避はこれで三度目だったからだ。きっと、プロセスは科学的に説明がつく。あり得ないことではないはずだ。そう思った。


 今回も、俺が助手席に乗った。時鷹は雅さんとの関わり方をよく分かっていないようで、姉弟だが二人きりでいるところは見たことがない。いや、普通の兄弟姉妹はある程度の年齢になると一緒にいたがらないものなのだろうが、それにしても彼は彼女を避けていた。

「慧くん、アイスはぁ?」

 彼女は俺が大学をサボって遊んでいることよりも、自分が呼び出されたのにアイスが用意されていないことを詰る人だ。

「今日めっちゃ暑いじゃないすか。アイスなんか買って待ってたら溶けますよ」

「じゃあ、しょうがにゃいなぁ」

 俺は彼女の職業と年齢を知らない。


 時鷹は電話で彼女に場所と目的を教えていたらしく、彼女は目的地を訊くことなく車を出した。相変わらず、テンションの高低差が激しい割には丁寧な運転だ。

 俺はずっと、助手席から眺める彼女の横顔が好きだ。告白をした後、彼女の車に乗ったときに「私の横顔好きなんだろ。見てて良いぞ」と許可を貰った。彼女の瞳は明るい茶色で、濡羽色の髪の毛とのコントラストが映えていた。髪を視線で追って、それが流れた胸をつい見てしまう。きっとこれも見透かして、その上で許してくれている。彼女は自分の魅力を分かっている女性だ。ホットパンツに in したTシャツが胸のところで大きく張っている。彼女の汗ばんだ首元から流れる曲率半径の大きい曲線が、健全な男子大学生にはどうにも煌めいて見えた。ホットパンツから伸びる白いふとももが眩しい。

 彼女の未来視が、本当に「未来視」だったら良いのに。そうでありますように。


「姉ちゃん、そういやなんで来るって?」

 急に時鷹が喋った。振り返ると彼は座席に脚を乗せて横になって座っていた。

「行かないと私が死ぬ」

 彼女は唐突に、でも当然のことのように言った。そして俺は思った。彼女は自分の死を予測できるのか。予測したとしたら、どんな気分なのか。自分の死を、脳の表現に過ぎないとはいえ、それを見る気分は。彼女が俺を見ているのに気が付いた。彼女は優しく微笑んだ。時鷹は「あっそ」と呟いた。

 ふんわりと、普通でない現象を信じている。日本人らしいという言葉は、昔は好きではなかった。それでも、これを日本人らしいと感じる。俺は柔らかに、彼女のために祈っていた。

「トッキー」彼女は時鷹をそう呼ぶ。「正しい順路なら私が分かるよ」

 彼女は楽しいのか悲しいのか不安なのかどうでも良いのか分からない表情だ。そして煙草、煙草と呟くと窓を開けて火を着けた。キャスターの甘ったるい匂いが車内に充満する。時鷹は煙草の匂いを嗅ぎ分けられないらしい。「等しく有害で臭い」と評していた。


 暫くすると、麓の駐車場に着いた。山といっても、そこまで険しい山ではない。だからこそ、山の中の怖い話に対して果敢に挑戦する人たちが存在するのだろう。昼下がりのうざったらしい日差しが木々の隙間まで照らしている。駐車場にあった喫煙所――というよりただそこに置かれているだけの灰皿に、俺と雅さんは寄っていって、時鷹は車側に留まった。

「慧くんがこういうのを信じてないのは知ってるし、それは理性的で一般に正しいとされることだとも思うよ。でも、今回はちょっとやばいかも? 霊感女だと思われたくはないんだけどなぁ」

 既に充分思っていますよ、と言いたいところを堪えて煙を吐いた。

「前にさ、私のこと好きって言ってくれたじゃん。まだ好きでしょ。今回無事に終わったら――」

「やめてくださいよ。死亡フラグみたいなので」

 死亡フラグは縁起が悪い気がする。縁起の良いも悪いも信じてはいないが、快不快には繋がるとは思う。それに、俺はこんなよく分からない流れで彼女と付き合うのは嫌だ。せめて、分かるようになれれば。

 酒寄さかよりけいはそう思った。

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