第40話


「コーヒーってやつは温度が重要なんだってさ。たった1度違うだけで味は随分変わるし、豆のき方によっては温度も変わってくる。ブレンドなんて始めたらもう地獄だよ。まるでパズルさ」


「ふんふん……」


 98度のお湯でゆっくりコーヒーを抽出する比奈埼。まるで円を描くように外側から内側へと注ぎ、フィルターから溢れそうになったら注ぐのをやめる。これを2セットのうちに収めるのが理想なのだそうだ。


 フィルターから流れ落ちる透き通った黒が透明なポットに溜まっていく。宵歌はそれを一心に見つめていた。


「コーヒーを淹れるのってたったこれだけの簡単な事なのにさ、下手くそがやるとすっごくまずくなるのなんでなんだろうね?」


「簡単だからだと思います。シンプルだからこそ奥深いというか、どれだけ真剣にコーヒーに向き合っているかが分かるというか」


「穂澄さんも似たような事を言っていたよ……さて、できたよ」


 コーヒーの一番美味しい飲み方は淹れたてを飲むことだという。


 コーヒーの成分は沈殿しやすく、10秒も経たないうちに苦みと酸味が分離してしまうのだそうだ。


 カップに注がれたコーヒーは透き通るような美しい赤色をしていた。芳醇ほうじゅんな香りが鼻腔を膨らませる。


 宵歌はおそるおそる手に取るとジッと見つめた。


「コーヒーってすぐに味が落ちちゃうんですね」


「うん。店で飲めるものなんて淹れてから10秒以上経ったものしかでてこないだろ? だからもったいないよね」


「…………」


 時間が経てば美味しさが沈んでしまうなんて恋みたいだ。と宵歌は思った。


 恋は初めの頃が一番楽しいだなんてよく言うけれど、その頃は憧れや恋慕や恥ずかしさやカッコつけたいという気持ちがごちゃ混ぜになって、自分でも知らない一面が見えたりするから楽しいのだろう。


 時間が経って気持ちが落ち着き、相手の事が見えてくるようになれば憧れが覚めたり恥ずかしさが無くなったりカッコつけなくても良いと知る。本当にその人に恋をしているかどうか。それは味が落ちてからでないと分からない。


 宵歌は自分の気持ちに自信が無くなっていた。


 自分は今も恋をしているのだろうか?


「でも、味が落ちても美味しいんだからすごいよね」


「……え?」


「僕は時間が経っても気にしないけどな。コーヒーは味が落ちたってコーヒーだよ。マシュマロとかクッキーとか甘いものと一緒に食べれば分かんないしね」


 カウンターの裏に残ったマシュマロを一つつまみ比奈埼が口に放り込む。それはちょうどキウイ味のマシュマロ(素材そのまま風味)であった。「……これはいささか甘みが足りないけどね」


 思わず顔をしかめた彼を責めてはいけない。


 宵歌は比奈埼の言葉に驚いていた。まるで心を読まれたかのような言葉もそうだが、マシュマロと一緒に飲めば分からないという言葉が衝撃だった。


 成分が沈殿して苦みと酸味が剥離したコーヒーも、甘いものと一緒に飲めば美味しく感じられる。


 これを宵歌は、沈殿した恋心も何かのイベントがあれば刺激的に感じられると解釈したらしい。


 そのイベントとは、夏祭り。


 ちょうど来週に迫ったこの地区伝統の夏祭りである。


「夏祭り……もうすぐですね」


「ん? そうだね。それが?」


「比奈埼さんは穴場ってご存知ですか?」


 比奈埼は変な顔をした。「穴場って?」


「あ、あの! たとえばこう、花火がよく見えるとか……2人きりで過ごせるとか……そういう穴場です!」


「………ああ、そういうこと」


「別にそんな意味じゃないんですよ!? ただ、その………」


「…………」


 宵歌は顔を赤らめて俯いた。


 庭に面した窓からはカフェの外で話す僕達の姿が見えた。


 比奈埼は何かを察したのか「ははーん」と顎を撫でて宵歌をチラッと見た。


「だからそういうんじゃないですって!」


「いいよいいよ。穴場くらい僕が用意するさ」


「用意って……?」


「僕、運営だからね」


 会場の立地から出店の位置、順番まですべてが頭の中に入っている。


 比奈埼はどこか良い場所があったかと思案を始めた。


「あれ、なんか、そこまでしてもらうつもりじゃ……」


 宵歌は親身な対応に驚きながらも彼の優しさを嬉しく思った。


 子供のときから大切に抱えてきた気持ちを伝える時がくる。忘れていたドキドキがふいに蘇ってきて、まるで、小学生のころに戻ったような気分だった。


「宵歌も、いつまでも立ち止まっていられない」


 そう言ってコーヒーに口をつけた。


 時間が経ったコーヒーはとても苦かった。


「うへぇ………」

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