第39話


「あー、そうだった」


「忘れていたの?」


「いえ、違うんですけど……その、勉強をしておくのを忘れていたので。式の進め方とか、作法とか」


「そんなのあたし達が教えてあげるわよ。りつさんがいないとできないんだから、帰ってくるわよね?」


「そうですね。前日には帰ろうと思うので16日くらいでしょうか」


「分かったわ。それなら私達が迎えに行くから準備しておいて。宵歌の荷物もついでに持って帰っちゃうからまとめておいてくれるかしら?」


「え、帰るんですか?」


「夏休みだけって約束だったからね。そもそもお父さんは反対してたし、もうそろそろ帰ってきてくれないと困るわ」


 そんな話をしていると一ノ瀬さんがカフェから出てきた。僕は「またあとで相談しましょう」と慌てて切るが聞かれていたらしい。


「誰と話していたの?」と一ノ瀬さんが訊ねてきた。


「宵歌のお母さん。来週には帰って来いってさ」


「なんで?」


 僕は少し言葉に詰まったが隠しても仕方がないので「両親の一回忌なんだ」と答えた。


「りつ君の?」


「うん。こっちに迎えに来るらしくて、宵歌もその日に帰る事になったから」


 こっちに来る当初は2学期以降も残ると言っていただけに意外だった。あの宵歌が家を飛び出したなんて考えづらいが、この食い違いはどういう事なのか。


 一ノ瀬さんは何かを知っているらしく不自然に押し黙った。


「まぁ、だから、ここのバイトももう少しでやめてもらう事になるかな。楽しそうにしてるのに、申し訳ないけど」


「…………りつ君は、それでいいの?」


「ん?」


「やりたい事を見つけたんだから応援してあげるべきだって、このまま帰っても良いって思ってるの?」


「えっと、一ノ瀬さん?」


 眉根をよせて難しい表情を一ノ瀬さんはした。つい数日前まで宵歌をライバル視していたのにすっかり味方についているようだ。この変化の裏に何があるのか分からないけれど、大宮さんも何かを知っている様子だった事を思い出した。


「宵歌が何か言っていたのか聞いても?」


 僕はそう訊ねたが一ノ瀬さんは怒ったようにそっぽを向いてしまった。「自分で聞け!」


「…………」


     ☆☆☆


 一方その頃。


 アメシストでは比奈埼が宵歌の仕事ぶりを見ていた。彼の役割は宵歌の指導である。ひょろひょろして頼りない彼でも責任感はあるのか、接客、調理、会計を済ませる宵歌をむつかしい目で見つめていた。


 そこへ大宮さんが声をかけた。


「や、彼女の仕事ぶりはどうだい?」


「……僕よりしっかりしているように見えます」


 彼がそう答えると大宮さんはカラカラと笑った。


「ま、老舗旅館で幼い頃からお手伝いをしていたらしいからね。少し硬い所はあるけど文句はないよ」


「ならなぜ僕は呼ばれたんですか」


「そんなの知らないよ。あの人が君を勝手に寄越よこしたんだから」


「………………」


「ただ、君に新人を育てる経験をしてほしいとは言っていたかな」


「僕の方が教わる事が多そうですけど」


「さぁさ、こんなところで突っ立ってないで指導してきなさい。先輩らしく」


「はぁ……」


 肩を叩かれた比奈埼はしぶしぶ宵歌に近づいて一言二言アドバイスをした。それはほんのささいなどうでもいい指導だったけど宵歌は真剣に聞いてるようだった。


「ま、僕がこんな事を言うのもおこがましいけどさ」


「そんなことないです。アドバイスありがとうございます!」


「そう正直に頭を下げられると……困るなぁ。たいしたこと言ってないのに」


 なんでこんな事をしてるんだろうと言いたげなやる気の無さである。比奈埼は宵歌のやる気溢れる様に気おされているようだが、宵歌はそんな事もつゆ知らずぐいぐいと距離を詰めた。


「あの、コーヒーの美味しい淹れ方って知ってますか?」


「いや、知らない。穂澄さんにも怒られてばかりだし」


「それでも宵歌よりも上手ですよね、たぶん。教えていただいてもいいですか?」


「ええ……?」


 客足も落ち着いた午後3時の事である。


 比奈埼はしぶしぶコーヒーを淹れてみせた。

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