第38話


 これは試作品だけどと断ってから宵歌がクッキーを持ってきた。見たところプレーンなクッキーのようだが表面が妙にテカテカしている。何かでコーティングしているようだ。


「マシュマロを作った時のゼラチンが余ってたからオレンジの果汁を加えて塗ってみました。どう?」


「え、美味しそう!」


「でしょ? マシュマロは失敗したけどこれなら食べられると思うんだ」


「じゃあひとつ……」


 僕はクッキーを一つ手に取ってみた。ぺたぺたと手に吸い付く。まるで塗りたてのペンキのような手触りである。


「本当に食えるのか……?」


「ちゃんと甘さ控えめですよー」


 匂いを嗅いでみるとたしかにオレンジの香りがする。香ばしい小麦の匂いと混ざり合って食欲をそそるようである。僕は恐る恐る口に運んでみた。


「……………」


「………どう?」


「……たぶん、生地に練り込んだ方が美味しい」


「……やっぱり?」


 宵歌がお菓子を作っている所など見たことが無いが、バレンタインデーの時などはチョコレートを手作りしていたようだから、簡単なものなら作る事が出来るのだろう。材料と道具が揃っている事で創作意欲が刺激されたものと思われる。


 このクッキーはお世辞にも美味しいとは言えないが、これも成長のための貴重な経験だ。


「参考までに、どこがダメだったのか教えてくれる?」


 宵歌が首筋を軽く搔きながら言った。自分でも成功しているとは思っていないらしい。


「ゼラチンが口の中にひっついて上手く嚙み切れない。ふやけた海苔を食べてる気分だ」


 クッキーのサクッとした食感がゼラチンのせいで台無しになっていた。歯を立ててもムニッと曲がるだけで割れてくれない。何とか噛み切ったら今度は口の中にへばりつくのだ。


「やっぱりぃ? クッキーを焼いた後に思いついたんだよねーー。はあ、しかも焼いた直後に塗ったからぜんぜん固まらないし……ほんとさいあくー」


 半ば自嘲気味に語るが後ろ暗さは感じなかった。むしろ、次の案が浮かんでいるときの失敗の認め方であるように僕は感じた。


「楽しいか?」と訊ねるとすぐに頷いた。「楽しい」


 それなら何よりだ。


「ね、これおかわりないの?」


「うん?」


「このクッキー。コーヒーと一緒に食べると美味しいよ?」


 信じられない。テーブルの上に目をやると一ノ瀬さんが完食していた。量がたくさんあったわけではないが食べづらいし完食はムリだと思っていたのに。


「クッキーの甘さとオレンジの酸味が絶妙にマッチして、コーヒーの苦みの中に溶けていくようだったわ」


 お上品に口元をハンカチで拭ってはいるが無理をしているのが見え見えである。表情はどこか険しいし、なにより口元を拭く手が震えていた。


「わ、完食したの!? うそ!」


「作った張本人が驚くなよ」


「だってまさか1人で食べきるとは思わなくって……」


 そうこうしていると大宮さんが比奈埼を連れてやってきた。「宵歌ちゃん、ちょっといい?」


「あ、はい! お仕事の勉強ですか?」


「ううん、比奈埼を紹介しておきたくてね」


 大宮さんが促すと比奈埼が口を開いた。


「この前ちょっと喋ったよね。比奈埼じゅんって言います。普段はトパーズでアルバイトしてるんだけど、穂澄さんのありがた迷惑……じゃなくて、提案でしばらくアメシストの手伝いをする事になりました。よろしく」


「小海宵歌です。アルバイトってやった事がなくて、不安な事もあるんですけど、比奈埼さんが教えてくれるなら安心です。よろしくお願いします」


 宵歌が深々と頭を下げた。一見良好に見えるけれども、やっぱり比奈埼は信用できない。一ノ瀬さんではないけれど見張る必要があるように思った。


「ここの事ならたぶん僕の方が詳しい。宵歌。何だって聞いてくれていいんだよ」


 そう声をかけようとした。


 その時。突然僕のスマホが着信を告げた。


「……伯母さん?」


 僕は4人に断ってから席を立ってカフェの外に出た。


 いったい何の用であろうか。この間宵歌に送ったメッセージの事か。それか宵歌の様子をこっそり訊こうと思ったのか。「はい、もしもし」と電話に出ると、そのどちらでもない事がすぐに分かった。


「一回忌はどうするの? 当然こっちに帰ってくるのよね」


 偶然にも、夏祭りの日は両親の命日と同じ日であった。

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