第37話
「はあ、夏祭りが近づいてくる……」
比奈埼がとつぜんため息をついた。
「いやだなぁ……面倒くさいなぁ……」
「急にどうしたんです?」
「いやね、そこのポスターみたら嫌な事を思い出しただけだよ」
夏祭りのポスターである。この地区の伝統の祭りらしく同じものを都市部でも見た。日付を見ると13日に開催となっており、もう来週に迫っていた。お笑い芸人や近隣の高校の生徒がステージに立ったりするらしい。
「これがなにか?」僕が訊ねると比奈埼はまたため息をついた。
「穂澄さんがさぁ、何事も経験だ! とか言って僕を実行委員会に紹介しちゃったんだよ。おじさんばっかりのむさくるしい所にさ。どこでも人手不足なのかすぐに採用されて出店の管理とか説明会とか任されちゃって本当にイヤになるよ」
「はあ、忙しいですね」
「忙しいなんてもんじゃないよ……おかげで夏休みがほとんど無くなったんだから」
夏祭りに出店する企業向けの説明会をしたり、出店する企業の申請を取りまとめたり、会場を割り当てたり、とにかくやる事が多いのだという。何事も本番よりも準備する方が大変だ。さすがに祭りの裏方をしたことは無いけれど、イベントのスタッフはいつも慌ただしそうな印象がある。
「ま、僕の仕事はほとんど終わったからいいんだけどね……」
しばらく歩くうちにアメシストが見えてきた。
今日は客が少ないと見えて、鼻歌を歌いながら宵歌がお菓子を作っていた。
彼女がお菓子を作っている姿を僕は見たことがない。部活や家業の手伝いで手一杯で空いた時間は宿題や予習復習に使わざるをえなかったのが去年までの僕たちだ。お互いの事を知っているようで、実は私生活の事は何も知らなかったのかもしれない。
「えへへ、美味しそ~~」
ピンク色のマシュマロのような物体を口に放り込んで頬を緩める宵歌は別人にしか見えなかった。
「……あんな顔をする事があるのか」
僕には少々意外だった。
☆☆☆
比奈埼を送り届けるという任務は達成した。後は当事者たちで勝手にやってくれという気持ちだったが一ノ瀬さんは納得せず、
「彼が宵歌ちゃんに手を出さないか見張らなきゃ」と、席に着いて注文を取り始めた。
なぜこうも気持ちがもやもやするのか分からない。楽しそうな宵歌を見るとどうにも胸が曇る心地がする。なぜだ。彼女が生き生きしているならそれで良いではないか。僕はこんなにも狭量な人間だったのか?
メイド服をヒラヒラさせる宵歌が別人に思えてならない。
「ねえ、比奈埼さんは大宮さんに預けたんだし、もう良いんじゃないかな」
「何言ってるのよ。彼が宵歌ちゃんの教育係になるんでしょ? だったらなおさらキチンと見届けなきゃ。何事もはじめが肝心なのよ?」
「はあ……」
一ノ瀬さんはもう何度も通っているらしい。メニュー表も見ずに手をあげて宵歌を呼んだ。彼女はすぐに来た。
「いらっしゃいませ~~~ってあれ、一ノ瀬さんとりつだ。どしたの?」
「宵歌ちゃんの働きぶりが気になるんだって」
「え、ほんと?」
「………まあ」
「あはは、先輩ぶってる」
口元に手を当てて宵歌はクスクス笑う。
「別に心配してたわけじゃないぞ。ただ、一ノ瀬さんがどうしても行こうというから」
「はいはい、そういう事にしておこうかな」
「だから僕は……まあいいや。コーヒーと適当にお菓子をつけてくれ。一ノ瀬さんは?」
「あ、あたしも同じのでいいよ」
「は~~い。コーヒーとお菓子ね。ちょうどクッキーを焼いたからそれでいい?」
「うん」
注文の取り方はすっかり板についていた。接客のいろはは旅館で学んだとはいえカフェとは勝手が違う。「もうすっかり慣れてるな」と僕が言うと宵歌は「でしょ?」と答えた。「ここすっごく楽しいからさ。働いてるのに何してもいいなんてさいこーじゃん!」
僕が働いていた時分もそうだった。
大宮さんは言えば何でも用意してくれる。なぜそんなに良くしてくれるのかと問うと決まって「やりたい事があるならやるべきだ。大人が子供の自由を奪っちゃいけない」と答えるのだ。
その自由なスピリットが宵歌に引き継がれんことを願うばかりだ。
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