第36話
電話は穂澄さんからであった。
「はろーはろー。比奈埼はそっちに着いた?」
「あれ、ほずみんどしたの? 比奈埼ってあのバイトの子? なら来てないよ」
「え、本当? あんた迎えに行ってたんじゃないの?」
「え?」
大宮さんは宵歌を振り返った。何か聞いてる? と視線を向けるが宵歌は当然首を振った。
「迎えってなんのこと?」
「あんたねぇ………」
受話器越しに穂澄さんのため息が聞こえる。
どうやらあの大学生は宵歌の教育係としてアメシストに派遣されたらしい。マンションで待ち合わせる約束だったのを大宮さんがすっぽかしたせいで待ちぼうけをくらうはめになったのだろう。
「ほら、新人教育ってする方もされる方も大変だろ? アイツにも経験させてやりたくてさ。あんた、最近新人を雇ったって聞いたから」
「ああ、比奈埼から聞いたんだ。そうそう。宵歌ちゃんって言って、めっちゃくちゃ可愛い子だよ」
「あんたは何でも可愛いって言うからなー。ていうか比奈埼はまだ着いていないの? あんた迎えに行ったんじゃなかったの?」
「忘れてた」
「やっぱり……ま、いっか」
穂澄さんも大宮さんに似て適当な人である。2人はそろって笑うと雑談を始めた。この師匠にしてこの弟子あり。大宮さんの自由人スピリットは師匠である穂澄さんから継承されたのである。
手持ち無沙汰になった宵歌は午後の準備をしておこうとお菓子を作り始めた。
「ああなると長いんだよね……。ま、いっか。今日はお客さんも少ないしゆっくり準備しよ~っと」
お鍋の中に水を入れてゼラチンを溶かす。砂糖と一緒に混ぜ合わせておいて、ボウルに卵白を泡立ててそっちにも砂糖を入れる。お菓子作りは本当に科学だと思う。これがマシュマロの作り方だというのだから驚きだ。
今日はクッキーとマシュマロを作るらしい。昔からずっとお菓子作りがしたいと言っていた宵歌は今の環境が楽しくてしょうがないようで、鼻歌などを歌いながらクッキーの生地をこねてクッキングシートに並べていく。
「比奈埼さんってこの間の人だよね。あの人がここに来るのかな。どうせ教えてもらうならりつの方が……いや、りつには頼らないって決めたんだ。いつまでも甘えてちゃいけない。宵歌も変わらなきゃ」
宵歌は変わろうとしていた。
彼女がバイトを始めた理由は分からないが今の姿を見れば容易に想像がつく。本当の自分を見つけて、自分の人生を歩みたい。
夏の間だけしか居られない理由も忘れて、彼女はバイトに没頭していた。
彼女が変わってしまう事に寂しさはあるが喜びもある。
自分で考えて行動するようになれば宵歌はもっと綺麗になるだろう。いままで我慢していた分、たくさんの事に手を出してたくさんの経験をして、その一つ一つが宵歌の中に積み重なっていくに違いない。
知識や経験を積むことは人間性に化粧をするようなものだと僕は思う。
自分の考えていた事だけが正解ではないと知ればいろんな考え方を受け入れる柔軟さを得られるし、知識があれば物事の見方が変わる。
様々な経験をすればそれだけ人間性に深みが出てくる。そうして人は大人になるのだろう。
宵歌は大人になりたいのだ。
それを僕のわがままで台無しにしてしまうのは、幼馴染として失格だ。
「わっ、膨らんできた。おいしそ~」
僕は幼馴染として、従兄として、宵歌の意思を尊重すべきであろう。
色とりどりのマシュマロが出来上がった。ほのかなピンク色、オレンジ色、緑色、果物の果汁を絞って色を付けたのである。宵歌はそれらをトレーに並べて満足そうに頷いた。
「ほほぅ、我ながら良い出来ではないか。どれどれ味見を……」
ピンク色のマシュマロはサクランボ味である。宵歌はそれを一つ口に入れてみた。
砂糖の甘みと
「……今度はジャムをいれてみよ」
お世辞にも美味しいとは言えない野生の味がする。これを商品として出すならサクランボの味をもう少しマイルドにする必要があるだろう。しかし宵歌にはもう改善策があった。
こういう失敗も貴重な経験である。創作のアイデアが次から次へと溢れ出てくることが宵歌には意外であった。
自分はこんなにクリエイティブな人間だったのか。
「でさ、来週は夏祭りじゃん。ほずみんはなんかするの?」
「……大家さんまだ電話してる。これ。ジャムを注射器で中に入れたたらいい感じにならないかな」
そもそも注射器があるのだろうか。大宮さんなら持っていても不思議ではないが、宵歌はどこかにあるものと決めつけて探し始めた。
「夏祭りかぁ……りつ、一緒に行ってくれないかなぁ……」
僕たちがアメシストに着いたのは宵歌がマシュマロを作り終えた頃だった。
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