第35話


 エントランスに降りると、やっぱり比奈埼が困った顔をしていた。今日も穂澄さんのお使いだろうか? きょろきょろと辺りを見回している。僕が「何やってるんですか」と声をかけるとパッと顔を上げた。


「ああ、君か」


「大宮さんならカフェですよ」


「嘘だろ? ここにいるって聞いたのに……」


 あの自由な人が約束を守るわけがない。このマンションの住人は大宮さんに用事がある場合まずカフェへ行く。


「あなたは大宮さんという人を甘く見ている」


「……なんでマウントをとられてるんだろう」


「カフェの道は覚えているでしょう? 僕に苦情がくるんで早く行ってもらって良いですか」


「………納得がいかない」


 比奈先はあまり信用できない男である。なよなよしてて自信がなさそうだし、目もどこを見ているか定かではない。アーガイル柄のジャケットにジーパンという出で立ちが線を細く見せるせいで頼り無さが際立つとも言える。


 一ノ瀬さんの目にはどう映っているのだろう? 物怖じもせずに歩み出て「こんにちは」と頭を下げる彼女には比奈埼が信頼できる人物に見えるのだろうか。


 僕には納得できない。


「あたしは一ノ瀬まどかっていいます。りつ君のお知り合いなんですか?」


「知り合いってほどじゃないけど……まあ、そうかも?」


「大家さんに用事があって来たんですよね? もしよかったら案内しますよ」


「本当かい? なんて常識的な子なんだ。そこの君とは大違いだね」


「むっ」


 比奈埼がわざとらしく言う。ささいな事をいちいち当てつけるのは男としてどうなのだ。高校生が自分の身を守るのは当然だろう。


「でも、大丈夫だよ。大家さんの居場所は分かるから」


「そうですか? でも、あたし達もちょうどアメシストに行こうと思っていたんです。一緒に行きましょう?」


 一ノ瀬さんは比奈埼の言葉なんて聞いていないように言葉を続けた。たぶん僕が変態と言ったのをそのまま信じているのだろう。比奈埼に反論の隙を与えずカフェに付いて行こうとする。きっと、比奈埼が用を終えるまでついて回るつもりだろう。


 ついに根負けした比奈埼が「え……まあ、いいけど……」と俯くと「ふふん」とこっそり僕を振り返った。


「あたし達で宵歌ちゃんを守ろうね」


 ちょっと適当な事を言っただけなのにずいぶんと面倒な事になってしまった。


     ☆☆☆


 さて、カフェでは宵歌が今日も元気に働いていた。


「だいぶ慣れたんじゃない?」


「えへへ、そうですか?」


「もうコーヒーのブレンドもできるようになったんだろ? 私が教える事はあんまりなさそうだね」


「好きな事だけは覚えるのが早いって、昔から褒められてたんです。りつに」


「それ、褒めてないんじゃないかなぁ……」


 フリフリのメイド服もずいぶんと板についてきて、ごわごわのスカートや中に履くドロワーズに違和感も抱かなくなったようだ。


 宵歌は新しい制服に上機嫌であった。着物ではない。それだけでワクワクしてくるのを抑えられない。ここが天職なのだ。これが本当の自分なんだ。


 生まれ変わったような気分であった。


「本当に楽しいんです。こんな可愛い服を着たこともないし、髪だって可愛くセットしてもらえて、ぜんぶが新鮮です!」


 旅館でお手伝いをしていた頃は出来なかったあんなことやこんなことがすべて許されるのである。あたかも釈放された後のような解放感を覚えるのも仕方のない事だろう。僕だってそうだった。


「よも君も同じこと言ってた。服装自由なのは嬉しいって」


「やっぱり。りつ。たまに制服じゃなくて着流し着てましたもん」


「それバレないの……?」


「バレてましたよ。でも、みんな黙ってました」


「やっぱり。私が渡した服なんてぜんぜん着てこなかったもん」


 大宮さんはまるで僕が悪いみたいな言い方をするが、この人は宵歌が着ているものを僕に渡してきたのだ。なんとも恐ろしい事に宵歌が着ているのは僕のおさがりなのである。


 宵歌は一瞬ぽかんとしたのち「なぜです?」と訊いた。


「可愛い子には可愛い恰好をさせよって言わない?」


「言わないと思います……」


「絶対化けると思うんだよねぇ。あれは逸材だよ」


 あいにく女装の趣味は無いし、やってみたいとも思わないが、この人は出勤するたびに僕を女の子にしようとする。アメシストの手伝いを早々に辞めた理由が分かっていただけるだろう。


「はぁ……。りつも大変だったみたいですね……」


「大変という言い方は失礼だね。そんなこと言うなら彼のメイド服写真を見せてあげないよ?」


「あるんですか……?」


 宵歌が目を輝かせた。


「見たい?」


「……見たい……です………」


 僕の女装写真になんの価値があろうか。絶対に見ない方が良いと僕は思う。しかし宵歌は何かに引っ張られるように大宮さんのスマホを覗き込んだ。そのとき、カフェの電話が鳴った。

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